魔術師と華燭に焼ける2
英璃は一瞬言葉に詰まった。
変わったデザインのロングコートを着たその人──多分、声からすると男だろう──は、どう見ても日本人には見えない顔立ちだった。
しかし、単に外国の人だと評するにも憚られる気がした。英璃には良く分からなかったという方が正しい。日本人には見えないが、では何人に見えるのかと言われても、答えられないような、そんな不思議な顔立ちだった。
「ぇ……っと……、あなた……」
突然の事で頭が回らない。英璃は何と言えば良いかも分からないまま、ようやくそんな風に声を絞り出す。
「それも『夜人』だとは。考えもしなかったな……」
そんな英璃に構わず、男は何やら一人で呟いて、ふっと僅かに笑った。
「よるびと……?」
「ああ、混乱していても無理もない。お前は何も知らなくて当然だから、気にせずにいて良い」
聞き慣れない単語をもごもごと呟いた英璃に、男はあっさりとそう言うと、英璃の殺した動物の死骸へと目を向けた。ハサミはまだ突き刺さったままで、もうぴくりとも動かない。
「あれを食べようと思ったんだろう?」
男が指差す先を見て、英璃は顔を青褪めさせた。けれど、ゆっくりと頷く。動物を殺した、なんてあまりにも残酷な行為を、理由もなしに行った事にはしたくなかった。
「……うちに竈がある。焚き火よりは調理がしやすいだろう。ついておいで」
え、と英璃は視線を彷徨わせた。人里へと戻るために男に案内を頼もうとは考えていたが、男の提案はまるっきり予想の斜め上のものだった。
男の家がどこにあるのかは知らないが、もしこの森から人の住む所へ戻れるなら、この動物を食べる必要は無い筈だ。
英璃はどうしようも無い空腹に負けて食用かも分からない野生動物を無理矢理食べようとしていただけである。無為に命を奪ってしまった事にはなるが、丁寧に弔えば、それでよくはないだろうか。
迷う英璃に構わず、男は動物の死骸を拾い上げ、視線で英璃を促す。英璃は困惑しながらも、とりあえず木の根の虚から自分の鞄を引き摺り出した。
「……どのくらいここに?」
「え?えっと……三日です」
「そうか。随分知恵を絞ったな。どこに落ちてきたかは知らないが、水場に留まったのは賢い選択だ。火と水の使い方を心得ている。お前には素質がありそうだ」
褒められているのだろうか……?男の言う事が良く分からず、英璃は首を傾げる。男は気にした様子も無く、すいと手を伸ばして英璃の腕を掴んだ。
次の瞬間、英璃は眩暈がしたような気分になった。
実際空腹のせいで眩暈を起こしていたのかもしれない。だが、英璃は眩暈の原因を別のものだとはっきりと認識した。
気付くと英璃は屋内に立っていた。薄暗い森の中からあまりにも唐突に四角い部屋の中央に立っていたのだ。
何が起こったのか分からず、極度の混乱に突き落とされた頭が現実逃避に眩暈を起こしたのだと、そう英璃は考えた。空腹で意識が朦朧としていて、気付かないうちに男の家までやって来たのだと、無理矢理そう思う事にした。
「大丈夫か?」
英璃の腕を握ったまま向き合うようにして立つ男は涼し気な顔を僅かに傾ける。英璃が思わず頷くと、男は薄っすらと微笑のような表情を浮かべた。
「あの……ここは?」
「俺の家だ。言っただろう?うちに竈があるから、ついておいでと」
英璃は何だか納得の行かないような気分になった。
「混乱するのも無理もない、とも言った筈だ。ともかく、まずはテーブルに着いて何か食べよう。精霊を食べようと思ったくらいだから、碌に食事をしていなかったんだろう?」
男は力の入らない英璃の腕を引いて、建物の中をするすると移動していった。解せないのは英璃の立っていた部屋が二階部分にあった事だ。男が英璃を連れて行ったダイニングキッチンらしき部屋は一階の、玄関ホールのすぐ脇にあった。何故それを通り過ぎて二階の部屋に居たのだろう?英璃は内心で首を傾げ続ける。
「座って」
男に言われるまま、英璃は三日ぶりに木製のダイニングチェアへと腰を下ろす。すると男の手が英璃の頭に一瞬乗せられ、それからキッチンの方へと男が離れて行く。
英璃は今更ながらに三日も風呂に入れていない事を思い出した。顔くらいは湧き水で洗っていたが、流石に頭まではどうしようもない。飲み水でもある湧き水の中に頭を突っ込む訳にもいかず、脂のついた髪を仕方なくそのままにしてあった。
とはいえ男に風呂を貸して欲しいとは言い出せず、英璃は非常に気まずい思いのまま俯く。そうしているうちに、男が英璃の前のテーブルにコトリと何かを置いた。何かと思って顔を上げると、目の前にお粥のようなものが木のお椀の中で湯気を立てていた。
「食べなさい」
「すみません……頂きます」
木の匙で掬って食べたそれは、なんだかグラノーラを薄い塩味にして牛乳にふやかし過ぎたもののような食感だった。茶色っぽい色なのでお米のお粥ではないとは分かっていたが、それにしても口慣れない食べ物だ。
とはいえ空腹を越えて飢えを感じていた英璃の手は、椀の中身が綺麗に無くなるまで止まらなかった。
あまり量が多い訳でもなかったが、英璃は丁度良いくらいに自分の腹が膨れたのを感じた。殆ど絶食していたような二日の間に量を食べられなくなっていたらしい。
「これを」
甲斐甲斐しく椀を下げてくれた男は、今度はカップにお茶のようなものを二つ、英璃の前に置く。
「お茶……?」
「片方は胃腸の緊張を和らげる薬湯。もう片方は虫下しだ」
水を飲んでいたのだろう?と男は付け足す。英璃は納得し、有り難く二つの薬を飲んだ。
「さて、一心地ついたか?」
「はい。生き返ったような感じです。ありがとうございます」
「なら少し話をしよう。お前も気になっている事がおそらくあるだろうしな」
男の口調はどこまでも穏やかだ。英璃は自分でも不思議なくらいに安堵を感じている事に気がついた。人の営みが存在する場所に戻ってこれたから、知らずのうちに張り詰めさせていた緊張の糸が伸び切ってしまったのかもしれない。
「まあ、とりあえずこの事だけは先に伝えておこう。お前はこの世界の者ではない。この世界は、お前の生きてきたものとは完全に別のものだ」




