③④⑤
〔3〕 十二月十五日
「頼みがある」
神戸三宮の商店街の一角。薄汚れた外壁のビルに占い館を抱える黒宮白陽の元へ私は再び足を運んでいた。相変わらず彼女は知る人ぞ知る占い師らしく、多くの女性客達が彼女の鑑定を心待ちにしているようである。
制限時間は三十分。黒宮には大勢の予約客を抱えている為に、決して長話をしている暇などはないのだ。私は五年という付き合いがある為に、偶々優遇してもらい、予約を取る事が出来ただけである。制限時間以内に、彼女に協力を依頼しなくてはならぬという重圧に私は押しつぶされそうであった。
「あら? 半年ぶりに顔を見せたっていうのに随分な挨拶ね。それとも職業病かしら。家に引き籠ってばかりいるから、人との接し方が分からない」
黒宮は意地悪を言った。
「やめろ。人の心に土足にふみいるのは関心しないな。それも職業病か?」
「失礼な人ね。――んで、今日は何の相談かしら。――また小説のアイディアが出ないとか言うくだらない相談じゃないでしょうね。――言っておくけど、そんな悩みを占いに頼ろうとする時点で貴方は無能よ」
黒宮はクスクスと笑っている。
いつもの事である。
彼女はいつだって、この若造をからかわなければ気が済まないのだ。
「言っていろ。――まぁ、そんな冗談を言い合っている場合じゃない。今回は真面目な話なんだ。貴女の力と頭脳を借りたくてここに来た」
私が柄にもなく丁寧に頭を下げたものだから、紅いテーブルクロスから上半身だけ覗かせる占術師は、訝しんでいるようである。
「自我が強くて、こうと決めた事は、絶対に実行しないと気が済まない。その癖、些細な事ですぐに傷ついてしまう小心者。二重人格のような貴方が頭を下げている。――ふふふ、本当に真面目な話のようね」
「そう。大真面目だ」
「聞かせて貰おうじゃない。勿論値引きなんてしないわよ」
私はテーブルの上に三千円を突き出し、福沢美奈子の一件について話をした。
「――宗教ねぇ」
黒宮は、唖首をしながらだらしない口調で呟く。
「福沢一家は、崩壊する寸前なんだ。だが、僕の力だけじゃ、秀雄さんを救う事が出来ない。そんな気がしてね。――それで、貴女の巧みな話術で、秀雄さんの眼を覚まさせて欲しいんだ」
「宗教は信仰の自由でしょ。好きにやらせておけばいいじゃない。――神の存在を信じるか、信じないかは、その人次第。ちなみに私は神を信じているわ。だけど、宗教には属していない。フリーで活動しているだけ。要するに私と、その人は、結局のところ同類なのだから、そんな私に彼を救えったってお角違いもいいところよ」
「神がいるいないの話をしているんじゃないんだ。――僕は人宝教から秀雄さんを脱退させる手段がないのか? あるなら力を貸してほしいということを言いたい」
「――難しい相談ね。心の中に一度芽生えた信心は、他人の力でどうこうなるものではないから。神様っていうのは残酷で、時に人の心を壊してしまうの。間違った神のお告げを信じ、絶望の果てに堕ち、気づいた時には、すでに全てを失ったっていう人なんて、世の中にはいくらでもいるわ。その人だけが特別じゃない。正しい神様は、人を救う事が出来る人間しか導く事はない。清い心にしか神は宿らないの。それを神通力というわ。ただしこの神通力を持つ人間が世界中にどれだけいるか――あら、話が脱線しちゃったわね。まぁ、その人が心底その宗教団体を信じてしまっている以上、ちょっとやそっとの事じゃ動じる事はないでしょうね」
どこまでが本気で、どこまでがふざけているのか、本当に分からない女である。
「そんな事は分かっている。だから、貴女に頼みに来たんじゃないか」
「はいはい。分かったわよ。だからそんなに大きな声出さないで」
ここで漸く黒宮は真剣な表情を作った。
彼女は黙りこんで何かを考えているようである。
無防備な艶やかな朱唇に、豊満な胸の谷間が、
何とも忌わしい。
黒宮は何かに耳を傾けているのだろうか。手の平を耳に当てている。
真に不思議な女である。
神通力――
それが、黒宮には宿っているとでも言うのだろうか。
蒼い瞳が私を捉える。私は、海や空を彷彿とさせる蒼に吸い込まれ動けなくなった。
「――福沢秀雄は、呪術に囚われ、闇の中を彷徨い歩いている」
「呪術だと?」
「そう――一種のお呪いの様なものよ。宗教はその長である教祖のカリスマ性によって構成されているの。長は信者に、偽りの神や仏の話を説き、信者が救われたという逸話までも生み出して絶望している信者の心を掌握するの。自分たちの都合のいいお伽話を披露して不幸から抜け出せずにいる人達を惑わしている。――そんなイメージが頭に浮かんだわ」
何故――分かるんだ。
本当にこの女は――
頭を強く振った。
そんな事、今はどうでもいい。
「そうだ。秀雄さんは、保城光率いる幹部達や信者の成功秘話を聞かされて、自分も彼らの様に幸福になれると信じている。実際には再就職の目途も経っていないというのに祈ってばかりで、何の行動もしていない。なのに、家の財産を金に変え、団体に貢ぎこんでいる。――どこに幸せがあるっていうんだ」
「――見える。その男の心が。真っ黒な邪気が螺旋階段の様に渦巻いている。そういえば貴方まだ言ってなかったわね。その団体の名前。なんて言うのか教えてくれる」
「人宝教だ」
私がそう言った瞬間、黒宮白陽の蒼い瞳が凍り付いた。
「人宝教――そう。まだその団体が生き残っていたなんて」
心辺りがあるような物言いである。
「知っているのか?」
「少しだけ」
小声で言った後、黒宮は哀切な目を漂わせていた。
「珍しいな。いつもは自分に分からない事なんて無いっていうほどに蘊蓄を披露するのに」
「――流石に興味が無い事は勉強しないわ。人の記憶には容量があるから。――保城っていう名字を貴方がさっき言った時にもしかしたらって思ったんだけど、そう……その団体の教祖は保城時宗ね」
正解である。
「彼の名をどこで知った?」
「――以前、貴方に私の母について話した事があったわね」
私は、追憶する。
「あぁ。覚えているさ」
「空襲でアカネちゃんを失った母、頼子がその後、孤児施設で働いたっていうことも貴方に話した」
私は無言で顎を引く。
しかし、それが一体、人宝教と何の繋がりがあるというのか。
黒宮はその後、流麗な語りでタネを解き明かしてくれた。
「頼子が務めていた戦災孤児施設には、度々不思議な男が訪ねてきたという話を母は幼い私に語り聞かせてくれた。もう大昔の事よ。その男にはね、右腕が無かったの。兵隊だったみたいだけど、負傷によって日本に送り返されたみたい。母は記憶力に乏しい人だったけれど、右腕が無い人なんて早々いないものでしょう。だから母の頭にも鮮明に記憶されていたみたい。ましてや二人は空襲で体に生涯消えない傷痕を背負う者同士だったのだから、打ち解けあうのも時間の問題だった。まだ母が、裏切り者の父と出逢うずっと前の話よ。――母さんが、死ぬ間際の事かしら、よくもう一度その人に逢いたいと呟いていた事は今でも鮮明に覚えてる。その男の名前が保城時宗だった」
「頼子さんは時宗と会った事があるのか」
「えぇ。時宗はよく頼子と共に互いの願いを語り合っていたそう。当時の頼子は醜い火傷のせいで、もう二度と子を産むことはないと思っていたから、施設にいる孤児達と運命を共にするのだと、時宗に語り聞かせていた。――そして時宗もまた、空襲で愛する人を失っている。だけど彼は親を失って尚、施設で笑いを絶やさない子供たちの強い生き方に触れ、自分も何か出来るのではないかと考えていたそうなの。――その結果が、宗教団体の設立だった」
「時宗が人宝教を作ったきっかけが頼子さんだったなんて」
私は思わす言葉を失ってしまった。
何かが、
始まりそうな予感がした。
黒宮の顔はらしくもなく歪んでいる。
「母さん――いつも、あの人の話する時、泣いてた。時宗はね、母に一度だけ想いを告げたことがあったの。だけどもうその時の母には茂雄という想い人がいた。だから、母は――時宗を」
