「俺たちを祝福しろ」と婚約破棄されたので、私の自由に乾杯しました
「エステル。君との婚約を破棄する。俺が愛しているのはヴィオラだ」
叔母の夜会で、乾杯の前に少し話したいと申し出たロラン様は、そう言って隣の令嬢の腰へ手を回した。
私は彼の反対側に立っていた。入場のときには当然のように私を伴い、食事の間も婚約者として客への挨拶をさせておいて、最後にこのお話らしい。
「……それを、今ここでおっしゃるのですか」
声が細くなったのが、自分でも分かった。
私がうまく返事をできない間に、彼は通りかかった給仕の盆からグラスを取り、こちらへ差し出した。細い泡の上る葡萄酒だった。
「君にも意地があるだろう。大勢の前で泣くような真似はしたくないはずだ」
「ロラン様、私の客に向かって、そのような――」
叔母のベルニエ伯爵夫人が口を挟んだ。
彼は叔母へ軽く頭を下げると、すぐ私に向き直る。謝ったつもりなのかもしれなかった。
「だから、円満に終わらせようと言っているのです。エステル、笑って俺たちを祝福しろ。それでお互い、気持ちよく次へ進める」
私の手にグラスが渡された。
受け取らなければ床へ落ちそうだったから、指を添えた。彼は満足そうに頷く。私が何かを飲み込んだとき、いつもそういう顔をする方だった。
今夜着てくるつもりだった、明るい黄色のドレスが頭に浮かんだ。
二十歳にもなって浮かれた色はやめろと言われ、私は灰色のものに替えた。友人との観劇も、ロラン様が訪ねてくるかもしれない日は断った。来ると決まった日ではない。来るかもしれない日だ。
婚約したばかりの頃、彼は私が好きだと言った花の名前を覚えていてくれた。庭で咲いたからと、小さな花束を持ってきてくださった。
嬉しかった。その頃は、私もこの方を好きになれそうだと思っていた。
いつの間にか、次に嬉しいことをしてもらうためには、先にこちらが何かを我慢しなくてはならなくなっていた。
「どうした。まさか、まだ俺の気持ちが変わると思っているのか」
ロラン様の隣で、ヴィオラ様が少し顎を上げた。彼女の淡い桃色のドレスには、花がいくつも縫いつけられている。
きれいだと思った。同時に、腹が立った。
私が黄色を着るのは、そんなにいけないことだったのだろうか。
「エステル」
すぐ横に、アデールが来ていた。幼い頃からの友人だ。
彼女はロラン様を見ず、私にだけ聞こえる声で尋ねた。
「帰りたかったら、一緒に帰るわ。ここにいたかったら、私もいる。どうしたい?」
胸の奥が、急に熱くなった。
私は今夜のために、三週間前から予定を空けていた。叔母の夜会には親戚と親しい家の人たちが集まる。アデールもジュリーも来るから、久しぶりにゆっくり話せると思っていたのだ。
帰りたくなかった。
帰って一人で、あの人に何と言えばよかったのか考える夜にしたくなかった。
「私、ここにいたい」
「ええ。それなら、そうしましょう」
アデールが私の腕にそっと触れた。
その向こうで、ジュリーがこちらへ歩いてくるのが見えた。私たちが並ぶと、ロラン様は面倒そうに息を吐いた。
「友人に囲まれなければ、返事もできないのか」
「できます。婚約破棄を、お受けいたします」
今度は、声が届いた。
彼の顔から笑みが消えかけたが、すぐに戻った。
「賢明だ。それでこそ――」
「両家のお話は、改めてお願いいたします。父と母には私からも伝えますが、あなたがここで何をおっしゃったかは、あなたからご説明ください」
今夜、両親は別の会合へ出ている。叔母が静かに頷いてくれた。
「私も聞いていました。エステル、お父様には私からも話します」
「ありがとうございます、叔母様。それから、一つお願いしてもよろしいでしょうか」
私はまだ冷たいグラスを持っていた。
ロラン様に渡されたときは、これを持たされて立っている自分が惨めだった。今は、中の泡を見ながら別のことを考えていた。
「乾杯を、させていただきたいのです」
叔母は一度私を見て、それからアデールとジュリーを見た。
「ええ。あなたの言葉でね」
ロラン様が、ほっとしたように肩を緩めた。
隣のヴィオラ様へ何か囁いて、自分たちのグラスを取りに行く。私はその間に、二人の友人へ顔を向けた。
「アデール、ジュリー。私のお祝いに、付き合ってくれる?」
アデールが目を大きくした。
ジュリーはロラン様の背中を見てから、私の顔を確かめた。
「あなたのお祝い?」
「ええ。婚約がなくなるのは、あの方だけではないもの」
口に出してみると、驚くほど気持ちが軽くなった。
明日、誰かが突然訪ねてくるかもしれないからと、窓の外を気にしていなくていい。友人に断りの手紙を書く前に、今度は何と言えば嫌われずに済むか考えなくていい。
ジュリーの唇が、ゆっくり持ち上がった。
