魔術師と華燭に焼ける
ぼろ、と。足の裏の地面が崩れ落ちたような感覚がした。そんな筈無い、だって今の私が立っているのはアスファルトの上だ──そんな風に思えども、英璃の身体は急速に落下していった。
それが、彼女が自分の世界を失った瞬間だった。
暗転。
ぱちんと泡が割れるような、そんな風に目を覚ます。
既にそこには英璃の見知った景色は無い。
「え……?」
呆然と、英璃の半開きの口元から、そんな声が零れて落ちる。あまりにも現実離れした事が起こり、彼女の頭は上手く物事を把握出来ていなかった。
いつの間にか英璃が座り込んでいたのは、まるで映画にでも出て来そうな、大樹の茂る鬱蒼とした森の中の、湧き水の畔だった。
手元には普段使いの鞄が無造作に転がり、身体は自分が今朝着込んだ通り、着膨れた真冬用の格好をしている。
それだけが英璃がすぐに認識できる現実的なもので、きょろきょろとあたりを見回しても、一向に人工物らしきものは見えない。
これまでの生活でコンクリートで覆われた街から殆ど出た覚えの無い英璃には、それだけで充分に恐怖が感じられた。
「どこ……ここ、どこ……」
誰が聞いてくれている訳でもないというのに、自分を無意識に落ち着けようとするためか、英璃の口からは勝手に不安そうな涙声がぽろぽろと落ちる。
そうしながら湧き水の畔をうろうろとしてみたが、森の中の事など何一つ知らない英璃には、何処を見ても同じような光景が続いている事しか分からなかった。
得体の知れない状況への不安と恐怖で胸が苦しくなる。
混乱した頭でも、湧き水の傍から動くべきではないと判断できたのは、偏に英璃が水の大切さを知っているからだ。
水がないと人は生きていけないのだ、だから何があってもいいように常に家の中に水を置いておくのだと、母親が毎度のように言っていたおかげだった。
森の中を探っても行き先を見い出せなかった英璃は結局、湧き水の畔で救助を待つ事にした。
何処とも分からぬ場所に突然放り出されて、水源から離れて彷徨く事の出来る程、英璃は決断力のある女でも、大人でもなかった。
◆◇◆◇
湧き水の畔の大樹の根本は虚になっていて、英璃はその中でも最も広そうなものを見つけると、そこに潜り込んだ。穴を堀広げて自分がその中へ身を横たえられるようにし、枯れ葉を焚いて虫除けを行い、コートを敷物にして塒を作った。
鞄が手元にあったのは運が良かった、と幾分落ち着きを取り戻した英璃は嘆息する。
特に都合の良い事に、友人への誕生日プレゼントとして用意していた小さなアロマキャンドルと点火用のマッチが入っていたのは、今の英璃にとっては救いにすら思えた。
火と水は人が生きる上でどうしても必要になるものだ。自力で火を起こす方法など知らない英璃は、この不幸の中の小さな幸運を大事にしようと心から思えた。
一日目はかばんに入っていた非常食代わりのクッキーに似た栄養調整食品を食べ、二日目はキャラメルや飴といった小粒の甘味で凌いだ。
山で遭難した時はなるべく動かずにいるんだよと小学生の頃に教わった通り、英璃は二日間の殆どを大樹の下でじっと過ごした。
三日目はもう限界だった。
彼女の吐き気さえ催す強烈な空腹は、最早水では誤魔化せなくなっていた。
英璃は息を殺して、木の根の隙間から湧き水の畔を静かに見つめていた。
身を動かさぬように蹲っていた二日間で、その湧き水を何か生物が訪れている事に英璃は気付いていた。
音や気配からすると、ウサギくらいの大きさの小動物だろうか。森に住む生き物が水を飲みに来ているのだろう。
それを殺して、焼いて食べる。
英璃には最早それ以外の生存の道は無いと思えた。
とはいえ、どうやって警戒心の強いであろう野生の生き物を狩るのか。何か武器代わりになりそうなものといえば、せいぜい鞄の中の筆箱に入ったカッターやハサミである。
英璃は暫く考えた後、何も思い浮かぶ事が出来ずに考えるのをやめた。とにかく獲物がどんなものか、確認してからにしようと思ったのだ。
息を潜めて、どのくらいが経ったか──既に二日もじっと蹲り続けた英璃には、その時間は最早苦ではなかった。
こんなに深い森では、大型の肉食獣がいつ自分を見つけるとも分からない。怯えて気配を殺すのにも既に慣れた気でいた。
森に詳しい訳ではない英璃でも、この森が全く自然なものであるという事には薄々勘付いていた。という事は、森の獣もそのままという事だろう。人の手の入った森は、下草のために日の光を入れると授業で習った事があったからだ。真面目に授業を受けていて良かったと英璃は思うばかりである。
ふと、湧き水の畔に何か小さなものが動いたのが見えた。
大きさはやはりウサギ程で、白く毛足の長い毛皮に覆われているが、何故か耳は長くない。その謎の動物は警戒の無さそうな様子でひょこひょこと湧き水のふちまで近付いて、水面を舐める。
英璃にはそれが随分無防備なように見えた。
英璃は逆手にハサミを握りしめて、そっと木の根から這い出した。
白い動物はまだ水を飲んでいる。
足音を殺して、ゆっくりと近付く。
獲物は少しも動かない。
英璃は祈るような思いで、ハサミの刃をその動物へと振り下ろした。
動物は呆気なく動かなくなった。
ハサミの刃が突き刺さった部分から、白かった毛皮がじわじわと赤色に染まっていく。
英璃は恐ろしい事をしてしまったと今更ながらに震えた。肉のある生き物を殺すのは初めての事で、現代社会に慣れ親しんだ英璃にはあまりにも残酷に思えた。
けれど、殺したからにはこれを食べなければならない。
そうするために英璃はこの動物を殺めたのだから。
ブルブルと震える両の手に何とかいう事を聞かせて、英璃はゴソゴソと焚き火の用意を始めた。あまりにも身体が冷え切っているので、塒からコートを出して羽織った。
時間としては、十分くらいだろうか。それほど経ってはいないだろう。
突然パキンと小枝の折れるような音が英璃の背後で鳴った。
英璃は反射的に振り返り、そして驚きのあまり軽く首を仰け反らせる。
人がいた。
「驚いた。妖精を食べるつもりか」
そうして、何やら楽しそうな口調でそう英璃に話し掛けたのだ。