「なるほど。だから頼子さんは、過去を悔いても悔やみきれずに自殺したというわけか。運命の悪戯は残酷だ」
「その後の事は私も母から聞かされてなかった。――でも貴方の話を聞いて漸く分かった。その後の時宗は神戸に流れ、そこで団体を設立したってわけね。そして、かねてから母に打ち明けていた理想郷を築く事に成功した。――だけど、当初の時宗の理想は美しかったはず。どこからその理想は崩れてしまったのか――彼の子孫達によって、人宝教の神は偽りの神に成り下がってしまった。神を信じて疑わない無垢な子羊達から金を徴収し彼らは一体に何をしようとしているの?……」
黒宮は深刻に言った。
さきほどまでふざけていた彼女とはまるで別人の様である。
「現在、団体を仕切っている保城光とはまだ接点はないが、何か裏があるような気がする」
「光とは? 他の誰かとは接点があるというの?」
私は大切な事を言い忘れていることに気づく。
私も信者だったのだ。
黒宮は、早く言いなさい。と言った。私は彼女に信者だと言う事を告白する。
「――どうやら他人事では無くなったみたいね。私もどのようにして団体が狂っていったのか興味があるわ」
黒宮の重い腰は漸くここにきて上がったようである。彼女は遅咲き(スロウスターター)なのかもしれない。
ふと腕時計の針を見ると、すでに三十分は経過している。
「なら、僕達の目的は一致したわけだ」
「――面倒だけど、付き合ってあげるわ。だけど、謎を解き明かすにはまだまだ情報不足よ」
「大丈夫さ。僕は信者だからね」
「流石は小説家ね。道なき道を突き進もうとしているのに何の抵抗も感じないっていうのは、貴方の唯一の長所かもね」
「道っていうのは自分で築くものさ。そう貴女が教えてくれたんでしょう」
黒宮は、ふふふ、と気品のある声を漏らした。
「少しは成長したみたいじゃない」
「さぁね」
? 本部 十二月十七日
私は、再び本部へ向かう。
建物を囲んでいる黒鉄のゲートを抜けると、誰の趣味かは分からぬ花壇があった。花壇の土壌には雑草すら生い茂っていないところから、毎日誰かが丁寧に手入れいているのだろう。ヒイラギと、水仙が白い花弁をつけ、冬の風を受けてさらさらと靡いていた。十数個はあろうかという花壇には二種類の花しか植えられていない。茶色い土壌が剥き出しの状態の花壇もあった。
その時である。
花の魅力に決して劣らぬ容貌の女が花壇に水をやっていたのだ。小さなじょうろをから飛び出す水のシャワーが、日差しを受け、きらきらと光っている。
雪子である。私がしばらくその情景に見とれているといると、雪子はくるりとこちらに視線を向け、軽く会釈をした。
「――綺麗でしょ。冬になると、この建物は多くの白い花弁達に囲まれるの」 雪子が言った。
「ヒイラギの葉はとても鋭くて触ると怪我をする――昔からこの花は鬼除けとして門口に飾られていたんでしょ」
「あら、よく知っているんですね。そう、こんなに小さくてまっ白で可愛らしい花を咲かせるのに、葉っぱだけは、鋭利でとげがある。この花はね冬の到来を教えてくれる花なんです」
私がしばらく花を見渡していると、雪子が不思議そうな声音で、
「そういえば、貴方は以前、秀雄さんと一緒にいた……」 と、言った。
「御影吉秋と言います。この団体には秀雄さんからの紹介で入りました」
私が簡単な自己紹介を済ませると、彼女の中の疑問は晴れたようで、それは、それはと、透きとおるような声音で納得していた。
「こんなところで、立ち話もなんですから、休憩所に行きましょう」
雪子が手にしていたじょうろを花壇横の小さな物置小屋に直す。
「その前に、少し気になることがあるので」
私がそう言うと、雪子は怪訝そうに、はぁ――と声を漏らしていた。
「何でしょう?」
「あの建物、あそこは、光さんの父親、実朝さんの家なんですか」
私は人宝教本部と隣接している白塗りの外壁の建物を指差した。
「えぇ、貴方の言うとおりですよ。その家は、主人の邸宅です」
「――では、貴女もあの建物に?」
雪子は、静かに顎を引いた。
「あんなに大きな建物に一人で住むのは贅沢でしょうが、あれは教祖時宗様の大事な財産、誰かが守らねばならないのです」
「一人?――光さんは一緒じゃないのですか。義理の息子だというのに」
「あの子は――
一瞬、雪子の顔が翳った。
――別の邸宅に住んでおります。息子は、主人の前の奥さま、道子様との間に出来た子。ですから私を忌み嫌っているのです」
「そうですか……」
「さぁ、中に入りましょう」
私は、雪子に誘われるままに、講堂内の休憩所に向かった。
休憩所には、誰もいない。午後五時を回った頃合いである。雪子は休憩所の傍らにあるシンク台の上で茶を漉していた。ぞっとするほど静かである。
「もう、年末でしょう。皆年越しの準備で忙しいのです。――あ、貴方も是非、大掃除に参加なさいな」
「大掃除――ですか」
「えぇ。毎年、年始に向けて、どこの講堂でも信者による大掃除が行われるのです。若い人は、少ないから、是非参加してもらえると私どもも助かります。大掃除といってもそんな大層なことをするわけではありませんが、どこの家庭でも、年末には家を掃除して、清い心になって、新しい年を迎えるものでしょう。それと同じです。掃除とは一種の禊ぎなのです。今年一年、自分達を守護していただいたご先祖、神仏に感謝する大切な機会でもあるので」
雪子は私に緑茶を差し出し、柔和な笑みを見せた。
「禊ぎですか・・・・・・」
「えぇ、神仏に感謝の意を表す人間は、神仏からも愛され守護される。先代がよくおっしゃっていたいた言葉です」
私は、是非参加すると答える。
そして、兼ねてから気がかりであった事を彼女に訊ねる事にした。
「そういえば、光さんは、普段何をして過ごしているんです?」
「――息子は、日々お忙しい身なので、私も彼が今どこで何をしているかは分りません。地方の講堂を転々として、神仏守護の法話を信者の皆様に語り、それが終われば催し物に参加して――そのような毎日を過ごされているのです。前回貴方とお会いした時のことを覚えているかしら? あの日、光様は半年ぶりに、この神戸本部に戻られたのです。私も一度ぐらいは顔を見たかったのですが、さきほども言いました通り息子は、私を母だと認めておらぬものですから」
雪子は複雑そうな心境のようである。
「寂しくはないのですか? 先代実朝さんが亡くなってから、貴女はずっと独り身を貫いていると、秀雄さんから聞きました。貴女はまだ若い。――恋だってしたい年頃でしょう」
雪子は、口元に握り拳を運び、気品のある笑い声を放つ。
「お若いのに、しっかりした事をおっしゃるのですね」
私は頓狂に、
「はぁ――」
と、息を漏らした。
「主人が亡くなったのも、神仏からのお手配なのかもしれません。――基基、私と実朝様は二十五も離れていたのです。――互いにそれを承知で結婚したのですからどのような文句も愚痴も無意味であることは私が一番存じております。実朝様は、人の良いお方でした。正しく神仏の様に。私も基は人宝教の信者だったのです。そこで彼と知り合いになり、道子様を喪い嘆き悲しんでいた実朝様を見かけて、私は居ても経ってもいられなかった。私は実朝様を支えたいと、心から願っていました。次の世代を率いることになる光様に嫌われてもいい。私は実朝様だけに愛されればそれでいい。ずっとそのような考えを貫いておりました。けど、やはり息子に好かれないというのは辛いものですね」
私には掛ける言葉を見つけることが出来ない。
しばらく沈黙が続いた。
する、突然、休憩所の襖が開く。
そこには、黒スーツの男が、鷲の様な鋭い目つきで、立っている。
保城光の凍てつくような冷たい眼差しが、
空間を凍らせる。
対面してはならぬ、二人、神仏に嵌められたようである。