アデールは私の腕から手を離し、叔母の合図で回ってきた盆からグラスを取った。ジュリーもその隣の一杯を手にする。
「喜んで。何なら、もう一度言ってほしいくらいよ」
戻ってきたロラン様は、私たちの明るい顔を見て、いっそう満足そうになった。
「ほら。君の友人も分かってくれたようだな」
ジュリーが何か言いかけたので、私は先にグラスを上げた。
「皆様。お騒がせして申し訳ありません。私はロラン様との婚約を解消します。この先も、ロラン様と結婚することはありません」
広間が静かになった。
大げさに言うつもりはなかった。それでも、言っておきたかった。彼の気が変わるのを待つために、今夜を終えるのではないのだと。
「これからは、大好きな友人たちとの約束を、楽しみにしてよくなりました。好きな色の服を着て、好きなときに笑えるようにもなります」
アデールを見た。
彼女の目が潤んでいて、私は途中で喉を詰まらせそうになった。
「ですから、私の自由に。乾杯」
「エステル、おめでとう!」
アデールの声が、真っ先に返ってきた。
ジュリーがグラスを寄せる。澄んだ音が二つ重なり、私はようやく笑った。
「本当に、おめでとう。明日のお茶、来られるのよね?」
「行くわ。最初から最後まで」
「ああ、よかった。途中で時計を見るあなたを見るの、私、もう嫌だったの」
ジュリーは笑いながら言った。
私は葡萄酒を一口飲んだところで、危うくむせた。そんな顔をしていたのか。迷惑をかけないように、早めに帰っているつもりだったのに。
叔母が近くの客へグラスを上げた。
「姪の新しい暮らしに、私からも」
叔父が「それは祝わなければ」と応じ、叔母の友人が私へ微笑んだ。
広間中が騒ぎ立てたわけではない。遠くの人はまだ様子を窺っていたし、困った顔をしている方もいた。それでも、私をよく知る人たちが、こちらを向いて杯を上げてくれた。
私はその一人ずつへ、グラスを上げ返した。
嬉しかった。笑顔を作れと命じられたときには動かなかった頬が、今は少し痛いくらいだった。
「……待て」
ロラン様のグラスは、上がったままだった。
隣のヴィオラ様は、もう下ろしている。
「俺たちを祝う話だったはずだ」
「私は、乾杯をさせてくださいとお願いしました」
「だから、俺たちの門出にだろう」
「私にも、あるのです」
彼は私と、アデールと、ジュリーを順に見た。
誰も訂正しなかったので、自分でグラスを下ろした。
「祝うにしても、程度というものがある。君たちは、少し喜びすぎじゃないか」
ジュリーが困ったように私を見た。
私も彼女を見た。
先ほど、気持ちよく次へ進めると言った方に、次へ進む喜びの量を注意されている。
「控えめにした方がいいかしら」
私が聞くと、アデールは真剣に考え込んだ。
「難しいわ。明日は、あなたが帰らなくていいお茶会なのよ」
「明日の分まで、今夜喜ばなくてもいいだろう!」
「では、明日もお祝いします」
アデールがきちんと答えたので、ジュリーがとうとう声を出して笑った。
私もつられた。叱られる前に口を押さえそうになって、途中でやめる。誰かが声を上げて笑えば、つい自分も笑ってしまう。それが、こんなに楽しいことだった。
「黄色のドレスで来てね。あれ、仕立て上がったのでしょう?」
ジュリーに言われ、私は勢いよく頷いた。
「着ていくわ。まだ一度も外へ着ていないの」
「じゃあ、私も明るい色にしよう。三人で並んだら、春みたいね」
季節は秋だったが、アデールは構わず言った。
私は明日のことを考えていた。窓辺の席で三人並んで、ジュリーの旅の話を聞く。途中で迎えが来るかもしれないと、物音のたびに玄関を見る必要もない。
「そのお茶会は、断るように言ったはずだ」
ロラン様の声で、思い描いた窓辺が途切れた。
「明日は俺が行くかもしれないと言っただろう。君は了承したじゃないか」
「でも、もういらっしゃいませんよね」
「それとこれとは――」
言いかけた彼の隣で、ヴィオラ様が顔を上げた。
自分の腰から彼の手を外す。
「明日は、私と約束なさいましたわ。昼から、ずっと」
私はロラン様を見た。
彼はヴィオラ様を見ていた。
「君との約束は覚えている。エステルには、それより前に言っただけで」
「では、来られなくなったとお知らせくだされば、よかったのに」
思わず口から出た。
怒るより先に、呆れてしまった。私が家で待つことには、もう何の用事もなかったのだ。
ジュリーが私のグラスを見た。
「少し、置きましょうか」
「ええ。そうするわ」
近くの卓に飲みかけのグラスを置くと、二人もそれぞれの杯を並べた。それから、左右から私の手を取ってくれた。
二人に挟まれて立つと、もうロラン様の顔色を確かめるために、背筋を伸ばし続けなくてよかった。
