憑依先は傾城の女狐ガチ悪女!?
末嬉、という名を聞いてピンとくる日本人がどれほどいるのだろう。
軽く説明すると、紀元前云千年という時代の中国の、有ったんだか無かったんだか良く分からないほど古い国、夏后の最後の王様を誑かした悪妃の事だ。女狐妖怪とすら言われた人外の美貌を持ったその女の事を、どこぞの漫画版封神演技を読んだ経験さえ無ければ、絶対に存在すら知らずに一生を終えたに違いないと私は思っている。
ところが現在、私はその漫画の作者に土下座で感謝したいと心から思っていた。イスラム教の人みたいになりそうで実際にはしてないが、東にある我が祖国の未来の偉大な漫画家に向かって地面に額を擦り付けたいと考えていた。
何故かって?答えは簡単。その末嬉とは私の事だからだ。
もう一度言う。
私=末嬉。
いつの間に私は時を駆ける少女(精神体)になったのか。しかも他人の身体を乗っ取っている。いつの間に私はそんな悪霊に以下略。
しかも、しかもだ。私が末嬉の身体に入り込んでしまった時には既に、末嬉は夫である帝桀さんの妃となって四年が過ぎていた。末嬉もうすぐ十七歳。やった、少しだけ若返った、しかも絶世の美少女だ……とか、言っている場合じゃない。冗談じゃない。
さて、この末嬉、一部では大悪女としてその名を知られている。この三年で彼女が行ってきたアレやコレやがざっと脳内を過ぎて行って、同時に私はざっと顔を蒼褪めさせた。
夏后の王様である帝桀さんを散々誑かし(まあ、もともとかなりの暴君愚帝だったんだけど)、宮廷に酒の池を作り、国中の絹を国庫の金で買い集めさせてそれを好きなだけ引き裂いた。他にも他にも、記憶をほじくれば出るわ出るわ、淫奔贅沢残虐三昧の日々の記憶が。
お陰様で、四代前の王様の暴政時代から凋落の一途を辿っていたこの夏后王朝は完全にトドメ刺されて滅亡寸前だった。崖の淵ギリギリでつま先立ちしてる感じ?もうね、すぐにでも滅ぶよねってくらい。まあその、史実ではこの代で滅ぶようだし、ぶっちゃけ末嬉に憑依しただけの未来人である私には完全に他人事なんだけど。
そんな私の今の所の唯一の懸念が、今の私の身体こと末嬉ちゃんの死である。
この夏后王朝の滅亡は、次の王朝である殷という国の建国者による革命によって齎される予定、の筈である。それが正しいのかどうか、ちろっとファンタジー要素満載の漫画を読んだだけの私には分かる筈も無いのだが、とりあえず正しい歴史だと仮定してみる。
某パリはベルサイユを舞台に繰り広げられたフランス最後の王妃の漫画では、王族此れ皆死刑だったと思う。新しい国を造るには、以前の国の王族というのは兎角邪魔くさい存在なのだろう。
そこから導き出される簡単なメソッド。夏后王朝が滅ぶという事は、その滅亡を加速させている末嬉はどう考えても処刑対象だ。
私はおもむろに、布が沢山重ねられているせいで非常に重い袖に辟易しながら右手を持ち上げて、そして自分の頬を軽く抓ってみた。
「……痛いわ」
ぽろ、と口から零れるようにして出た言葉に、自分自身で少し驚く。確かに自分の喉が震える感覚があるのに、響いて聞こえてきた声は美しい弦楽器の音色のように甘やかで、強烈な違和感があった。
とりあえず、頬を抓ったら痛みを感じた。思わずながら声が出て、それを聞いた。これは重要な事実である。つまり、私は末嬉の身体の五感を支配し、その行動の全てを支配出来るのだ。
取り分け今考えねばならないのは痛覚である。痛みを感じるという事は、処刑される時には死ぬほどの痛みを感じるという事だ。それまでに元の世界に帰れれば良いが、それがいつになるのか私には分からない。
もし、その瞬間が来る前に、処刑の時が訪れたとしたら?