「――誰もいないと思って来たというのに、貴女がいたとは不快だな」
光は嘲笑うように言った。
光は一緒にいる私に目もくれず踵を返そうとしたので、雪子は堰を切ったように、「待って!」 と叫んだ。
光はぴたりと、を立ち止め、微かに震えている雪子をくるりと見返った。息子が母親を見る目付とはとても思えない。
一色即発の空気が静電気の様に伝った。
義理だ。
この親子は、
本当に上辺だけの繋がりなのだと、
心底思った。
「――あの、光さん、お身体は大丈夫? 忙しいからと言ってあまりご無理をなさらないで」
か細い声である。
「――失礼ですが、僕が死んだ方が貴女は喜ぶのではないですか。父の財産目的で近づいた魔女め」
「何を言うの? 違う。 貴方は勘違いをしている。――私はあの人の事が好きで」
「黙れ!」
時空が歪んだ。
親子の会話ではない。
「光さん」
「貴女の顔――その美しい顔を見ていると吐き気がする。父を弄んだ貴女が、何故、僕の義理の母であるのか、その理由が分からない。幼い頃から父や母に、神仏を信じていれさえずれば、必ず報われると信じていたのに、――それなのに、貴女は、僕の父や母の権力を奪おうとして……僕は貴女が怖い――怖ろしいんだ!」
雪子が、
今にも壊れてしまいそうな細い腕を彼へと突き出し、
「光さん――もう言わないで下さい。信者の前です」
呟く。
ここで、漸く光は、私の存在に気づいた。
光は、舌を鳴らして、力強く襖を閉める。バンっという大きな音が鼓膜に響いた。残された私の躰は、まるで椅子と一体化してしまったかのように動かなかった。
雪子はすっかり生気を失ってしまっている。
頭に不思議な感覚が舞い降りた。
雪子は、光と繋がる為に、先代実朝との間に子を作らなかったという、前提が悉く破壊されたような妙な心境である。
むしろ、光は雪子の思惑を見抜き、彼女を遠ざけようとしているようだ。
小さく啜り泣く声が聴こえる。
雪子は本当に魔女なのか。であるならば、この涙は、演技だと言うのか。
私には分らない。
この清純な女性が、何を考えているのか。
若造に分かるわけなど無いのだ。
踏み入ってはならぬ扉が――開いた。
脳内に刻印された光の鷲の眼。――私は、勢いよく腰を上げる。襖を開け、長い廊下を一気に抜けた。階段を下り、エントランスを飛び出すと、目の前に黒塗りのベンツに乗り込もうとしている光の後姿があった。
誰が悪で誰が善であるのか、もう今となってはどうでもいい。ただ私は今目の前にいる男の事が憎くましくて仕様が無いのである。
待てっ!
光が、漆黒のドアの向こう側に入ろうとしたその時、彼は大きな声に気づき、動きを静止させた。
知性を感じさせる広い額。細い眉毛に、大きな二重瞼。長い黒髪が、冷たい風を受け、揺れている。
いつからだろうか。
ずっと建物の中にいたせいか気づかなかったのだ。
外ではいつの間にか雪が降っていた。
「君は?」
光が感情の無い声で訊ねた。
「――はずかしいとは思わないのですか?」
「はずかしい? 何がだ?」
「雪子さんは、例え義理であろうとも貴方の母親でしょう。子供じゃないのだから、少しぐらい彼女の存在を認めてあげたらどうなんですか? ――彼女、泣いていましたよ」
光はしばらく口を塞いでいたが、
夜空から降りつもっていく白い花弁の動きに同調するように、不気味な笑い声を発し始めた。
「――無礼な人だな。君は信者なのかい? それともあの魔女に誑かされたのか?」
馬鹿にしたような口調である。
私の高ぶった感情を逆なでするような。
「この団体には、少し前に入りました。前回この講堂で行われた貴方の説法も、聴いた事があります。神様なんて本当にいるかどうかなんて僕には分からないけど、少なくとも、貴方の話を聞いて、本当にいるんじゃないかな――って感じたんです。――だけど、さっきの雪子さんに対する貴方の詰め寄り方を見て、僕の考え方は間違っていると気が付きました」
「何が言いたい?」
「貴方は――」
私は言葉を切る。
拳を力強く握りしめ、咽頭から遡ってくる言葉を吐き出した。
――貴方は神の存在を信じていない。
と。
夜風が叫んでいる。
雪が舞狂っている。
乱れ舞う粉雪が、
恐ろしかった。
「信じているさ。僕は人宝教の教主だからね」
冷たく私をあしらった後、保城光は、鴉のように黒い車体の中に消えていった。団体が所有している居住地帯に通る道路を、その車は颯爽と抜けていった。残された私は凍えるような寒空の下、呆然と立ち尽くすばかりである。
足元には雪の層が出来上がり、着ている上着の上には雪が積もっていた。
神を信じていない者が、神の代弁者を気取ろうというのか。あの男は――
「保城光――貴方は、ここに居てはならぬ人だ」
〔4〕 一二月一八日
福沢美奈子の様子が豹変したのはクリスマスも間近に迫った頃であった。
年末の忙しない人々が、天王寺駅の歩道橋に行きかっている。街のビルから漏れる光や橋の下を駆け抜ける車のライトの光で、夜だというのに周りは随分と明るかった。
美奈子が学校に来ないのだという知らせを月乃から聞いたのは昨夜だった。
取り乱した月乃に呼び出され、私は彼女の到着を待っているのである。
しばらくすると、厚手のコートを着た佐伯月乃が到着した。今度は待ち合わせ時間丁度である。不安に怯えているような弱い目つきが、溌剌とした性分の彼女らしからない。私達は場所をかえ、駅の前にあるモール街の中にあるレストランの中に入った。
私は頭を抱えていた。
依頼人が佐伯月乃の前から姿を消してしまったのでは、一体誰のために、人宝教に入ったのか分からない。
「何か予兆の様なものは無かったのか?」
「分からない。携帯に何度電話しても繋がらないの。もう彼女が大学に来なくなって四日も経つというのに連絡一つつかない。――きっと何かあったのよ」
美奈子とは一週間ほど前に喫茶店で落ちあって以来接触していない。彼女の身に何かあったならば、その間ということになる。
「病気か何かじゃないのか? 風邪――とか」
月乃は悄然と首を横に振って、
「ありえないわ。それなら、大学に連絡を入れている筈だもの。少なくても今までは美奈子が大学を休む時は、必ず私に連絡を入れていた。だけど、今回ばかりは、何もなかった。きっとお父さんとの間に何かあったのかもしれない――ねぇ、小説家。秀雄さんから何か聞いてないの?」
「僕も彼とはしばらく会っていない」
奇妙な一致点に私は一律の不安を覚えた。
月乃は震える声音で、呟く。
「――いやだ。もう失いたくないの。これ以上、大切な人を失いたくない」
あの時の私は、月乃の大切な人を救えなかった。
滋賀県の蒼湖風穴――
私は助ける事が出来なかったのだ。
今まさに、彼女の友人が消えつつある。
「彼女の家には行ったのか?」
「行ったわよ。勿論行くに決まってる。――二日前に、彼女の家に行ったけど誰も居なかったの。鍵がかかってて、何度も呼び鈴を鳴らしたけど誰も出てこなかった」
「誰もだと? 秀雄さんはいなかったのか? 彼はここ最近、講堂に来ていないんだぞ。それなら、何故家にもいない?」
「そんなの私に分かるわけないじゃない――けど、奇妙なのが、美奈子が私に残した手紙――」
「手紙?」
月乃は携えていた鞄に手を入れ、中から一枚の手紙を取り出した。二つ折りの手紙の中身にはこう書かれていた。
――アイツがまた来た――
淡白な文章が黒鉛筆で走り書きされている。
「アイツ? ――また? ――まさか保城光?」
「玄関の格子戸の柵に挟まっていたの。残されていた手紙はこれだけ」
「秀雄さんが彼女をどこかに連れて行った可能性も否めないだろ。逃げた妻を追って、実家に行ったとも考えられる」
「だったら、どうして手紙にそう書かないの?」
額から冷たい汗が、すぅっと流れた。
確かに美奈子が母親の実家に帰ったのならそう素直に書けばいい。わざわざ回りくどい言い方をする必要性がどこにある?
