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「俺たちを祝福しろ」と婚約破棄されたので、私の自由に乾杯しました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/09/16

「エステル。君との婚約を破棄する。俺が愛しているのはヴィオラだ」


 叔母の夜会で、乾杯の前に少し話したいと申し出たロラン様は、そう言って隣の令嬢の腰へ手を回した。

 私は彼の反対側に立っていた。入場のときには当然のように私を伴い、食事の間も婚約者として客への挨拶をさせておいて、最後にこのお話らしい。


「……それを、今ここでおっしゃるのですか」


 声が細くなったのが、自分でも分かった。

 私がうまく返事をできない間に、彼は通りかかった給仕の盆からグラスを取り、こちらへ差し出した。細い泡の上る葡萄酒だった。


「君にも意地があるだろう。大勢の前で泣くような真似はしたくないはずだ」

「ロラン様、私の客に向かって、そのような――」


 叔母のベルニエ伯爵夫人が口を挟んだ。

 彼は叔母へ軽く頭を下げると、すぐ私に向き直る。謝ったつもりなのかもしれなかった。


「だから、円満に終わらせようと言っているのです。エステル、笑って俺たちを祝福しろ。それでお互い、気持ちよく次へ進める」


 私の手にグラスが渡された。

 受け取らなければ床へ落ちそうだったから、指を添えた。彼は満足そうに頷く。私が何かを飲み込んだとき、いつもそういう顔をする方だった。


 今夜着てくるつもりだった、明るい黄色のドレスが頭に浮かんだ。

 二十歳にもなって浮かれた色はやめろと言われ、私は灰色のものに替えた。友人との観劇も、ロラン様が訪ねてくるかもしれない日は断った。来ると決まった日ではない。来るかもしれない日だ。


 婚約したばかりの頃、彼は私が好きだと言った花の名前を覚えていてくれた。庭で咲いたからと、小さな花束を持ってきてくださった。

 嬉しかった。その頃は、私もこの方を好きになれそうだと思っていた。

 いつの間にか、次に嬉しいことをしてもらうためには、先にこちらが何かを我慢しなくてはならなくなっていた。


「どうした。まさか、まだ俺の気持ちが変わると思っているのか」


 ロラン様の隣で、ヴィオラ様が少し顎を上げた。彼女の淡い桃色のドレスには、花がいくつも縫いつけられている。

 きれいだと思った。同時に、腹が立った。

 私が黄色を着るのは、そんなにいけないことだったのだろうか。


「エステル」


 すぐ横に、アデールが来ていた。幼い頃からの友人だ。

 彼女はロラン様を見ず、私にだけ聞こえる声で尋ねた。


「帰りたかったら、一緒に帰るわ。ここにいたかったら、私もいる。どうしたい?」


 胸の奥が、急に熱くなった。

 私は今夜のために、三週間前から予定を空けていた。叔母の夜会には親戚と親しい家の人たちが集まる。アデールもジュリーも来るから、久しぶりにゆっくり話せると思っていたのだ。


