失楽園
不幸自慢をするわけではないんだけど、わりあいぼくの人生には随分な頻度でケチがついていたように思う。
誰にも喋ってはいけないような汚濁めいた日々を生きてきた。
そこを抜け出しても日陰の中からは逃れられずに、最近のぼくは人々の片隅で息を殺して残る死までの毎日を消費してた。きっと誰の記憶にも名前すら残らない、取るに足らない存在として。
だからその日、運の悪い事に他人の遊戯のような裏路地狩りに巻き込まれて身体が動かなくなった時も、まあこんなもんか、位に思ったんだ。
タコ殴りにされた全身は火傷したみたいに腫れ上がって、腐った肉のようにグジュグジュと痛んだけど、そんなのが気にならないくらいにぼくの脳は心地良い陶酔感に浸っていて、まるで自分が地面に蕩けだしたかのような錯覚を楽しんでいた。
想像していたより良い、かも。
口の中の砂と血の味と感触さえなければ、もっと良かったんだけど。大口開けて叫んだのは失敗だったな。
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ごぽ、と掠れる視界に気泡が立ち昇っていく。
ぼくはそれを、夢見心地でぼぅっと見上げた。暗い青に染まった視界に、曖昧な光が射し込んでいた。
ぼくの身体は海藻みたいにゆらゆらと揺れながら、泡と一緒にゆっくりと上昇していく。汚らしく赤く濁る色が自分から滲み出すのだけは、ほんの少し目障りだった。
最後の世界が水の中なんて、なかなか洒落が効いているなぁ。水から産まれて水に死ぬ。回帰願望なんてものを持ち合わせてる訳じゃないけど、全身を気怠いような重たさに包まれて漂うのはかなり気持ちが良い。熱を持った身体からじわじわと温度が奪われていく感覚も、酷く爽快感があるし。
こぽ、こぽ。ぼくの口から幻想的に溢れる白い泡は、少しずつ小さく、少なくなっていった。胸の中にある限りある空気が漏れ出しているのだから、それは当たり前の事だ。吐ききってしまったらもうこの情景を見る事が出来ないのかな──じん、と冷たく痺れる頭で、そんな間抜けな事を考える。
ぼくの全身の感覚は完全に狂ってしまったようで、ぜんぜん苦しさはない。けど、ぼくはちゃんと自分が水の中で溺れている事を自覚している。
自分が死んでるのか、生きてるのか、死んだ後の自分が一体どういう状況になるのか知らないぼくには判断がつかないけれど、このままここにいればこの穏やかな気持ちのまま眠れるのだろうな、という事だけは何となく分かった。
まだ自分が生きているのなら、それっきりぼくは眠ったままになるんだろう。ここが死後の世界なら、また適当な頃合いに意識が覚醒するかも。そうして、こんな風にひどく凪いだ気分であの青い水面を見上げるのだ。
──その静寂を突き破って、人の手が水面の向こう側からぼくへと伸ばされた。
ぼくのボタンの千切れ飛んだ古いコートの襟を強引に掴んで、その白い腕はぐっとぼくを引き上げる。海に浮かぶゴミみたいな存在と化していたぼくの身体は何の抵抗も無く、静かで美しい水の中から、ざぱりと音を立てて空気の中へと戻された。
陽の光は熱く、眩しく、苦痛に溢れる世界へと。
「……おい、しっかりしろ!!」
途端に全身にかっと灼熱が走って、ぼくは自分の喉を壊さんばかりの絶叫を絞り出す。正確には、そうしようとした。実際には肺に満たされた水のせいで息を吸うことさえ出来なかった。
空気の中で溺れる。あんまりにも苦しくて、そうすると不思議な事に自分の意志ではぴくりとも動かなかった身体が勝手に藻掻き出す。