失踪の二文字が脳裏に浮かんだ。
秀雄と美奈子の間に、何かしらの齟齬が起こり、その果てに二人はどこかに姿を消した。しかし、秀雄までが居なくなるということは、団体と彼の間に何かしらのトラブルがあった事も想像できる。手紙の内容からすると、その引き金を引いたのは保城光としか考えられない。
ならば一体何があったというのだ。
「突発的に彼女の身に何かが起こり短文しか書けなかった。――そう考えると筋が通る」
「そんな――」
月乃は狼狽した。
「秀雄さんの財産が底をついたのかも知れない。――畏れていた事態が起こったのか。それとも想定外の事が起ろうとしているのかは分からないが、僕達に出来る事をやるしかない」
「美奈子のお父さん、もしかして自分をリストラしようとした会社を逆恨みして――」
月乃は徐に呟く。
彼はついに狂ってしまったとでも言うのだろうか。
「秀雄さんまで消えた以上、手掛かりになることを直接光から訊くしかない。確かめてくる」
「待って。警察に言った方が得策ではないかしら。これは失踪事件よ。きっと警察も動いてくれるに違いないわ」
私は、月乃の提案を受け入れ、警察に連絡を入れるように頼んだ。
「――僕は、光の元へ向かう」
「危険じゃないかしら」
月乃は怯えているのか微かに震えている。
「たった一人で闘うわけじゃないさ。僕には心強い味方がいる――」
「え」
――君は知らないだけなんだよ。
私は断言した。
「知らない……だけ」
「福沢美奈子は必ず助かる。大丈夫さ」
席を立ちあがりレストランを出ようとすると、月乃は、
「私も行く」
と、力強く言ったのであった。
? 一二月一九日
三宮の商店街。川のように道を流れる人々の中で際立つ艶やかなドレスを纏った女がゆっくりとこちらに向って歩いてくる。
南京町から漂う中華料理の香りが鼻腔を刺激し、喉元から溢れる唾液を呑み込んだ。女の羽織っているドレスは鴉のように黒く、その上には純白のコートを羽織っている。膝まで伸ばされた黒髪。頭部に嵌められた金色のティアラ。普段は黒い頭巾をかぶっているせいで、彼女の明確な髪型は把握していなかったが、これが彼女の私服というのだから恐れ入った。首元にはサファイヤのネックレスがきらめいていて、腕には黒い長手袋をしている。気高くて聡明な雰囲気はその周りにいる人達より明らかに異端であり、どこか滑稽でもあった。
これが彼女の真実の姿なのだ。
彼女はこの日の為に予約を全てキャンセルし、貴重な時間を私に授けてくれた。
蒼い双眼が、駅前でぼうっとしている私と月乃を捉える。
また――
動けなくなった。
私は、真実の占術師を目の当たりにして、ある人物を思い出した。
皇妃エリザベートである。
私は、駅前に到着して黒宮に向ってこんな言葉を投げた。
「白黒の服で来るなんて縁起が悪いな」
黒宮は艶っぽい笑みを浮かべ、
「――御影吉秋くん。貴方はとんでもない事件に遭遇してしまっているのよ。――これは遊びなんかじゃない。人の生死に関わる戦いなの。――貴方言ったわよね。福沢美奈子さんを救いたいって。私は貴方に力を貸す。だから貴方も本気を出しなさい」
全身の毛孔が開いた。
まるで、五年前に黒宮と初対面したような感覚である。
私はやはりこの女を侮っている。
彼女の器量を測る物差しなど持っていない癖に、私は彼女の力を心の奥底で図ろうとしていた。――私は愚か者である。
「あの――この人は?」 月乃が何食わぬ顔で訊ねる。
「――黒宮白陽。占い師さ」
「占い師――どうして占い師の人が」
月乃は混乱しているようである。
黒宮は口元を綻ばせ蒼き瞳で女子大生を捉えた、
「佐伯月乃さんね。御影くんから何度か話を聞いた事があるわ。――貴方、過去に大切な人を亡くしているわね。そう――丁度、去年ぐらいかしら? 人生最大の大凶運の年だものね」
月乃の瞳が凍り付いた。
「小説家。貴方、あの事を話したの?」
私は――
首を横に振った。
私は言っていない。
黒宮に話した事があるのは、佐伯月乃という友人がいるということだけである。これだから変人は嫌なのだ。一般の人間にも平気で力をひけらかし驚かせることを楽しんでいる。
「それなら、どうして?」
「私には見えるのよ。貴方達の過去も未来も――そして、どのように生きれば素晴らしい人生を歩めるのかだって導き出せる」
「先生。もう彼女を苛めるのは止してくれ。貴女を呼んだのは、福沢美奈子が失踪したからだ」
「あら、別に苛めてないわよ。自己紹介しただけ。こんな派手で美しい女性が吉秋くんの彼女だって、知ったら彼女傷つくでしょ」
黒宮は悪戯っぽく微笑んだ。
「なっ、傷つくわけないじゃない!」
月乃は逆上している。
くだらない。
くだらないが、結局最後はこの女に頼る他ないのだ。
私達三人は、その後、電車に乗り、人宝教本部に向かった。私は電車のテンポの良いリズムに乗りながら、エリザベートに、秀雄、美奈子失踪の一連の経緯を伝えると彼女は、幾度となく黙然と頷いていた。月乃は不安なのか電車の窓から見える風景をずっと見ながらも、妖しい雰囲気の黒宮を時々気にしているようである。
「先生――貴女は語らずとも人の過去と未来が読める人だ。ならばこれだけ詳しく事情を話せば、大かた美奈子のいる場所が分かるだろ」
私は冗談半分のつもりで言ったのかもかしれない。本心では、今だに彼女の力を信じ切る事ができぬのだ。だけど縋らなければ、私は壊れそうになる。襲いかかる重圧に押しつぶされてしまうのだ。
「――冥界に消えた保城実朝、保城道子、そして現世に遺された保城光、保城雪子。そして、人宝教信者の福沢秀雄と、その娘、美奈子の失踪事件。これらの事象は密接に関わり合っている。私には見えるわ。暗黒の牢獄の中で泣き叫ぶ美奈子さんの姿が」
「美奈子が牢獄に……」
月乃は、震えた声で言った。
「安心して。あくまでもイメージで、本当に美奈子さんが牢獄に囚われているわけじゃない」
月乃は安堵したように息を吐いた。
「美奈子は無事なんでしょうか?」
「今のところは――としか分らない。だから私がここにいるの。人宝教が、どこまで落ちぶれたのか私はこの目で確かめなければならない。私の母の為にも突き留めなきゃいけないの」
「先生、保城光は、人宝教の長でありながら、神仏の存在を否定しているんだ。この前、光が忌み嫌っている義理の母親、雪子と対面した時、彼は雪子が人宝教の権力を利用する為に実朝に近づいたと面と向って断言していた。そして光は、自らをこんな地獄絵図に突き落とした神仏を憎んでいるとも――」
「そう――確かに、彼が言っている事は本当かもね」
見透かしているような口調である。
「だけど、雪子は、実朝を確かに愛していると断言している。義理の息子に罵倒された彼女は――泣いていたんだ。泣いていたんだぞ。――僕にはあの涙が嘘には見えなかった」
