黒影
こんな世界。
白む銀世界の中、全てを呪い尽くして死んでしまおうかと頭の奥で声がする。雪の冷たさは最早認識できない。自分の身体がそれに溶け込んだようだ。
アーヴァは憎悪に塗れた瞳を重い灰色の空へ向けた。
血濡れた身体を引き摺り起こして、申し訳程度に身を包む襤褸布を掻き抱く。周囲を見回しても己の剣は無く、それを持ち去ったであろう者達の横顔が脳裏を掠めて、アーヴァは身を焼き尽くしそうな程の怒りを感じた。
絶対に殺す。
誓う先は自分の魂だけだった。
***
アーヴァは元々、異世界から召喚された少女だった。名前はもう、覚えていない。とても平和な世界から来た。
その日のことは鮮明に覚えている。赤い海の中、呆然と立ち尽くす自分に、魔術師達が駆け寄ってアーヴァを取り巻く。
貴女だけにしか出来ない事があるのだと懇願されて、まだお人好しの子供だったアーヴァは、のこのこと彼らに着いていった。
緋国の城の地下深くにある水牢の中へと繋がれてから、彼女は恐ろしい事に巻き込まれたのだと気づいたのだった。
アーヴァの身は魔力に溢れていた。その魔力は、元の世界ではなんの力も持たないが、魔力が実際に強大な力となるこの世界では、アーヴァのそれは遺憾なく甚大なエネルギーとして働いた。北の大陸にいるという魔族と同様にアーヴァの老いは気が遠くなるほど伸びて、食事も必要としなくなった。余剰の魔力は魔術師達によって緋国の国土全てを覆う結界に注ぎこまれた。
水牢の中では正確な時間はわからなかったが、おそらく二十年は過ぎたと思う。緋国は隣国の紅国との戦争に敗北したという。動乱の最中緋国の王の首がその実の息子により刎ねられて、元首は挿げ替わった。
「この目障りな無能者共を全て殺すがいい」
唐突に城の地下へ訪れた新たな王は、そこに居た全ての魔術師と、それから水牢に繋がれたアーヴァを捉え、前王の首と共に紅国へと差し出した。
紅国はそれを緋国の民衆の前に引きずり出した。訳もわからないまま、自分の結界に守られていた筈の者達が投げた石で、アーヴァの右腕の骨は砕かれた。寄生虫共め、と劈く叫び声がアーヴァの耳には今も残っている。
そしてその後、紅国の支配者達はアーヴァと魔術師達に、贖罪として南の森の封印を命じた。
南の森には世界の裂け目があり、そこから這い出した悪魔共によって、そこにあった小国は僅か半年で滅亡した。悪魔は人と契約してその運命を破滅させる。
仕事が無事に終わるまでは帰還も逃亡も赦さない、と魔術によって心臓を握られて、アーヴァは生き延びる為に剣を取った。アーヴァには膨大な魔力があったが、それを使う術はない。悪魔と殺し合いをするうちに剣の使い方は身につけた。時に魔術師を生きた盾として利用して。
命からがら森を封じて帰還したアーヴァと二人の魔術師は処刑が決まっていた。生き残った魔術師はアーヴァがただ召喚されて魔力の供給源にされた娘だという事を己の身可愛さに売った。話は瞬く間に紅国と緋国の二国間に広まった。アーヴァの魔力を根こそぎ取り上げてしまえと言った紅国の導師によりそれは行われ、そしてアーヴァの身は緋国へと送り返された。
本来であればアーヴァは緋国の王の元へと送られる筈だったが、彼女を移送する手筈だった緋国の民がそれを裏切った。
アーヴァは死にかける程に殴られ蹴りつけられ、今、この雪山へと投げ捨てられている。
***
朦朧とした意識で、自分の覚束ない足取りを見ていた。
木々の中をふらふらと歩いていても、休めそうな場所は見つからない。動き始めたからか、戻ってきた体温は寒さと冷たさをアーヴァに思い出させて、悴む指先を忌々しげに彼女は睨めつけた。どうせ魔力のお陰で凍傷にすらならないのだから、という理由で手足を暖めようとも思わない。
だが……流石に限界が近かった。動く度に穿たれた腹部の穴から血が滲み出て、アーヴァの体力と体温を確実に削っている。彼女はただ、気力だけで立っているようなものだった。
緋国と紅国の人間を八つ裂きにしてやる。私が何をしたというのだ。私の負わされた理不尽な苦しみと痛みを一人ひとりに同じだけ与えてやる。
憎しみをいくら滾らせても、アーヴァの頭は血が足りなくてくらりと揺れる。意識を失っては、獣に食い殺されてしまう……それだけは避けたいのに、アーヴァの意思に反して彼女の膝はかくりと折れて雪の中に落ちた。鮮血がぱたぱたと音を立てて零れる。
何か一つが崩れてしまえば、他も引き摺られるように崩れるのは速かった。雪の中に埋もれて、痙攣するように何度かアーヴァは震えた。
それきり、彼女の視界は暗転した。
***
目覚めがあった事にアーヴァは驚きを隠せなかった。暖かな火の爆ぜる音と、自身の鼓動だけが聞こえる。温い柔らかな布にくるまれていて、寝かされているのだと気付くのに暫くかかった。
ここはどこだ?
瞼を押し上げて、そこが洞窟の中であるようだという事に気がつく。誰かに助けられたか、と思い至り、彼女はきつく唇を噛んだ。
「気がついたか?」
視界の外側から気遣わしげな声が掛けられて、アーヴァは冷めた視線をそちらに向ける。炎に照らし出された一人の男がアーヴァを気遣わしげに見つめていた。
「……うん。」
「何があったか聞かせてもらってもいいか?」
こっちが聞きたいくらいだ、と、アーヴァは黙り込んだ。彼女は何一つ事情がわからないまま緋国と紅国によって痛めつけられた果てにここにいるのだ。
「言いたくないのか、分からないのか……まあいい。どうせ私には聞いても分からない。」
淡々とした声色の真意は掴めない。アーヴァの事を知った瞬間殺しにかかってくるかもしれない、と、彼女はその警戒心を隠しもしなかった。男は気付いているはずだが、涼しい顔で流している。
「答えられることだけ教えてくれないか。助けた人間を持て余すのは嫌だからな。」
薄暗ーい復讐記になる予定だったもの。途中まで書いて、暫く放っておいたら続きを忘れて書けなくなってしまったのでお蔵入り。




