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失楽園2

 ママ、わたし、お腹減った……。

 自分よりガリガリに痩せ細った女を見上げてそう言うと、彼女は覚束ない歩みをぎこちなく止めて、表情の無い疲れた顔のままにぼろぼろと泣きだした。

「ごめんね、マリア。ご飯は無いわ……」

 泣かせるつもりはなかった。ただ二日に及ぶ絶食による空腹を訴えたかっただけだった。けれど幼い自分の不用意な発言が彼女の心を傷付けたのだという事は、一瞬にして頭に叩き込まれた。

 どうやってそれを止めたのかはもう思い出せない。多分、おろおろと彼女の泣く姿を眺めるだけに終わったのだと思う。そのうちあまりに遣る瀬無い気持ちが溢れて、自分の頬にも冷たい感触が伝った。


 貧困街の路地裏の影のような、辛うじて生きてるだけのあまりに貧しい親子は、互いを慰める術も知らず、ただ無力に黙って泣くことでしか陰惨な毎日から気を紛らわす事が出来なかった。

 ──いや、慰める意思なんて、最初から無かったのかもしれないけど。ぼくと彼女の間の距離は、他人と同じくらいに遠かった。血の繋がりという以外に、そこには何の関係性も無くて、挟んだ感情はとても希薄なものばかりで。

 何しろ彼女はぼくに、あいうえおさえまともに教えてくれなかった人だから。


□■□■□■□■□■□


 目を覚ます。

 未だに見慣れない天井を暫く眺める。柔らかな寝間着とベッドの感触には流石に慣れざるを得ない日数が過ぎていた。

 日はもうそれなりに高く上がっていて、布の掛かった窓の外からは幼い子供達の甲高い声が聞こえてくる。

 ラザラスの話によれば、ここは孤児院のようなもの、らしい。詳しい話はまだ知らないけど、どうやら孤児院意外にもいろいろと兼ねている施設のようなので、そんな曖昧な呼び方になっている。

 壁を支えにして体を起こし、窓枠の布を捲くってみた。開閉出来ないガラス窓越しの眼下にはこの建物の中庭が拡がっていて、木々の間を色とりどりの小さな頭が動き回っているのが見える。

 その中に、陽光を弾いてえらく眩しくキラキラしている金混じりの赤色を見つけて、ぼくはつっと目を眇めた。

 感心するほど甲斐甲斐しくぼくを看病をしてくれた彼は、子供の面倒見も良いらしい。やや童顔気味の顔立ちとそれほど高くない身長が子供の警戒心を薄れさせるのか、大勢に囲まれた彼は忙しなくあちこちに目を向けて何事か会話をしているようだった。

 綺麗な色だ。ぼくの濁った灰色とは大違いだなぁ。元は真っ黒い色をしていた筈なんだけどな、いつのまにか色素が抜けて、こんなに汚い斑色になってしまった。

 何もする事が無い僕はそのまま暫くぼうっとラザラスの様子を見ていた。彼の指先がクルクルと宙で回されて、きらきらした虹色の光が子供たちの上に降る手品みたいな光景や、子供たちと共に彼が中庭の木々や花を手入れするその様を。

 そうしながら、首を傾げてぼんやりと鈍い頭で考えるのだ。

 ──未だに、よく分からない。何で彼があんなに必死になってぼくを助けたのか、その理由を。

 ラザラスが善良で優しい人間だという事は身に沁みて分かっている。でなければぼくが彼から施された献身的な看護に説明がつかないし、そもそもあんなに子供から慕われる事も無いだろう。

 けれど、そうするとまた疑問が残る。ぼくを水から引き上げた時に彼が垣間見せた激しさだ。

 気づいた時には彼は極めて穏やかな態度でもって、繊細とも言えるほどの手つきでぼくの世話をしてくれていたから、あれは死に掛けのぼくが見た幻覚だったのではないかとすら思う。

 親切な人間が慌てて溺れ死にしかけている人を助けたとして、では何故彼は泣いていたのか、震えていたのか。勿論彼がぼくの生き別れた兄であるという線は無いだろう。けれど、そんな冗談が思い浮かぶくらいには、彼は必死の形相をしていたと思う。少なくともたまたま見かけた他人へ向ける感情じゃなかったことは確かかな。


 ……ふ、と彼が顔を上げた。じっと彼を観察していたぼくは、彼の緑色の目の中に自分が確実に写ったのが分かった。

 ラザラスは一つ瞬きをして、それからふっと緩むように笑んでみせた。形の良い唇が、メイ、とぼくの名前をなぞって動く。あまりに優しいその表情に、ぼくの間抜けな脳みそは一瞬息の吸い方を忘れてしまう。

 なんて表情をする人なのだろう。

 息が詰まったのをトリガーにして、ぼくのすっかりと体力がなくなって脆弱になった心臓が心拍数を上げる。これ以上身体を起こしているのはキツい、というサインた。ぼくはその指示に従ってのろのろと横になった。

 清潔な布の匂いに包まれる。心地良いなあ、と思った。もしかするとあの綺麗な水の中より、もっと気持ちいいかも、なんて。


□■□■□■□■□■□


 ぼくが路地裏にいた頃、時間というのは食事そのものか、食事を得るためのお金を得るために存在していた。

 部屋の中を自由に動ける程度に回復してきた最近──医者ももう折れた骨がくっついたからと診察を止めるそうだ──ぼくはその頃の習性の名残りなのか、無償で与えられる食事と休養の日々に漠然とした不安、焦燥じみた思いを感じるようになってきた。

