「君を愛することはない」と言った夫に、三度も求婚されました。すでに妻なのですが?
「お前を愛することはない」
結婚式を終えた夜、夫となったヴィンセント様は、私にそう告げた。
「承知いたしました」
「……それだけか?」
「はい。私も旦那様を愛しておりませんので」
ヴィンセント様は、なぜか少し驚いた顔をした。
私たちの結婚は、両家の合意による政略結婚だ。
夫となったヴィンセント様は侯爵家の当主。私は伯爵家の次女である。
婚約が決まるまで、私たちは夜会で二度ほど挨拶を交わしただけだった。
そんな相手を、結婚したからといって突然愛せるはずもない。
「互いに余計な期待をしないほうが、穏やかに暮らせると思います」
「……そうだな」
「では、これからよろしくお願いいたします」
こうして、私たちの結婚生活は始まった。
◇
結論から言えば、ヴィンセント様は良い夫だった。
私の意見を聞いてくださるし、必要なものがあれば用意してくださる。使用人たちへの態度も丁寧で、領地の仕事にも真面目に取り組んでいる。
ただ、夫婦らしい交流はほとんどなかった。
朝食は別々。夕食も予定が合えば一緒に取る程度。
私たちは互いの生活を尊重し、必要以上に干渉しなかった。
それで何の問題もなかった。
ところが結婚から半年ほど経った頃、少しずつ変化が起きた。
「今日は夕食を一緒に取れないだろうか」
「ええ、もちろんです」
「明日は街へ出かけるのか?」
「はい。新しい本を探しに」
「……私も同行していいだろうか」
「お仕事はよろしいのですか?」
「明日は休みだ」
そんな会話が増えた。
夕食の席では、ヴィンセント様が仕事の話をしてくださるようになった。
私も読んだ本の話をした。
ある日、私が焼き菓子を褒めると、翌日からお茶の時間に同じ菓子が出るようになった。
またある日、庭園の薔薇が綺麗だと話すと、ヴィンセント様は庭師に頼んで私の部屋から見える場所にも薔薇を植えてくださった。
親切な方だと思った。
最初からそうだったけれど、最近は特に。
そして結婚から一年が過ぎた頃。
ヴィンセント様は、夕食後の居間で突然こうおっしゃった。
「フィオナ。私は、どうやら君を愛してしまったようだ」
「まあ」
驚いた。
まさか、あの宣言をしたご本人からそんな言葉を聞くとは。
「そうなのですか」
「ああ。最初の約束を破ることになる。申し訳ない」
「お気になさらないでください。お気持ちは変わるものですから」
「……怒らないのか?」
「どうして怒るのでしょう?」
「私は君を愛さないと宣言した男だぞ」
「はい。でも、愛してはいけないと約束したわけではありませんよね?」
ヴィンセント様はしばらく黙り、それから小さく笑った。
「君には敵わないな」
私も笑った。
そのときは、これで話が終わったと思っていた。
まさか、この後三度も求婚されることになるとは、夢にも思わなかったのである。
◇
一度目の求婚は、それから三日後だった。
夕食を終えた私が居間で本を読んでいると、ヴィンセント様が入っていらした。
なぜか、ひどく緊張したご様子だった。
「フィオナ。少し話がある」
「はい。何でしょう?」
ヴィンセント様は私の前に立ち、背筋を伸ばした。
そして、真剣な表情で告げた。
「フィオナ。どうか、私と結婚してほしい」
私は本を閉じた。
少し考えた。
もう一度、考えた。
「……旦那様?」
「ああ」
「私たちは、すでに結婚しておりますが?」
「…………」
「昨年、王都の大聖堂で式を挙げましたよね?」
「……挙げた」
「婚姻届も提出しておりますし、私は現在、侯爵夫人として暮らしております」
「……そうだな」
「ですので、申し訳ありませんが、その求婚はお受けできません」
ヴィンセント様は、見たこともない顔をなさった。
まるで、難解な数学の問題を出された学生のようだった。
「いや、待ってくれ。そういう意味ではない」
「では、どういう意味でしょう?」
「私は……その……」
ヴィンセント様は額に手を当てた。
「君と、今度こそ本当の夫婦になりたいと言いたかったんだ」
「私たちは偽物の夫婦だったのですか?」
「違う!」
珍しく大きな声が出た。
私が驚くと、ヴィンセント様は慌てて謝った。
「すまない。言い方が悪かった」
「いえ」
「私は君を愛している。だから、君にも私を愛してもらいたい。そういう意味だ」
ようやく理解した。
なるほど。
つまり、私にも恋愛感情を持ってほしいということらしい。