考えて、一人ぞっとした。ぶるりと震える肩を自分の手で抱きかかえたが、視界に移ったその白魚の手すら今は少し気持ち悪く思える。
「死んで、堪るか……」
戦慄く唇から、震える声が更に転がり出て来た。高級な絹の着物に皺が寄るのも気にせず、ギュッと両手の平を握り締める。
「史実が、なんだ。歴史がなんだ。絶っ対に、死んで堪るもんですか!」
強い口調で言い放ったそれは、まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
◇◆◇◆◇
ともかく、取り敢えず何から出来るか考えなければならない。疲れにどさりと椅子に身を投げると、木で出来ただけの椅子におしりと背を強かに打ち付ける事になった。
涙目になりながら座り直す。そうか、この時代に柔らかい椅子なんかある訳無いか。綿入りのクッションが申し訳程度に置かれているが、綿が少なくてあまり効果が無い。
現実離れした現状と、猶予の無い死への恐怖に頭が痛む。顔を顰めて額を抑え、やはり袖が重くて邪魔だと思った。
「とにかく、滅亡回避が最も安心かな……?」
夏后王朝が滅亡せずにいれば……言い換えれば、諸侯の反逆をどうにか起こさないように出来れば、私一人が処刑される事はないと思う。本当にそうかは確信が持てない。
だって私は政治家でも何でもない、ただの零細企業の雑務係二年目の凡人なのだ。そんな国家の防衛だの、再建だの、的確な判断なんか出来る筈も無い。
無い無いだらけで嫌になってくる。
はあ、ととうとう溜息をついたその時、すぐ後ろから人の気配がした。
「何を憂う、末嬉。我が妃よ」
──うわ、何だこの声。
ぞくん、と腰が勝手に跳ねた。心臓がばくばくと疾走し始めて、身体が火照って熱くなる。
耳に吹き込まれたその声は、とんでもなく蕩けた美声だった。艷めいたと言ったほうが良いかもしれない。たった一言で腰が砕ける程の、色気をたっぷりと含んだ低音だった。
「て……帝桀、さま……」
逆上せたように頭に靄がかかってぼーっとする。身体が全く私の意思に従おうとしない。
何だこれ、何だこれ?
末嬉の記憶を探ってみても、こんな風になった覚えは一度も無かった。──ついでに、末嬉が何をどうやったのか未だに処女であるという事実も掘り出した。え、寵姫として宮廷にいるのにまだ清らかな身を保ったままとか、本当に末嬉ちゃん何をどう転がして躱し続けて来たんだ?
「ほう……今日は随分と、可愛らしい反応をするではないか」
つい、と私の顎に(いや、正確には末嬉の顎だけど。細く尖り気味で、びっくりするほど小さい顎だ)、後ろからすらりと長く細い指先が掛けられた。末嬉の手と比べても遜色無いくらい綺麗な手だが、末嬉の手よりやはりかなり骨張っていて大きく、何処からどう見ても男の手だった。
その指先は少しずつ力を込めて、私の顔に右を向かせた。そこにあったものを見た瞬間、心臓が止まるか口から出るかというような衝撃に襲われた。
「て、……っ」
帝桀、とその人の名を呼ぶ事は最早出来なかった。息の仕方を忘れる程、極上に美しい男がそこにいた。
何だこれ。妖怪変化か何かなの?
稀代の美悪女であるという末嬉ちゃんの事を女狐だと評した私だが、寧ろこの帝桀の方が狐の化生のような美貌だ。
末嬉の記憶の中にはきちんとその妖しい色気たっぷりの顔が存在していたのに、実際に見るまではそうと感じなかったのも謎だ。もしかして記憶は引き継いだけど、感情や思考回路といった人格は私だけのものしか無いのかもしれない。
ちなみに、私は末嬉ちゃんの御尊顔はまだ拝見していない。記憶の中には三年くらい前に何かの金属を磨いて出来た鏡を覗き込んだ際の美しい顔があるのだが、やはり実感が伴わない。
後で自分で確認するつもりではいるが、こんな人外の美貌を持った皇帝を骨抜きにするほどの美姫って、最早それは人ではない気がするんだけど?
「さて……今日は何をする、末嬉?そろそろ乙女を捧げるか?それともいつもの通り、余を楽しませるか?お前に懸想する男を、お前が甚振り殺す余興で」
その美貌の男、帝桀は、毒のような色香をたっぷりと混ぜた声を耳に吹き込んでくる。というか、普段行ってる余興?懸想する男を甚振り殺す?
吹き込まれた内容に、さぁーッと頭から血が失せてゆく。
もう一度記憶をひっくり返すと、今度は末嬉目線の数々の非道な行いだけでなく、その心の声も一緒に再生された。多分、末嬉がその時に思い浮かべていた思考の声だ。
(ごめんなさい、でも、わたくしあの男と契りたくないの。囚われたら二度と逃げられぬ。あの男は真、人ではない。それに、わたくしに懸想などしたお前が悪いのよ。だから、せめて私が殺して差し上げる。あの男が、帝桀が、もっと残虐で非道な辱めをお前にするまえに、わたくしがこの手で)
末嬉は、帝桀によって攻め滅ぼされた氏族の生き残りだ。まだ成熟しきらぬ身でありながら、見るもの全ての心を奪い去る程の美姫であって、その美貌を欲した帝桀によってたった一人、まともに生き長らえた。
盗み聞いた末嬉の心は、全く持って複雑に絡み合っていた。まず末嬉は美しい帝桀に確実に魅せられ、心惹かれている。しかし、親兄弟は愚か一族郎党を殺し回り、奴隷の身分に落としたのも帝桀その人であった。
だからこそ、末嬉は彼に未だに身体を赦そうとしない。その代わり、残虐な帝桀を楽しませるべく様々な余興にて乙女を保つ事を許されてきた。
……その余興こそが、私の死の恐怖になる原因そのもの何だけど。徐々に要求をエスカレートさせる帝桀を満足させるべく、末嬉の行いもまた残虐性と派手な演出は徐々に規模を増していっている。国を、滅ぼそうとする程に。
随分前に書いていたやつ。悪役転生と被るのと、夏王朝の資料が思ったより手に入らなかったのでお蔵入り。