 人間一人を生かすのにどれほどの労力が必要なのか、ぼくは自分がそれをよく理解している方だと思ってる。だからこそこの生活が酷く異様なものに感じられて、身体が動くようになると不安しか感じられないようになる訳で。

 無教養なぼくになにが出来るかなんてたかが知れてるとは思うけど、僕はある日意を決してラザラスに仕事は無いかと聞いてみた。まだリハビリ途中ではあるから、この建物から追い出されたら困る。けど何の対価も無くいつまでも何もかもを与えられる生活なんて続けられない。だから、なんでもいいからぼくに出来る仕事は無いかな、と。

 ラザラスは困ったような顔をした。

「今のお前に出来そうな仕事は、ちょっと無いかもな」

「……何でも良いんだ、本当に」

「そうは言ってもな。お前、今までにどんな仕事をした事がある?」

 ぼくはちょっと考えて、それまでにやった事のある仕事をざっと振り返ってみた。

「えっと……穴を掘ったりとか、木を切ったりとか。石を積んだり、荷物を運んだり?」

「ほらな。まだリハビリ中のお前にはそんな仕事は与えられないだろ。それにこの施設にはそんな大掛かりな仕事は無えよ」

「そうなんだ」

「動かずに出来そうなものとなると、縫い物なんかだ。出来るのか?」

 縫い物。ぼくは小首を傾げて、それが布に針で糸を通していく事だと曖昧な想像をしてみる。服やら袋やらを作る技術だ。

「経験はないから、出来るかは分からない。練習させてもらえるなら、出来ない事は無いと思う」

 ぼくがきっぱりとそう言うと、ラザラスは少し驚いたような顔をする。そうして、またふと懐かしむかのように、瞼を僅かに眇めた。

「……多分、苦手だと思うけどな」

「そうかもしれないね。でも、やらせて貰えるならやらせて欲しいな」

「わかった。昼食と一緒に道具と材料を持って来てやるから、午後からな」

 彼が頷いてくれて、やっと僕は胸のつっかえが少し取れたように感じる。肩身の狭い思い、とでもいうのだろうか、それがほんの僅かに薄れたような。

 他人に面倒を見て貰う事なんて初めてだから、どうすればいいのか分からなくなる。拙いであろう縫い物仕事なんかでその対価が十分に払えるとは思えないから、まだまだこの思いは多分続くだろうけど。


 結果から言えば、ぼくの縫い物はそれほど酷いものでもなかった。空腹を誤魔化す為なら仕事を選べないような環境にいたぼくは、それなりに器用だったし、何より根気があったらしい。

「……なんだよ。出来るじゃねえか」

 ラザラスがやや不貞腐れたようにそう口を尖らせる。予想が外れたのがそんなに意外だったのかな。

「いや、まあ、でも特別上手いわけでもないよね、あなたと違って」

「……そりゃ、まあな」

 彼の手の中にある見事な刺繍入りのハンカチを見てそう言ったぼくに、彼は微妙な顔をして頷いた。照れたような、それでいて呆れたような、焦れったいほどに様々な感情を綯い交ぜにした表情だ。

「綺麗な模様」

 ぼくの刺繍の見本にと彼の刺した刺繍は粗雑な糸を使っていて、色味が極端に少ないというのに、複雑な模様は絵のように美しい。ぼくがじっとそれを見ていることに気が付いたのか、ラザラスは少しの躊躇いの後、ぽんとその布をぼくの手元に投げた。

「やるよ、それ」

「いいの?」

「手本にでもしろ。そう難しくはない筈だから」

 ぼくはお礼をいうのも忘れて、手の中の小さな布に魅入ってしまう。

 人からこんな風に何か物を貰ったのは、これが初めてだった。喉の奥がじわりと熱くなる。あ、ぼく、今泣きそうだ。みっともない。止まれ、止まれ。

 俯いたぼくの頭に、ぽん、と温い重みが乗せられる。宥めるようにぼくの髪を指先で梳くそれは、泣くまいとするぼくの涙腺を決壊させようと追い詰めていく。

 泣くなよ、ぼく。今泣いたらせっかく貰った美しい布を汚すぞ。

「馬鹿だな。丁度ハンカチを持ってるんだから、それで目元を抑えれば良いだろ」

 ラザラスは仕方ないとばかりに、呆れたような、酷く優しい声でそう言う。

 そんな事、無理だよ。ぼくにはこんな綺麗な布を汚す事なんて出来ない。

 うぐうぐと汚らしい呻き声を噛み殺して、ぼくは嗚咽を飲み下し続ける。それを咎めるように、ラザラスの手のひらもまたぼくの頭を撫で続けた。


□■□■□■□■□■□


 愚鈍な動きをするぼくの面倒を主に見てくれるのはラザラスだけど、他にも生活を手伝ってくれる人はいる。

「腕を少し上げてもらえますか」

「うん」

「はい、大丈夫です」

 未だに満足に部屋の中さえ彷徨くことの出来ないぼくの身体を拭いたり、髪を濯いだり、服を着替える補助をしてくれるのは、ジゼルという名のぼくと同じくらいの年頃の少女だ。

 表情に乏しい彼女の考えている事は分からないが、とても丁寧に世話をしてくれている。恭しい手付きだ、と言ってもいいくらいかもしれない。なのでぼくは彼女にずっと恐縮しっぱなしなのだが、そうするとジゼルの方も何故か恐縮するので、最近は表面上は慣れたように取り繕う事に慣れた。

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