「それなら、最初からそうおっしゃってください」
「……すまない」
「ですが、それも今すぐにはお約束できません」
「そうか」
ヴィンセント様は少し肩を落とした。
「私は、まだ旦那様を愛しておりませんので」
「……そうだな」
「でも、嫌いではありませんよ?」
顔を上げたヴィンセント様に、私は微笑んだ。
「とても良い夫だと思っております」
すると、なぜかヴィンセント様は一層複雑そうな顔をなさった。
後から考えると、あれは少しも慰めになっていなかったのだろう。
◇
二度目の求婚は、それから一か月後だった。
その間、ヴィンセント様は随分と変わられた。
夕食だけでなく、朝食も一緒に取るようになった。
仕事の合間には私の部屋を訪ね、お茶を飲むことも増えた。
休日には街へ出かけるようになった。
ただし、少々困ったことがあった。
「フィオナ。これを」
「まあ、綺麗な首飾りですね」
「君に似合うと思って」
「ありがとうございます」
翌日。
「フィオナ。これも君に」
「まあ、素敵な耳飾り」
さらに翌日。
「フィオナ。この指輪はどうだろう」
「旦那様」
「……何だ?」
「私の指は十本しかありません」
ヴィンセント様は、指輪の箱を持ったまま固まった。
「それに、首も一つしかありません」
「……そうだな」
「お気持ちは嬉しいのですが、毎日宝飾品をいただいても使いきれません」
「すまない」
「謝らないでください。私のために選んでくださったことは、本当に嬉しいのです」
そう申し上げると、ヴィンセント様は少し安心したようだった。
それから数日後。
今度は庭園でお茶に誘われた。
テーブルには私の好きな焼き菓子が並び、周囲には薔薇が咲いていた。
「フィオナ」
「はい」
「今日は、改めて伝えたいことがある」
ヴィンセント様は立ち上がり、私の前に片膝をついた。
……片膝?
「私は君を愛している。どうか、私と本当の夫婦になってほしい」
二度目だった。
今回は、前回の失敗を踏まえて言葉を選んだらしい。
「お断りいたします」
「…………」
ヴィンセント様の顔から、すっと表情が消えた。
「……理由を聞いてもいいだろうか」
「もちろんです」
私は、彼にも椅子に座っていただいた。
「旦那様。最近、たくさん贈り物をくださいますね」
「ああ」
「一緒にお食事をしたり、お出かけしたりも」
「……迷惑だっただろうか」
「いいえ。とても楽しいです」
ヴィンセント様は、ほっとしたように息を吐いた。
「ですが、旦那様」
私は少し身を乗り出した。
「私の好きな花をご存じですか?」
「薔薇だろう?」
「いいえ。鈴蘭です」
「……鈴蘭?」
「はい。薔薇は綺麗だと申し上げましたが、一番好きな花ではありません」
ヴィンセント様は庭園を見渡した。
見事な薔薇が咲き誇っている。
「では、好きな食べ物は?」
「焼き菓子ではないのか?」
「焼き菓子も好きです。でも、一番好きなのは温かい野菜のスープです」
「……そうだったのか」
「それから、私が街へ出かける理由をご存じですか?」
「本を買うためだろう?」
「半分正解です。もう半分は、古書店の店主とお話しするためです。あの方は珍しい本をたくさんご存じなんですよ」
ヴィンセント様は黙って聞いていた。
「旦那様は、私が喜んだものを覚えていてくださいます。それはとても嬉しいことです」
「……ああ」
「でも、私のことを、まだあまりご存じないと思うのです」
「その通りだ」
「私も同じです。旦那様のお好きな食べ物も、休日に何をなさりたいのかも、ほとんど存じません」
ヴィンセント様は私を見つめた。
「だから、まずはお互いを知るところから始めませんか?」
「……君は、私とそうしたいと思ってくれるのか?」
「はい」
私は頷いた。
「旦那様のことを、もっと知りたいです」
しばらく沈黙があった。
それから、ヴィンセント様は笑った。
今まで見た中で、一番嬉しそうな笑顔だった。
「ありがとう、フィオナ」
「こちらこそ」
「では、まず一つ教えてほしい」
「何でしょう?」
「温かい野菜のスープというのは、どんなものが好きなんだ?」
私は思わず笑ってしまった。
「旦那様。スープにも色々あるのですよ」
「……そうなのか?」
「ええ。明日の夕食で、一緒にいただきましょう」
こうして、二度目の求婚も失敗に終わった。
けれど、私たちは初めて、夫婦である前に一組の男女として向き合い始めたのである。
◇
それからの日々は、とても楽しかった。