 帰りたくなかった。

 帰って一人で、あの人に何と言えばよかったのか考える夜にしたくなかった。


「私、ここにいたい」

「ええ。それなら、そうしましょう」


 アデールが私の腕にそっと触れた。

 その向こうで、ジュリーがこちらへ歩いてくるのが見えた。私たちが並ぶと、ロラン様は面倒そうに息を吐いた。


「友人に囲まれなければ、返事もできないのか」

「できます。婚約破棄を、お受けいたします」


 今度は、声が届いた。

 彼の顔から笑みが消えかけたが、すぐに戻った。


「賢明だ。それでこそ――」

「両家のお話は、改めてお願いいたします。父と母には私からも伝えますが、あなたがここで何をおっしゃったかは、あなたからご説明ください」


 今夜、両親は別の会合へ出ている。叔母が静かに頷いてくれた。


「私も聞いていました。エステル、お父様には私からも話します」

「ありがとうございます、叔母様。それから、一つお願いしてもよろしいでしょうか」


 私はまだ冷たいグラスを持っていた。

 ロラン様に渡されたときは、これを持たされて立っている自分が惨めだった。今は、中の泡を見ながら別のことを考えていた。


「乾杯を、させていただきたいのです」


 叔母は一度私を見て、それからアデールとジュリーを見た。


「ええ。あなたの言葉でね」


 ロラン様が、ほっとしたように肩を緩めた。

 隣のヴィオラ様へ何か囁いて、自分たちのグラスを取りに行く。私はその間に、二人の友人へ顔を向けた。


「アデール、ジュリー。私のお祝いに、付き合ってくれる?」


 アデールが目を大きくした。

 ジュリーはロラン様の背中を見てから、私の顔を確かめた。


「あなたのお祝い?」

「ええ。婚約がなくなるのは、あの方だけではないもの」


 口に出してみると、驚くほど気持ちが軽くなった。

 明日、誰かが突然訪ねてくるかもしれないからと、窓の外を気にしていなくていい。友人に断りの手紙を書く前に、今度は何と言えば嫌われずに済むか考えなくていい。


 ジュリーの唇が、ゆっくり持ち上がった。

 アデールは私の腕から手を離し、叔母の合図で回ってきた盆からグラスを取った。ジュリーもその隣の一杯を手にする。


「喜んで。何なら、もう一度言ってほしいくらいよ」


 戻ってきたロラン様は、私たちの明るい顔を見て、いっそう満足そうになった。


「ほら。君の友人も分かってくれたようだな」


 ジュリーが何か言いかけたので、私は先にグラスを上げた。


「皆様。お騒がせして申し訳ありません。私はロラン様との婚約を解消します。この先も、ロラン様と結婚することはありません」


 広間が静かになった。

 大げさに言うつもりはなかった。それでも、言っておきたかった。彼の気が変わるのを待つために、今夜を終えるのではないのだと。


「これからは、大好きな友人たちとの約束を、楽しみにしてよくなりました。好きな色の服を着て、好きなときに笑えるようにもなります」


 アデールを見た。

 彼女の目が潤んでいて、私は途中で喉を詰まらせそうになった。


「ですから、私の自由に。乾杯」


「エステル、おめでとう!」


 アデールの声が、真っ先に返ってきた。

 ジュリーがグラスを寄せる。澄んだ音が二つ重なり、私はようやく笑った。


「本当に、おめでとう。明日のお茶、来られるのよね?」

「行くわ。最初から最後まで」

「ああ、よかった。途中で時計を見るあなたを見るの、私、もう嫌だったの」


 ジュリーは笑いながら言った。

 私は葡萄酒を一口飲んだところで、危うくむせた。そんな顔をしていたのか。迷惑をかけないように、早めに帰っているつもりだったのに。


 叔母が近くの客へグラスを上げた。


「姪の新しい暮らしに、私からも」


 叔父が「それは祝わなければ」と応じ、叔母の友人が私へ微笑んだ。

 広間中が騒ぎ立てたわけではない。遠くの人はまだ様子を窺っていたし、困った顔をしている方もいた。それでも、私をよく知る人たちが、こちらを向いて杯を上げてくれた。


 私はその一人ずつへ、グラスを上げ返した。

 嬉しかった。笑顔を作れと命じられたときには動かなかった頬が、今は少し痛いくらいだった。


「……待て」


 ロラン様のグラスは、上がったままだった。

 隣のヴィオラ様は、もう下ろしている。


「俺たちを祝う話だったはずだ」

「私は、乾杯をさせてくださいとお願いしました」

「だから、俺たちの門出にだろう」

「私にも、あるのです」


 彼は私と、アデールと、ジュリーを順に見た。