「その涙は本物なのかもしれない。しかし涙を流す理由は偽りなの」
「涙を流す理由が――偽りだと? 貴女は何を言っている?」
「保城雪子が、実朝に惹かれた理由――それは恐らく彼の病が影響している。彼の妻、道子が病死してから、彼もまた、妻の後を追うように病に苦しみ、病床生活を余儀なくされた。そんな憐れな実朝を支えたいと思い、彼と結婚したと、雪子は言っていた――それは間違いないわね?」
黒宮が確認するように訊ねた。私は顎を引いた。
「だけど、それは偽りなのかもしれない」
黒宮は素気なく言った。
ならば、私が推理した事は的中していたということか。
「じゃあ、実朝の息子、光に近づくために雪子は――」
「今は証拠不十分で、明瞭とした事は断言できないけど恐らく彼女の目的は別にあった筈」
「他の目的だと?」
「――吉秋くん、貴方雪子が元元、団体の信者だったというのは知っているわね?」
「あぁ。それは彼女自身が口にしたことだ」
「信者にとって教主とは神を意味する。雪子は信者の身でありながら、神と対等な立場に君臨しようとしていた。二代目教主の妻になることよ。そこに彼女の矛盾がある。――そこに謎を解く鍵がある筈なの」
「矛盾?」
「その矛盾の正体さえ洗い出す事が出来たなら事件は必ず解決するはずよ」
「雪子の思惑の真意か――だが、どうして、そこまで分かるんだ。先生は、光と雪子に会った事がないのに」
「確かに、私が知っているのは、頼子と関わりがあった教祖時宗の事だけ。でも貴方が私に話したことや、彼女たちの名前だけでも分かれば、己図とその人の運気の流れや、どのような生い立ちを築いてきたかぐらい安易に分かる。四柱推命を駆使した占術と、長年鍛え上げてきた勘。精神心理学。それらを駆使した人間の心の闇を洗い出すのは容易なこと。謎を解くカギは、全て雪子にあると言っても過言ではないわ」
どこまで本気で言っているのだろう。
黒宮の確信に満ちた形相が不気味だった。
「佐伯月乃さん、貴方は美奈子さんを救いたいのでしょう」
「え――は、はい」
「なら――壊してしまいましょう。団体そのものを」
恐ろしい事を黒宮は口にしたのである。
「先生、一体貴女は何を考えているんだ。――ただの小説家と占術師が何十年の歴史を築き上げた宗教団体を壊すだって? 馬鹿げている。先生、僕は秀雄さんを団体から抜けさせる事さえできれば、それでいいんだよ。依頼人の福沢美奈子もそれを望んでいる。事を大きくするのは辞めた方がいい」
「御影吉秋――もう何もかも遅いのよ。最悪の事態はもう訪れている。彼女たちを救うにはもう団体を壊すしかないの」
「な――」
電車が減速していく。S駅のホームに降りると、目遠くには街が見えて、六甲山の深緑が、長閑に私達を迎えてくれていた。
「行くわよ」
エリザベート嬢が私達を先導している。階段を下り改札口を抜けると、外では陽光が照りつけていて、煌びやかな光が私達を包んだ。
バス停で待つ人々が勢いよく停車した箱に乗り込んでいく。
冬だというのに温かかった。
月乃が私に耳打ちをする。
「――大丈夫なの? あの人」
「さぁね」
私は無骨な物言いであった。私には黒宮白陽を測ることなど出来ないのである。出来ないからこそ、彼女の力を信じる他無かった。
あ――
私は、あることに気が付き眉間に皺を作った。
「何? どうかしたの?」 月乃が訊ねる。
「いや――何でもない」 私は口曇った。
悔しかったのだ。
私はすでに黒宮白陽の信者ではないか。
つまり私にとっての神は、黒宮白陽のほうなのだ。
人宝教の信者が聞いて呆れる。
突然、勢いよく横風が吹いた。
神風――
黒宮の長い黒髪が乱舞している。
街路を先導していた黒宮が、くるりと私を見返って、
「大丈夫よ――」 と言った。
眩暈がする。
美しい、
彼女の蒼い瞳が、
私の頭蓋内を揺さぶる。
これだから、厭なのだ。
変人というものは――
私は、
狂わしいほどに、
妖しい女の
虜に
なった。
〔5〕 神 VS 神
人宝教本部に到着すると、黒宮は何やら観察するかのように建物の周りを歩き回っていた。花壇を隅ずみまで観察し、保城雪子が根城とする屋敷も黙視し続けていた。
講堂内に入った私達はそのまま経堂に向い、畳臭い部屋の中に入った。ここでも黒宮は何かを観察するように、部屋の中をぐるりと見回している。
何か気がかりな事でもあるのだろうか。
ここに用事は無いと悟ったのか、黒宮は経堂を出て、休憩所に向かう。
襷を掛けた信者達は、派手な衣装の彼女を訝っているようであった。
休憩所に入ると、一人の男がいた。
灰色のスーツに、茶色く短い髪が男らしく、三十半ばと思われる柔らかい目つきの男である。
細身の男は、じっと私達を観察しているようであったが、やがて椅子から立ちあがり休憩所に入った私達の方へゆっくりと近づいてきた。
「御影吉秋くんだね?」 男が訊ねた。
私は、不思議に思い、
「貴方は?」
と質問返しすると、男は上着の内ポケットから、警察手帳を取り出し私に見せた。
「刑事――さん?」
私は、佐伯月乃のほうへちらりと横目を送る。そういえば彼女は美奈子失踪の件を警察に話している。――ならば、この男はその捜査をしに来たのか。だとすると、何故、私の名前を知っているのだ。
「――隣にいるのは佐伯月乃さんだね。話しは福沢美奈子さん本人から聴いているよ」
私と月乃が一斉に躰を固くした。意味が分からない。
「美奈子――美奈子が、貴方に話した」
すっかり、動揺してしまっている私達に対し、男は丁寧すぎるほどに事情を説明してくれた。
「仲尾と言います。佐伯月乃さん。貴女は先日警察に福沢美奈子失踪の件で電話を掛けたね。――いや、驚いたよ。失踪していない人物を、探すなんてどう考えても無理だからさ」
仲尾と名乗る刑事は柔和な面持ちでそう言った。
「美奈子は、無事なんですか?」
月乃が訊ねた。
「彼女の方はね。詳しく説明するとだね。失踪したのは、福沢秀雄の方なんだ。実は、一昨日の晩、福沢秀雄の妻、福沢郁子から警察に連絡が入りましてね、何でも秀雄が所属している新興宗教団体を告訴したいと――何でも秀雄は団体に莫大な金をつぎ込んだせいで破産寸前だったそうでね、ついに彼は家すらも売りはらおうとしたそうだが、寸前のところで娘の美奈子さんに止められたそうだ」
私と月乃は唖然としながら互いの顔を見合わせた。黒宮は真剣なのか、さきほどから黙って仲尾刑事の話に聞き入っている。
仲尾刑事の更なる説明は続いた。
「二人の喧嘩は夜な夜な続いた挙句、ついに秀雄は家を飛び出してしまったそうでね。その時だよ、人宝教教主、保城光が、福沢家に現われたのは。何でも月々の奉納金が無いことを不思議に思ったんだろうね、光は、家を飛び出そうとする秀雄に事情を尋ねにやってきたんだ。秀雄は彼を畏れた。――きっと興奮していたんだろうね、娘と喧嘩した直後だったから。彼は自分の信じていた教主を突き飛ばして失踪したらしい」