ヴィンセント様は、意外にも甘いものが苦手だった。
ただし、蜂蜜を使った焼き菓子だけは好きらしい。
「子供の頃、母がよく作ってくれたんだ」
そうおっしゃったときの顔が、少し幼く見えて可愛らしかった。
私はそれまで、ヴィンセント様が甘いものを召し上がる姿をほとんど見たことがなかった。
私に合わせてくださっていたのだと、初めて知った。
休日には乗馬をするのがお好きだった。
私は馬に乗るのが得意ではないので、最初は見学していた。
ところが、ヴィンセント様が馬に乗っている姿を眺めているうちに、少し興味が湧いてきた。
「私にも教えていただけますか?」
「もちろんだ」
ヴィンセント様は、驚くほど丁寧に教えてくださった。
馬が怖くないように、まずは触れるところから。
慣れてきたら、ゆっくり歩くところから。
失敗しても急かさない。
「上手だ、フィオナ」
そう褒められると、なんだか嬉しかった。
一方、私が好きな古書店にも、ヴィンセント様をお連れした。
最初は退屈なさるかと思っていた。
けれど、意外にも店主と話が弾んだ。
領地の古い地図や、昔の街道について書かれた本に興味を持たれたのだ。
「こんな資料が残っていたのか」
「旦那様、楽しそうですね」
「ああ。知らなかったことを知るのは面白い」
その言葉を聞いて、私は嬉しくなった。
私も、まったく同じことを思っていたから。
ある日、夕食の席でヴィンセント様が尋ねた。
「フィオナ。明日の予定は?」
「特にありません」
「では、一緒に散歩でもどうだろう」
「喜んで」
そう答えた自分に、少し驚いた。
以前なら、予定がない日は一人で本を読むことを選んでいた。
けれど今は、ヴィンセント様と過ごす時間が楽しみになっている。
その変化が、何となくくすぐったかった。
◇
三度目の求婚は、結婚から二年が過ぎた春のことだった。
その日は、私たちが初めて二人で街へ出かけた日から、ちょうど一年だった。
ヴィンセント様は、私を庭園へ誘ってくださった。
庭には、鈴蘭が咲いていた。
「まあ……!」
「今年は、ちょうど見頃になった」
「覚えていてくださったのですね」
「ああ。君が一番好きな花だから」
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
テーブルには温かいお茶と、小さな焼き菓子。
そして、私の好きな本が一冊置かれていた。
「これは……!」
「以前、探していると言っていただろう。古書店の店主に頼んでおいた」
ずっと探していた、絶版になった詩集だった。
私は思わず本を抱きしめた。
「ありがとうございます、旦那様!」
「喜んでもらえてよかった」
ヴィンセント様は穏やかに笑った。
それから、少し真剣な表情になった。
「フィオナ」
「はい」
「三度目になるが、聞いてほしい」
私は、何となく察した。
ヴィンセント様は私の前に立った。
今回は片膝をつかなかった。
花束も指輪もなかった。
ただ、まっすぐ私を見つめていた。
「私は君を愛している」
「はい」
「君と過ごす毎日が、何より大切だ。これからも、ずっと一緒にいたい」
胸の奥が、温かくなった。
「君は、どうだろうか」
最初は、ただ誠実な方だと思っていた。
けれど、一緒に食事をして、街を歩いて、知らなかった一面を少しずつ知っていった。
いつの間にか、朝食の時間が楽しみになり、帰宅を待ち遠しく思うようになった。
面白い本を見つければ真っ先に話したい。美味しいものを食べれば、一緒に味わいたい。
そう思うようになった頃には、もう、この方を愛していたのだ。
私は微笑んだ。
「はい。喜んでお受けいたします」
ヴィンセント様は、しばらく私を見つめていた。
「……本当に?」
「はい。私も、あなたを愛しております」
ヴィンセント様は、嬉しそうに笑った。
そして、私の手を取った。
「ありがとう、フィオナ」
「こちらこそ。これからもよろしくお願いいたします」
ヴィンセント様は、私の手を取って微笑んだ。
「一度目は、結婚しているからと断られたな」
「ええ。だって、結婚しておりましたもの」
「二度目は、まだお互いを知らないからと断られた」
「はい」
「三度目で、ようやく受けてもらえた」
「ふふ。ずいぶん時間がかかりましたね」
「ああ。だが、待った甲斐があった」
ヴィンセント様は、私をそっと抱きしめた。
「愛しているよ、フィオナ」
「私もです、ヴィンセント様」




