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血薔薇のヴィクトワール ~悪の令嬢の狡猾で悪辣な生存戦略~

 その日、リュジー領で小規模な反乱が起こった。


 一晩のうちに鎮められる程度のものだったが、暴走するリュジー市民は領主の館の前にまで押し寄せた。

 そうして、その反乱に領主の軍勢と市民の衝突に不幸にもまだ十一歳という幼い少女が巻き込まれる事になった。


 巻き込まれたのは領主の一人娘、ヴィクトワール・マルティナ・ディ・ル・リュジー。

 日に日に増えゆくリュジー市の貧困民に、慈善として手ずから炊き出しのスープを施していたその少女を、市民が盾にしたのだ。


 ヴィクトワールは混乱のさなかで震え、恐怖し、助けを求め…………

 そうして自身を助けるため、領軍の兵によって切り捨てられた市民の血を頭から被った瞬間、ある事を悟った。


 この世界ではあまりにも死が近すぎるという事を。

 自分以外の存在に情を掛ける事は、あまりにも無意味であるという事を。


 つい今朝スープを渡したばかりの市民が兵士の剣に貫かれ、生暖かい血を噴き出し、地に崩折れ、熱狂する人々によって踏み潰されていくのを見ながら。

 幼いヴィクトワールは、冷たく孤独な世界に一人、足を踏み入れる事となったのだ。


 人の死が足蹴にされる、熱狂の最中の絶望によって。





 わたくしの名はヴィクトワール。

 少女は鏡に映る自分の上に、手にした口紅でそう記す。


 鏡に映るのは、薔薇のように鮮やかな赤い髪と金の瞳、ふっくらとした頬。

 宗教画に描かれる天使のような優れた容姿だが、目の縁に出来た色濃い隈と、瞳の奥にどろりと渦巻く冷めきった暗い感情が、その印象を全く別の方向へと塗り潰してしまっている。


「お嬢様?今日はお加減は宜しいのですか?」


 後ろからヴィクトワールの世話役のメイドの声が掛かる。

 少女はどこかぼんやりとした表情で振り返り、「コレット」とメイドの名を呼んだ。

 そうしながら鏡に描いた文字を指先でぐいっと拭う。


「熱は下がったようですが、まだ病み上がりでぼうっとしているようですね。無理をしてはいけませんよお嬢様。さあ、ベッドへ戻りましょう」


 コレットに促されて素直にヴィクトワールはベッドへと戻る。

 だが、ぼうっとしているのは病み上がりのせいではないとヴィクトワールは自覚していた。


 リュジー市民の反乱から三日。

 精神的なショックで熱を出して寝込んでいたヴィクトワールだが、熱そのものはそれほど高熱というわけでもなく、昨日の昼のうちに下がっている。


 しかし熱が下がったというのに、ヴィクトワールにはどこか現実離れした感覚が続いていた。

 何もかもが壁を一枚隔てたように感じられる。

 清々しい朝にも、美味しい食事にも、窓から見下ろす先に未だ残る反乱の爪痕にも、さっぱり心が動かない。

 まるで心が凍りついてしまったようにヴィクトワールには思えた。


「コレット。お父様はどうしているかしら」


 ベッドに座りながら尋ねると、「いつも通り、王都にいますよ」とコレットが答える。

 ヴィクトワールは溜息を吐いた。


 ヴィクトワールの父であるリュジー伯ジョルジュは、あまりにも領地に対し無関心だった。

 王宮で法務官として仕官し、その任給で十分に財を得ている彼には、領地など不要に思えるのだろう。領地の差配は全て家令任せにされている。


 同時に彼は一人娘であるヴィクトワールにもまた感心が無かった。

 領地で反乱が起こっても、それに娘であるヴィクトワールが巻き込まれたとしても、ジョルジュは王宮で自分の仕事に打ち込み、領地に戻って来たりはしない。


「コレット。リュジー市民はどうしているかしら」


 同じような調子でそう尋ねる。

 すると、コレットは少しだけ顔を顰めながら、「酷い有様です」と答える。

 反乱が起こったせいで治安の悪化が激しくなり、商人達が商館をたたんで去り始めた。当然、市内は物流が止まり、飢えた市民たちはあちこちで略奪騒ぎを起こしている。

 最早、大通りを歩く者さえ居ないという。


「そう……」


 反乱が起こる前のヴィクトワールであれば、飢えた市民たちに胸を痛め、炊き出しに精を出したのかもしれない。

 だが今となっては、市民たちの暮らしの悲惨さを聞いても、何も感じない。

 寧ろ、そんな事をすれば、飢えた市民が押し寄せて暴動となり、自分が危険に晒される。外に出るだけで危険なのだから当然だ。

 それに比べて領主の館は安全である。領軍の兵士によって武装した馬車が外から食料を運んでくるし、そのための金もある。兵士が館の警備をしているため、襲われる心配も無い。

 こんな状況下では、自分たちが生きていくために兵士達も裏切ろうとしない。裏切る者がいるとすれば愚か者だけだ。

 同様に、市民を哀れんで食糧を分けるというのも、愚かな事だ。


(死にたくない)


 ヴィクトワールの脳裏に、市民たちの死に様が浮かぶ。

 剣で斬られ、刺され、死に絶えて尚踏みつけられて顧みられない。

 あんな風にはなりたくなかった。


 反乱さえ起こらなければ、貴族であるヴィクトワールがそんな死に方をする事は無い。それは、彼女も分かっていた。

 だが、反乱を起こさないために領民に尽くそうという気持ちにもなれなかった。


(毎日スープの施しをしていた私を、盾にした。私は彼らを苦しめているのではなく、助けていた筈なのに。なら、いくら善政を行っても無駄だわ。疫病や不作といったどうしようもない事で不満を持って、領主の一族やその家臣を憎むのだから)


 炊き出しを行っていたヴィクトワールを捕まえ、兵士達の構える槍の前に突き出した市民たちの事を思うと、ヴィクトワールに憎しみという名の現実感が戻ってくる。


(けれどだからといって彼らを虐げてもいけない。そうすれば、彼らは私達を何が何でも殺そうとするわ)


 ヴィクトワールはゆくゆく、父であるジョルジュの遺産を継ぐ事になる。当然、リュジー領もその遺産の中に含まれる。

 ヴィクトワール自身が領主となるわけではなく、婿を迎えて共同統治の形におさまるのかもしれないが、領民の感情を背負う立場になる事には変わらない。


(どうやれば、殺されないよう、市民を支配する事が出来るかしら……)


 暗く、冷たい感情にヴィクトワールの頭は浸されていく。

 こうして、彼女の狡猾で悪辣な生存戦略は始まった。

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