「そんな――じゃあ、美奈子は」
「大丈夫。さっきも言ったけど美奈子さんは無事だよ。美奈子さんは父親を必ず見つける約束を光と交わして、彼も一旦は福沢家を後にした。――けど父親がどこに行ったかなんて、美奈子さんにも分らなくてね、――困りはてた彼女は、母親の実家に行く事にしたわけさ」
「――美奈子は、その後、お母さんに事情を話してそれで警察に通報した――けど、だったら、何故彼女は、私に連絡の一つも入れてくれなかったの」
「美奈子さんはね、父親との喧嘩の際に携帯電話を壊してしまったらしい。電話もとうの昔に停められていて連絡する手段が無かった。僕が福沢郁子の実家に行って事情聴取を行った際、彼女はそんな事を口にしていたよ。君達二人の事を聞いたのもその時さ。佐伯月乃さんの顔写真も見せて貰ったから、ここに来て君の顔を見て、隣にいた彼のこともすぐに御影くんだと分かったよ。美奈子さんは、少し前に君達に父親の件で相談していたそうだね。――こんな事刑事の僕が訊くのもおかしなことだと思うが、我々も、人宝教の悪事を暴こうと必死なんだよ。力を貸してくれるかい?――実は、以前から警察内部でも人宝教は黒だと囁かれていたんだ。かと言って民事訴訟があったわけじゃない。それどころかここ数十年、一件たりとも無かった。それと去年までは、警察の上層部の人間が人宝教を監視していた筈だから、問題が無い団体であることは間違いなかっただろう。だけど去年の暮にこの監視を受け持っていた人間が辞めてしまって、担当する上司も変わった。――そんな時に福沢郁子が、団体に対して訴訟を起こしたもんだから団体の知識が無い彼も焦ったようで、偶々手の空いていた僕が、ここに送られたってわけさ。――僕も宗教団体の捜査なんて初めてだから不慣れでね、出来るだけ情報が欲しい」
仲尾刑事は、右手を差し出した。
私は流れに身を任せるように彼の手を握り返す。
「それで――美奈子は今、今どこにいるんですか?」
仲尾刑事は、白い歯を見せ、「そこにいるよ」と言った。
背後を見返ると、
美奈子がいた。
とても深刻そうな顔を浮かべ、視線を伏せている。
桃色のパーカーにジーンズという身形であった。
「僕がパトカーでここに連れてきた」
仲尾刑事が言った。
月乃は感極まったのか、美奈子! と大声で叫んで、彼女に抱きついた。
美奈子は無事だったのである。
美奈子は月乃の胸の中で小声で、「ごめんなさい」 と幾度となく囁いている。
「――役者は揃ったわね」
その時である。
さきほどまで静かに事の成り行きを黙って見ていた黒宮が呟いたのは。
仲尾刑事は見知らぬ女に対し、
「あの――分からないのが、貴女なのですが」
と怪訝そうに言った。
「ただの占い師よ。――そうね、簡単に言うと、私もこの青年の協力者ってところ」
「はぁ、そうですか。しかし何でまた占い師の人が」
今度は仲尾刑事が混乱する番であった。
私は、黒宮に彼の事について軽く占ってやるように言うと、彼女は淡々と仲尾刑事の前世や、性格などの話をするものだから、彼はすっかり彼女の話術や世界観に捉われてしまい、彼女の占いの虜になっていた。
これが彼女なりの一番早い自己紹介なのである。
「恐れ入りました。まさか、初めてお会いした人に僕の心中を見抜かれるとは思いもしませんでした。――では、黒宮先生もこの事件の関係者と理解してよろしいのですね」
「えぇ、その通りよ。そして、この事件は私の事件でもある。貴方、見たところまだ若いようだけど、民事事件に関わった事なんてあるのかしら?」
仲尾刑事は苦い顔をし後ろ髪を掻き毟った後、「いやぁ」 と覇気のない声を漏らした。
私達は一斉に溜息を吐く。
あきれたものである。
これほどの規模の宗教団体の内部事情を探るというのに、こんな若い刑事一人を送りこむなどと。人宝教を監視していた上層部の人間が変わったというのも本当なのだろう。しかし黒宮は何故か不気味な嘲笑を浮かべているものだから、私は余計に訳が分からなくなった。
「事件という事件に関わるのは初めての事でして、少し前までは交番勤務で、老人に道を教えたりしているだけでした」
私達は再度深い息を吐く。
頼りない。
「ふふふ、こっちとしては都合はいいかもね。仲尾刑事、貴方手柄が欲しくないかしら?」
「はぁ、手柄ですか……?」
「そう、全国に三十の講堂を抱える巨大な宗教団体。しかしその実態は、信者から金を集めるだけの嘘吐き団体である。この真相を暴けば、貴方の出世は間違いないわよ」
仲尾刑事は一瞬だけ体を硬直させていたが、すぐに黒宮の言っている意味を理解したらしく、身を忙しく乗り出して、
「本当ですか?」
と、訊ねた。
「えぇ、本当よ。私には未来を見る力があるの。私の言うとおりに動けば、貴方の未来は救われる。――信じるか信じないかは貴方次第だけど、どう? 私達が協力し合えば怖いものなんて無いわ」
私はこんなくだらない二人のやりとりを醒めた目で見ていた。
だが仲尾刑事は、黒宮の自己紹介で、彼女の力を本物だと信じている。若い刑事は、瞳をきらきらと輝かせて、「協力します」 と威勢良く言った。
「誇り(プライド)は無いんですか……貴方は」
私は、少年のように無邪気な仲尾刑事に問いかける。
「御影くん。男はね三十歳超えたらいやらしくなるものさ。ライオンよりハイエナのような生き方の方が僕には合っている」
仲尾刑事は自身満々に言ったものだから、女性陣はクスクスと笑い声を漏らしていた。
黒宮と仲尾刑事の同盟は成立したのである。
「しかし、先生? 協力ったって僕は何をすればいいんでしょうか?」
「簡単なことよ。私が貴方に借りたいのは、『刑事』 という肩書だけ。――調べて欲しいことがあるの。――それで、事件はきっと解決できる」
「調べて欲しいこと?」
「手帳を出しなさい」
黒宮が命令すると、仲尾刑事はびくっと躰を凍らせ、あたふたとしながら、警察手帳を杜し出した。
「今から私が言う事をメモなさい。いいわね」
「はい!」
すっかり下僕である。
黒宮は新しい部下を手に入れたのである。彼女は新たな下僕にこのような指示を出していた。
1、保城雪子の経歴。前職。
2、保城実朝と道子の死因について。
3、福沢秀雄が務めていた会社について。
4、地方講堂にある花壇に植えられている花の種類。
仲尾刑事はボールペンを走らせ、丁寧に黒宮の言った事をメモ書きしている。
「――先生。1から3までの調査内容は何となく事件に関係があるというのは分かるんですが、4番を調べる意味はあるんですか?」
「あるのよ――一番重要な資料になる。絶対にね」
「はぁ……」
「さぁ、分かったら早く行きなさい!」
黒宮の叱責が、仲尾刑事を急かしたのか、彼は勢いよく休憩所を飛び出そうとした。