 誰も訂正しなかったので、自分でグラスを下ろした。


「祝うにしても、程度というものがある。君たちは、少し喜びすぎじゃないか」


 ジュリーが困ったように私を見た。

 私も彼女を見た。

 先ほど、気持ちよく次へ進めると言った方に、次へ進む喜びの量を注意されている。


「控えめにした方がいいかしら」


 私が聞くと、アデールは真剣に考え込んだ。


「難しいわ。明日は、あなたが帰らなくていいお茶会なのよ」

「明日の分まで、今夜喜ばなくてもいいだろう!」

「では、明日もお祝いします」


 アデールがきちんと答えたので、ジュリーがとうとう声を出して笑った。

 私もつられた。叱られる前に口を押さえそうになって、途中でやめる。誰かが声を上げて笑えば、つい自分も笑ってしまう。それが、こんなに楽しいことだった。


「黄色のドレスで来てね。あれ、仕立て上がったのでしょう?」


 ジュリーに言われ、私は勢いよく頷いた。


「着ていくわ。まだ一度も外へ着ていないの」

「じゃあ、私も明るい色にしよう。三人で並んだら、春みたいね」


 季節は秋だったが、アデールは構わず言った。

 私は明日のことを考えていた。窓辺の席で三人並んで、ジュリーの旅の話を聞く。途中で迎えが来るかもしれないと、物音のたびに玄関を見る必要もない。


「そのお茶会は、断るように言ったはずだ」


 ロラン様の声で、思い描いた窓辺が途切れた。


「明日は俺が行くかもしれないと言っただろう。君は了承したじゃないか」

「でも、もういらっしゃいませんよね」

「それとこれとは――」


 言いかけた彼の隣で、ヴィオラ様が顔を上げた。

 自分の腰から彼の手を外す。


「明日は、私と約束なさいましたわ。昼から、ずっと」


 私はロラン様を見た。

 彼はヴィオラ様を見ていた。


「君との約束は覚えている。エステルには、それより前に言っただけで」

「では、来られなくなったとお知らせくだされば、よかったのに」


 思わず口から出た。

 怒るより先に、呆れてしまった。私が家で待つことには、もう何の用事もなかったのだ。


 ジュリーが私のグラスを見た。


「少し、置きましょうか」

「ええ。そうするわ」


 近くの卓に飲みかけのグラスを置くと、二人もそれぞれの杯を並べた。それから、左右から私の手を取ってくれた。

 二人に挟まれて立つと、もうロラン様の顔色を確かめるために、背筋を伸ばし続けなくてよかった。


「エステル、当てつけなら、もう十分だ」


 彼の声が低くなった。


「二年も婚約していたんだ。すぐに忘れられるはずがないだろう。無理をして笑っても、君が苦しくなるだけだ」

「忘れておりません」


 私は二人の手を軽く握ってから、ロラン様へ向き直った。


「去年、アデールの誕生日に行かなかったことも、その日あなたを待っていたことも、覚えています。夕方、来られなくなったとお使いが来たことも」


 あの日、友人に渡すはずの贈り物は、机の上に置いたままだった。

 すぐ馬車を出せば、お茶会の終わりに間に合ったかもしれない。それでも、今から行って気を遣わせたらと思い、私は部屋にいた。


「花をいただいて嬉しかった日も、覚えています。だから、もう少し待てばまた仲よくなれると思っていました。二年間、そう思っていました」


 声が震えた。

 悔しかった。大切にしていたことまで、どうでもよかった振りはできなかった。


 アデールの手に力がこもった。

 私は息を整え、続けた。


「今夜は、待ちません。婚約破棄のお話は受けました。明日、あなたが訪ねていらしても、私はお茶会へ行きます」


「……別に、男がいるのか」


 ロラン様がアデールの後ろへ目を向けた。

 ジュリーが半歩前へ出た。


「明日のお茶会にいるのは、私ですけれど」

「君には聞いていない」

「私たちの約束のお話でしょう?」


 ジュリーは私の手を離さなかった。

 私は鼻の奥がつんとして、少し笑った。自分のためだけなら言えずにいたことも、二人が立っていてくれると、言葉になった。


「ほかの方と比べて決めたのではありません。あなたと結婚したくないのです。明日は、私が会いたい人に会います」


 ロラン様が口を開いた。

 私の横から、アデールが小さく言った。


「私も、あなたに会いたいわ」


 胸がいっぱいになった。

 そんなこと、ずっと言ってもらっていたのに。毎回の誘いを、断りを入れる用事にしてしまっていたのは、私だった。


「ありがとう。何度も誘ってくれて」

「行けないって言われても、また誘いたかったの。あなたと話すのが好きなんだもの」