それを抑えつけて、ぼくの喉元を捻り上げる存在がごく乱暴な手つきでぼくの頭を掴み、力づくで引き寄せると思いっきりぼくの口の中へと息を吹き込んだ。
胸の内側に何かが逆流するようなおぞましい感覚がして、それと殆ど同時にぼくの口からは温くなった水がだぱりと飛び出す。それが引き金になったみたいに、ぼくの身体は勝手に呼吸を再開させ、盛大に噎せる事になった。ごぇっ、と殆ど嘔吐くかのように、肺の中の水を全て体外へ押し出そうと全身が内蔵を強引に跳ね上げて。
そうして、ぼくは水混じりにエッジの効いた絶叫を今度こそ振り絞った。水の入った耳にぼやけて随分遠くにそれは聞こえたような気がしたけど、確かに自分自身の悲鳴だった。
もうとっくに酔ったような心地良さなど何処かに消え失せて、ぼくの体にはただただ耐え難い激痛と苦しみだけが残っていた。赤く腫れたた傷だらけの全身はまるで火に炙られているようで、ぼくはその痛みから逃れようと滅茶苦茶に自分の動かせる体の全てを暴れさせる。
まあ、大した動きは出来なかったのだろう。多分その時、ぼくは陸に打ち上げられた魚程度の動きしか出来なかったに違いない。
なぜこんなに苦しくて、痛くて、気が狂いそうなほどなのに、ぼくの脳みそは強制シャットダウンをしてくれないんだろう。話に聞いた限りじゃ皆、酷い痛みや苦しみに晒されたら容易く気絶してしまうという話なのに。
歯を食い縛ろうとしたら、口の中に何かが捻じ込まれてそれを阻まれる。のた打ち回るぼくの身体はぐっと何かに締め付けられ、重いものに圧し掛かられ、ひとつも動けなくなった。
ぽたぽたと顔に水滴が降ってくる。その小さな感覚に必死になって追い縋り、ぼくは気を紛らわせる。唇の端から口の中に滑り込んだ水は塩を含んでいるのかしょっぱかった。ぼくが溺れていたのって、海だったのかな。
気づくとぼくの苦痛の絶叫は、怨嗟の呪いを叫んでた。
どうしてあのまま死なせてくれなかったのかと、身を灼くような苦痛のままにあらん限りの声を張って、ぼくを水の中から引き上げた腕に酷い酷いと意味を為しているかも分からない言葉を吐いて咽び泣く。
多分、ぼくを押さえつけている重たく生々しい熱の塊がその腕の持ち主である事をぼくは辛うじて認識していたんだろう。拘束された体は唯でさえ我慢出来ない全身の痛みへとぼくの意識を向けさせる。助けてくれた──事実的側面からすればそういう事になるだろう──人に対して、ぼくは延々と助けて、殺して、離して、死なせて、とそんな事を繰り返し喚き散らした。
僅かに残った体力が全て失せて、声さえ出なくなるまで、ずっとそうやって泣き喚いていた。少しずつ、頭を支配する痛みの向こう側に、現実感が鮮やかになって戻って来るのを感じながら。
ぼくを抱きしめるその人が震えている事に気が付いたのは、泣いている事に気が付いたのは、それからどれほど経った後だろう。
ぼくは最早呻き声さえ出す気も起きなくなって、虚ろに混濁した頭でただ目の前を見つめていた。
陽の光を感じた筈なのに、ぼくの視界は暗かった。多分、誰かがぼくを抱き込んでいるせいだろう。
その誰かと、ふと目が合う。ずっと泣いているのか、その人は唯でさえぐしゃぐしゃに歪んだ泣き顔を涙でさらに酷い事にしながら、ぼくの事を見ていた。
「────気づくのが遅いんだよ、馬鹿……っ」
鼻声でしゃくり上げながらそんな事を言われても、ぼくの痺れ切った脳はぜんぜん反応してくれないわけで、ぼくは変わらずその人を朦朧としたまま見上げるしかなかったんだけど。
死に掛けたのはぼくの方で、あなたはぼくをたまたま助けただけだろうに。どうしてそんな、死にそうな表情で泣いてるのだろう?