――が、彼女は何か彼に伝え損ねたのか、彼の腕を掴み、彼の耳元で何かを囁いているようである。私は仲尾刑事の表情が険しくなったのを見逃さなかった。
仲尾刑事は、襖の向こう側に消える。廊下を忙しく駆ける足音が鼓膜に響いた。
黒宮は刑事に何を言ったのだ。
「さてと――次は貴方の番、私達の中で唯一保城雪子と接点を持っているのは貴方だけ。お願い、聞いてくれるかしら」
黒宮は、私の肩にそっと掌を載せた。
怪訝に眉をひそめると、黒宮は私にもある事を調査して欲しいと言う。
5. 雪子が神法会に入会した動機
「――動機、何故そんな事を僕が聞かないといけないんだ?」
「警察の人が、直接訊けば彼女は警戒するでしょ。私は保城雪子の本音を訊きたい。だから同じ信者である貴方にお願いしているの」
なるほど。
同じ信者である私になら雪子は本心で語ってくれる筈だと、黒宮は睨んでいるわけか。私は分かったよと返事をし、講堂を出た。腕時計の針に目をやると、午後三時を回っている。
本部講堂の入口付近にある掲示板に張り出された年末年始の行事表に目をやる。今日の日付の欄には、特別な行事などは記載されていなかった。――ならば、保城雪子は講堂横の邸宅にいる筈だ。
二階建ての建物の前で足を止めた。恐る恐る呼び鈴を鳴らすと、玄関の扉が開き中から雪子が顔を覗かせた。私が軽く会釈すると彼女は不思議そうに、
「何か用ですか」 と訊ねた。
「少し貴女と話がしたくて」
「話?」
「えぇ、すぐに終わります」
雪子は、「丁度、お茶しようと思っていたのです。話しなら、中でしましょう」と柔らかい声音で言い、私を家の中へ招いてくれた。応接室に通された私は淡い青のソファーに腰を下ろす。しばらく待っていると、彼女は応接室の隣にある台所から、紅茶を運んで来て私に注いでくれた。ダージリンの香りが鼻腔に忍び込む。
雪子は私と対面するように座って、高価そうなカップに入った紅茶を一口啜った。
「――それで、お話とは何です」
「つまらない事です。気になった事がありまして。この前、貴女は僕に話してくれましたね。実朝さんと貴女が出逢う前、貴女もこの団体の信者だったと」
「えぇ、しかし、それが何か?」
「何かってわけじゃないんです。――ただ、不思議に思っただけなんです。先代教主の奥さんだった貴女の様な人にも、信者の人たちの同じ様に堪えない不幸を感じていたんだなって」
雪子は、小さく微笑した。
「あら――そのような事をお訊きに?」
「はい――」
雪子は遠い眼差しを浮かべた。何かを追憶しているかのように。
「そうですね、何を不幸に感じるかは人それぞれですから、私のつまらない昔話なんてきっと貴方にとっては退屈なものでしょうに。ただ、強いて言うなれば仕事から来たストレスと母の妄信的な振る舞いから、私は団体に入る事にしたのです。決して私は進んでこの団体に入ったわけじゃなくて、最初は母の強い勧めによって入らされたと言った方がよいのでしょうか。母は心の底から、先代実朝様を慕い、彼に深い信心を抱いておりました。父に迷惑ばかりをかけ高価な仏具を買ってばかりいる母親に、私はとうとう呆れてしまい、いい加減にするように詰め寄ったのです。その時の母の態度はもうどう言っていいものか――狂ってしまったとでも言うのでしょうか? 母は完全に自我を失ってしまっていました。どんなに小さな不幸も教主様への貢物が少ないからだとか、日頃の読経が少ないからだとか、普通の人には分らないような事ばかり言っていました。母は困り果てる私に向って、等々団体に入る様にと言いました」
「それで、貴女は。――でも結果的に貴女はその団体で実朝さんと出逢う事になる。不幸は幸せへと続いていたわけですね」
「確かに、あの人と出逢ってからは幸せでした。――でも今となっては、よく分りません。あの人は死に、光様も私を軽蔑する日々ばかりが続いているのですから」
幸せは再び不幸に変わったということか。
私は、同情の念に苛まれた。
雪子の母親の強い信心は、子に見事に受け継がれてしまったということである。
「人宝教に入っている信者の人たちは、皆、強い信心を持っている。心の底から教主を信じて疑わない――秀雄さんも、その一人でした。その狂わしいほどの信心が彼を壊してしまったと、僕は考えています」
「秀雄――福沢さんに何かあったのですか?」
雪子は驚愕したように訊ねた。
彼女は何も知らない。直観的にそう感じた。
「えぇ、実は少し前に失踪したんです。突然の事でわけが分かりません」
「そんな――一体どうして?」
私は、彼女に秀雄失踪事件の一部始終を話した。
もしかすると、雪子から有益な情報が訊き出せるかもしれぬと睨んだのである。秀雄失踪の一件には光が関与している。光の所在地を掴める権限があるのは、最早彼女だけなのだ。
話を聞いた雪子は、唖然としながら、
「そんな――光様が」
と、苦渋の声を漏らした。
「これは秀雄さんに限っての事なのかもしれません。しかし、秀雄さんは教主の絶対的なカリスマ性に心奪われ、財産さえも金に変えて、光さんに捧げようとした。彼は人宝教に入って壊れてしまったのです」
「――信者といっても考え方はそれぞれです。現にこの宗教に入って救われたという人もおります。貴方は、秀雄さんが壊れたというけれどもそれは彼自身が口にしたことなのですか」
雪子は、虚ろな視線を漂わせながら訊いた。
私は、口を一文字に結ぶ。
いや、聞いていない。
福沢秀雄は自分自身が人宝教に入って良かったと心底思っている。確かに傍から彼の生き方を見れば、不幸の類なのだろう。だが、彼自身はそう思っていない。自分が信じる神に、財産を分け与えることで新しい幸福を得ようとしている。――彼は幸せなのである。
「いえ、彼は、恐らく自分を幸せな人間だと思っている。だから、それを認めない家族と喧嘩をするんだ」
「そうですか、彼は大切な家族の人たちと何かしらのトラブルがあったのですね」
雪子は秀雄の置かれている状況を理解したようである。
「秀雄さんの娘が、彼が失踪する前に、自宅に光さんが来たと言っているんです。恐らく会費を徴収しに来たのだと思うのですが……」
「それはいつの日か分かりますか?」
「はぁ――一二月一五日前後だと思うのですが」
私が曖昧に言葉を返すと、雪子は不審な面持ちで、「変ですね」 と言った。
「変? 何がおかしいのです?」
「会費は月初に回集することになっているのです。それと、光様は決して自ら信者の人たちの家に行って会費を徴収したりはしません。その役割は幹部の人たちが受け持っているのです」
「――じゃあ、光さんは福沢秀雄の自宅に行っていないと?」
「その筈ですが……」
「確かに変ですね」
雪子が言った事が真実ならば、福沢美奈子は、偽りの手紙を自宅に残したということになる。しかし、一体何の為に?