 彼女が笑ったところで、私は我慢できなくなった。

 二人の手を離してアデールに抱きつくと、彼女も強く抱き返してくれた。肩越しにジュリーが「私の分は」と言うので、今度は三人でくっついた。


「ここは夜会だぞ」


 ロラン様が言った。

 すぐに叔母の声がした。


「ええ。私の夜会です。親しい者が抱き合うのを咎めるつもりはありません」


 顔を上げると、叔母がこちらへ来ていた。

 ロラン様はヴィオラ様へ腕を差し出した。


「行こう。ここにいても、まともに話ができない」

「お帰りになるのでしたら、お一人でどうぞ。私は母の馬車で帰ります」


 彼女は少し離れたところにいる子爵夫人を見た。夫人が娘を呼ぶように手を差し出している。


「ヴィオラ、君まで」

「私も、お友達とのお茶会へは行きますから」


 彼女はそれだけ言って、母親のそばへ歩いていった。

 誰も追いかけなかった。ロラン様がその場に残っていると、叔母が広間の扉を示した。


「お話を整理なさるのでしたら、小客間をお使いください。私は夜会を続けますので」


 彼は何か言いたそうに私を見た。

 私は会釈を返したあと、友人たちに向き直った。


「ねえ。まだ、お茶会まで半日以上あるわね」

「そうね。どうしましょう」


 ジュリーの言い方がおかしくて、また笑ってしまった。

 アデールが私の目元を見て、ハンカチを差し出してくれた。私は礼を言って受け取り、滲んだ涙を拭く。ロラン様が扉の方へ歩いていくのが見えたが、今度はそちらへ気を取られなかった。


 叔母に、昔よく三人で歌った曲を弾いてもらえないか頼んだ。

 少人数の気楽な会だから、あとで客の誰かも楽器を弾く予定になっていた。叔母は「それなら私が」と、自分から鍵盤楽器の前へ座ってくださった。


「歌詞を覚えている? 二番の途中が怪しいのだけれど」


 私が尋ねると、アデールはジュリーの方を見た。


「そこはジュリーに任せましょう。私も怪しいから」


 ジュリーはそれを聞いて、慌ててこちらを向いた。


「私を頼りにしていたの? 私は二人が歌っている間、口を動かしていただけよ」


 私はまた笑った。

 今度はロラン様に聞こえるかどうかも、考えなかった。


     * * *


 翌朝、両親に昨夜のことを話した。

 父は最後まで聞くと、婚約を解消する気持ちは変わらないかと、一度だけ尋ねた。私は、変わりませんと答えた。

 母は隣で頷き、午後の予定を聞いてくれた。


「アデールとジュリーと、お茶を飲みます」

「ええ。楽しんでいらっしゃい」


 黄色のドレスの袖に腕を通したとき、鏡の中の自分を見て、私は少し照れた。

 やっぱり、この色が好きだった。


 午後、アデールの家の窓辺で、三人のお茶会が始まった。

 ジュリーが持ってきた旅先の菓子を食べ、馬車の車輪が泥にはまった話を聞いた。笑ってお茶が飲めなくなり、一度カップを置いた。

 誰も玄関を見なかった。私は時計を見なかった。


「来週は、うちに来て。母も、二人に会いたいと言っていたの」


 私が言うと、アデールはすぐに頷いた。

 ジュリーが指を折り始める。


「明日はリボンを見に行くのでしょう。その次の日は、アデールの新しい帽子を見せてもらう。来週はエステルのおうちね」

「待って。帽子はお茶のついでに見ていけばいいのよ」

「そんなに急いで済ませなくてもいいじゃない」


 アデールが私を見た。

 私も見返したあと、二人でジュリーを見た。


「予定を空けておくって、私、今度は楽しみで言えるのね」


 そう言うと、アデールが嬉しそうに笑った。

 ジュリーはもう一つ、旅先の菓子を私の皿へ載せてくれた。


 数日後、両家の婚約解消の書類が交わされた。

 ロラン様から一度、会って話したいという申し出もあったが、お断りした。両親にはあらためて礼を言い、アデールとジュリーには次のお茶会の招待状を書いた。


 日時を書き、お菓子の希望があれば教えてほしいと添える。アデールには借りたハンカチも返さなくては、と、洗って畳んでおいたものを取り出した。


 刺繍の入った白い布を見ているうちに、またあの夜のことを思い出した。泣いても笑っても、そばにいてくれた二人を。

 私は招待状の末尾に、もう一行書き足した。


 今度は、二人に会える私の幸運にも乾杯させてください。


 ペンを置いてから、少し笑った。

 やはり私は、まだ喜び足りないらしかった。


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