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そうだな。結果として、ぼくは死んだと思う。
そう判断しても全く不都合の無い状態だった。何故かといえば、次に目が覚めた時、ぼくは寝床にしていた薄暗い路地へ戻る手段の一切を失って、自分が自分であると他人に証明するためのものも全て失くして、更に言うと誰一人としてぼくの事を知らず、またぼくもそこにいる人間の事を一つも知らない場所に居たからだ。
元から大したものは持ってなかったけど、完膚無きまでに何もかもが無くなっていた。これを死と呼ぶ事にどんな差支えがあるだろう?ぼくは死後の世界に来た。その一言で多分、全てのカタが付く筈だ。
実際の所ぼくはおそろしく奇妙な状況に陥っていて、非科学的極まりないそれを未だ科学の領域の届いていない存在として説明するなら、死後という言葉を使うしかない。
なんたってぼくが目を覚ましたそこは、明らかに現実じゃない──有体に言うと、魔法じみた不可思議な現象が溢れていたのだから。
明らかに異世界という訳だ。だけどぼくは異世界なんてものは丸っきりSFかファンタジーの物語の中にしか認めていなかったので、ここはあの世という事で落ち着いた。
残念な事に、ぼくの魂がやってきたあの世はどうやら神様のいるという楽園じゃあないらしい。聞いてた話から考えるに、ここは楽園と呼ぶにはあまりに苦痛が多過ぎる。
もしかするとあの水の中の世界こそが楽園だったのかもしれない。あの美しい光景の中では、ぼくはただ、ゆらゆらと漂う心地良さだけを感じていたのだから。安寧とでも言えばいいのか、ただただうっとりと満たされたように凪いだあの時の気分を思い出す。
……そうすると、ぼくは楽園を失ったという訳か。知恵の実を齧った覚えはないんだけどな。
「起きたのか、メイ」
ぼんやりと天井を眺めていたぼくに気付いたのか、部屋の住人が声を掛けてきた。
「……うん」
ぼくがぼんやりと輪郭の無い、草臥れて掠れた声で返事を返すと、彼──ラザラスはとても驚いたみたいだった。無理もない。何しろぼくが彼の手によって水の中から引き上げられた日からもう一月近い時間が流れている訳だけど、ぼくが彼に返事をしたのはこれが初めてだったのだから。
全身傷だらけの上に大怪我で体力を一気に失ったぼくは、あの後すぐに高熱を出して彼の家に運び込まれて、そのままずっとぼんやりと寝ているだけの生活を今の今まで続けてきていた。まあ、数ヶ所骨折してるところもあるし、水の中に居たせいで失血も酷かったし。死後の世界で再度死ぬというのもおかしいけど、生死の境をうろうろすると言うのがピッタリな容態に陥っていた訳で。
3/4くらい眠ったようにずっと靄のかかったまんまだった頭が急に晴れたのが今日だったってだけで、特にぼくが彼の事を無礼にも無視していたとか、そういう事ではない。
「食事は取れそうか?」
彼が差し出した殆ど液体のような穀物の粥らしきものに、ぼくの胃はぐうと鳴った。ぼくは食べれそうです、と答えようとして、そうする事が大変億劫な事に気が付いて、僅かに縦に首を振ることになった。礼を欠いたという申し訳ない気持ちでぼくはラザラスを見上げたが、彼はとりわけ気にした様子もなく、椅子を引いてぼくの枕元へと腰を下ろす。
「ちょっと待て。今起こしてやるから」
彼はベッドサイドテーブルにコトンと皿を置いて、やけに慎重な手つきでぼくの上半身を引き上げた。う、座る体勢ってこんなにきついものだったかな。ぼくが表情を歪めた事に気づいたのか、ラザラスはすぐに大丈夫か、と声を掛けてくれる。
大丈夫、と言いたかったけれど、残念ながら上半身が縦になってるだけで弱り切ったぼくの身体は悲鳴を上げていた。呼吸が苦しくなって、心臓の脈打つ音が大きく早くなっていくのが胸の奥の方から伝わってくる。頭がくらくらしてさーっと冷たくなり、目の前がチカチカした。どうやら眩暈を起こしているらしい。座っている筈なのに浮遊感がして自分の身体の感覚を失う。
十秒、二十秒……暫く時間の流れさえ分からなくなった後、ようやく眩暈は収まった。ラザラスの手がしっかりと支えてくれていたおかげで壁やヘッドボードに頭を打ち付ける、なんて事態は免れたみたいだ。
もう大丈夫です、と蚊が飛ぶ羽音のような情けない声を出す。じっとぼくを観察する彼の目が、ふっと細められた。
──?なんだろう、今の表情。まるで何かを懐かしむような、そんな印象を受けた。いや、ぼくの人生において懐かしまれるような接点のあった他人なんてものは存在しないから、多分気のせいだとは思うけど。