私は頭髪を強く?き毟った。
「ならば、個人的な理由で光さんが直接、福沢家に行ったとは考えられませんか? こんな言い方は失礼かもしれないが、教主という立場から見れば、秀雄さんは立派な金蔓だ。重要な資金源からの貢納が遅れているとなれば、彼も気が気で無かったと思うのですが」
「それも――有り得ないかと思います。人宝教は、地方に多くの講堂を抱える巨大宗教。十分な資金があってこそ、経営維持ができるのです。今更、信者一人から財産を奪う必要性などありません。――これは私の勝手が見解なのですけれど、秀雄さんの失踪は、光さんと何の関係もないと思うのです」
「光さんとは、関係ない――ならば、今回の失踪は彼自身が勝手に起こした――ということだと、貴女は言いたいのですね」
雪子は、申し訳なさそうに顎を引いた。
強ち間違っていない見解なのかもしれない。
「例え、秀雄さんの失踪が、何らかの形で光様と関係があるとしても、光様は――息子は、きっと私に何も話してはくれないでしょう」
「――そうですか……」
「私が悪いのです。私が、愛に溺れ、後先考えずに実朝様に近づいたせいで、息子は教主という立場でありながら神を呪うようになった。――全ては私の責任です」
雪子は自責の念に捉われているようである。
「彼はもう子供ではありません。貴女の人生なのだから好きにすればいい。それを、彼は理解していないんだと思います。きっと先代の母親を想う気持ちが人一倍強いのでしょう」
「道子様は、光様を寵愛しておりました。病床についている時も、自らの死を覚悟し、最後の最後まで、この世に残される光様の身を案じておりました。道子様は、光様にとって、この世でたった一人の母親なのです。私などが付け入ることなど決してできません。だから、私は遠くで彼を見守ることにしたのです。光様が、都合の良い時にだけ、私の事を必要としてくださればそれでいい。私はそう考えることにしたのです」
「そんなの――」
言葉を切った。
他人の親子関係に口出す権利など私には無い。
だが、何かが違う。
そう思えてならなかった。
「母親なら、もっと子に干渉すべきだと言いたいのですね――ですが、貴方も見たでしょう。あの子は、私を心底嫌っているのです。私の実朝様への純粋な想いを、言われもない戯言で穢し、あろう事が、私が実朝様に近づいた動機が、団体の財産目的だと捉えております。勘違いも甚だしい。これでが、死んだ実朝様の魂も報われません」
雪子は、ソファーから立ち上がった。どこに行くのかと、訊ねると、彼女は私を別室に案内したいと言う。私は、彼女の言われるがままに、応接室を出て、畳臭い和室部屋へと通された。
床の間には金色の大日如来が祀られている大きな仏壇が一つある。線香の煙の臭いが微かに残っていた。仏壇には一組の男女の写真が祀られている。どこかの公園で撮影したと思われる比翼連理な二人であった。この写真の人物は誰かと訊ねると、雪子は、「実朝様と道子様です」と言って、仏壇の?燭に火を灯した。
雪子は、仏壇の前に敷かれた座布団に膝を沈めて、丁寧に手を合わせている。すらっと伸びた背筋に、瞼を閉じた端整な横顔。彼女の祈っている姿は、鳥肌が立つほどに――
美しかった。
「私は、毎日のように天国にいる二人に向って懺悔しているのです。二人からお預かりした大切な一人息子と、齟齬ばかりを繰り返す私が、今更二人にどのような言葉を言えましょうか。だから、私は、懺悔するしかないのです。それだけが、今の私にとって、唯一の癒しなのです」
私は、写真の中で、柔和に表情を綻ばせている二人を疎ましく思った。
この淑女も福沢秀雄と同じだ。
結局、人宝教という新興宗教団体には、他人の人生を救えてなどいない。あってはならぬ団体である。例え、教祖保城時宗の想いが純粋だったとしても。
雪子は微かに震えている。
長い髪の毛からひょこっと覗く白い項が忌わしいほどに目障りだった。
「貴女は、この先人宝教をどうしたいのです? 本当にあの男に全ての権限を与えていいのですか?」 私は、彼女の後ろ姿に問うた。
「あの子の周りには優秀な幹部の人たちがおります。先代の想いを引き継ぐ優秀な人たちが――あの子は一人ではありません。きっといつかは神仏の尊さに気づき全ての信者を幸福へと導いてくれる。私はそう信じております」
「夢を見ているとは思わないのですか?」
彼女は幻想の世界にたった、独り残されてしまったのだろう。先代との想い出の中でしか生きられぬ女なのだ。
「夢ではありません。これは神仏の教えなのです」
――狂っている。
どいつもこいつも。
粛清せねばならぬ。
そう思った。
一体、どれほどの人間がまやかしの中で彷徨い続けているのだろうか。私には想像することさえも只ならぬ。
一家離散に追い込まれた福沢一家。
福沢美奈子の悩みを解決してやろうと必死になる月乃。
先代教主実朝に恋い焦がれ、未亡人になり変わった雪子。
雪子を恐れる光。
不幸はまだ続く――
戦災孤児達の笑顔を見て団体を設立した時宗。
その呪われた教祖は黒宮頼子に惚れていた。
遡ること――戦後日本。
貧困の時代を生きた二人によって、起こされた狂気の輪廻は今もなお続いているのだ。
どこから間違っていたのだろう。
どこから正せば良かったのだろう。
どれだけ多くの人たちが巻き込まれたのだろう。
邪悪を正さねばならぬ。
この因縁を断ち切らねばならぬ。
私は焦燥感に苛まれた。
「――今日はこれで失礼します」
私は、雪子の後姿にそう言って踵を返した。
役目は果たしたのだ。
?
休憩所に戻ると、月乃以外は誰もいなかった。居所の分からぬ面々達の所在について彼女に訊ねると、黒宮は何やら調べたい事があるからと言って、一度、講堂の外に出たのだが、それっきり帰ってしまったらしい。福沢美奈子は疲労困憊の為に、仲尾刑事のパトカーで一先ずは母親の実家に送り届けられたそうだ。美奈子を送った後で、仲尾刑事は、黒宮から依頼された調査を始める様であった。
このまま、講堂にいても埒が開かないと悟った私は、渋々講堂を去る事にしたのである。
「――そういえば、あの占いの先生が、貴方に伝えて欲しい事があるって言っていたの。全ての筋が繋がった時は貴方に連絡をするから、講堂の会議室に、事件に関係のある人たちを集めて欲しいって」
「筋が繋がった時? 日時は指定していなかったのか?」
「うん、言っていたのはそれだけ。本当に大丈夫かしら」
月乃は不安そうである。陰険な世界など覗いた事もない大学生には、黒宮の様な異端者との関わりは初めての事なのだろう。
「あの女は本物だ。大丈夫さ。あの女にも神がついているのだから、偽りの神様なんかに負けるわけがない」
「神様……」
「そうだ。昔、あの女に教えて貰った事がある。人には、それぞれ守護神というものが憑いている。僕達は、その守護神によって生かされているだけのちっぽけな存在なんだって言っていた。その守護神は、憑いている人々の何代か前のご先祖様の霊って事が多い。そしてその守護神は、あらゆる自然霊と交信する能力があるんだ。要するに守護神と交信する能力さえ身につければ、森羅万象、ありとあらゆる霊の無限の知を授かる事ができる。――黒宮白陽は、その能力を携えた占い師の一人」
「ちょっと待って。あの人は霊能者なの?」
「違う。占い師だ。だが、普通とはちょっと違う手法を用いて占いをしているんだと思う。心理術や、霊能学、民族学や、運命学、天文学などありとあらゆる学問を用い、匠な話術を駆使して、他人の心をすっかり掌握してしまうんだよ。洗脳という奴なのかもしれないが、そのおかげで僕はこうして、小説家になれたわけさ」
「それとこれとは、話が違うと思うけど。今回の事件を占いで解決しようというのが、私には理解できない」
「彼女が、本当に占いだけで事件を解決しようなんて事考える筈はないんだ。月乃、君はさっき黒宮が仲尾刑事に、指示していたのを覚えていないのか?」
私が訊ねると、月乃は思い出したかのように、あっ――と声を出した。
「そう、占いで事件が解決できるなら、最初からそうすればいいだけのこと。しかし、黒宮はそれをしなかった。一筋縄ではいかないと読んだんだろうね。どんな占いにも天文学的な理屈によるトリックがある。秀雄さんが失踪した一件だって、何かしらのトリックがあると彼女は睨んだのさ。黒宮は自分の立場をわきまえている。仲尾刑事に事件のヒントになるような事を調査させたのだって、それが理由だろう。いきなり不可解な占術師が、保城雪子の経歴を探ろうとすれば、いくら何でも怪しまれるのがオチだろうからね。だから、僕や仲尾刑事を使って、探りをいれているのさ。恐らく、すでに黒宮は何か掴んでいるに違いない」
「――そう言われれば納得できるわね」
講堂の外に出ると、日が沈みかけているせいか、辺りはオレンジ色に染められていた。花壇に咲き誇るヒイラギや水仙の花が、夕暮れ時の優しい風に吹かれてゆらゆらと揺れている。
白い吐息が、空気に飲み込まれていく。
私は、ふと、何も植えられていない土壌が剥き出しの花壇に目をやった。講堂の周りを取り囲む花壇はほとんど、白き花を咲かせているというのに、たった一つの花壇だけ何故、何も咲いていないのだろう。
「早く帰りましょうよ。寒いわ」
月乃は掌に息を吹きかけている。彼女の白い肌は、すっかり赤くなっていて、頬は林檎の様だった。
私は、講堂の駐車場に向い、そのまま帰路についた。
黒宮から、連絡が来たのは、それから五日後の事である。