「エステル、当てつけなら、もう十分だ」
彼の声が低くなった。
「二年も婚約していたんだ。すぐに忘れられるはずがないだろう。無理をして笑っても、君が苦しくなるだけだ」
「忘れておりません」
私は二人の手を軽く握ってから、ロラン様へ向き直った。
「去年、アデールの誕生日に行かなかったことも、その日あなたを待っていたことも、覚えています。夕方、来られなくなったとお使いが来たことも」
あの日、友人に渡すはずの贈り物は、机の上に置いたままだった。
すぐ馬車を出せば、お茶会の終わりに間に合ったかもしれない。それでも、今から行って気を遣わせたらと思い、私は部屋にいた。
「花をいただいて嬉しかった日も、覚えています。だから、もう少し待てばまた仲よくなれると思っていました。二年間、そう思っていました」
声が震えた。
悔しかった。大切にしていたことまで、どうでもよかった振りはできなかった。
アデールの手に力がこもった。
私は息を整え、続けた。
「今夜は、待ちません。婚約破棄のお話は受けました。明日、あなたが訪ねていらしても、私はお茶会へ行きます」
「……別に、男がいるのか」
ロラン様がアデールの後ろへ目を向けた。
ジュリーが半歩前へ出た。
「明日のお茶会にいるのは、私ですけれど」
「君には聞いていない」
「私たちの約束のお話でしょう?」
ジュリーは私の手を離さなかった。
私は鼻の奥がつんとして、少し笑った。自分のためだけなら言えずにいたことも、二人が立っていてくれると、言葉になった。
「ほかの方と比べて決めたのではありません。あなたと結婚したくないのです。明日は、私が会いたい人に会います」
ロラン様が口を開いた。
私の横から、アデールが小さく言った。
「私も、あなたに会いたいわ」
胸がいっぱいになった。
そんなこと、ずっと言ってもらっていたのに。毎回の誘いを、断りを入れる用事にしてしまっていたのは、私だった。
「ありがとう。何度も誘ってくれて」
「行けないって言われても、また誘いたかったの。あなたと話すのが好きなんだもの」
彼女が笑ったところで、私は我慢できなくなった。
二人の手を離してアデールに抱きつくと、彼女も強く抱き返してくれた。肩越しにジュリーが「私の分は」と言うので、今度は三人でくっついた。
「ここは夜会だぞ」
ロラン様が言った。
すぐに叔母の声がした。
「ええ。私の夜会です。親しい者が抱き合うのを咎めるつもりはありません」
顔を上げると、叔母がこちらへ来ていた。
ロラン様はヴィオラ様へ腕を差し出した。
「行こう。ここにいても、まともに話ができない」
「お帰りになるのでしたら、お一人でどうぞ。私は母の馬車で帰ります」
彼女は少し離れたところにいる子爵夫人を見た。夫人が娘を呼ぶように手を差し出している。
「ヴィオラ、君まで」
「私も、お友達とのお茶会へは行きますから」
彼女はそれだけ言って、母親のそばへ歩いていった。
誰も追いかけなかった。ロラン様がその場に残っていると、叔母が広間の扉を示した。
「お話を整理なさるのでしたら、小客間をお使いください。私は夜会を続けますので」
彼は何か言いたそうに私を見た。
私は会釈を返したあと、友人たちに向き直った。
「ねえ。まだ、お茶会まで半日以上あるわね」
「そうね。どうしましょう」
ジュリーの言い方がおかしくて、また笑ってしまった。
アデールが私の目元を見て、ハンカチを差し出してくれた。私は礼を言って受け取り、滲んだ涙を拭く。ロラン様が扉の方へ歩いていくのが見えたが、今度はそちらへ気を取られなかった。
叔母に、昔よく三人で歌った曲を弾いてもらえないか頼んだ。
少人数の気楽な会だから、あとで客の誰かも楽器を弾く予定になっていた。叔母は「それなら私が」と、自分から鍵盤楽器の前へ座ってくださった。
「歌詞を覚えている? 二番の途中が怪しいのだけれど」
私が尋ねると、アデールはジュリーの方を見た。
「そこはジュリーに任せましょう。私も怪しいから」
ジュリーはそれを聞いて、慌ててこちらを向いた。
「私を頼りにしていたの? 私は二人が歌っている間、口を動かしていただけよ」
私はまた笑った。
今度はロラン様に聞こえるかどうかも、考えなかった。
* * *
翌朝、両親に昨夜のことを話した。
父は最後まで聞くと、婚約を解消する気持ちは変わらないかと、一度だけ尋ねた。私は、変わりませんと答えた。
母は隣で頷き、午後の予定を聞いてくれた。
「アデールとジュリーと、お茶を飲みます」
「ええ。楽しんでいらっしゃい」
黄色のドレスの袖に腕を通したとき、鏡の中の自分を見て、私は少し照れた。
やっぱり、この色が好きだった。
午後、アデールの家の窓辺で、三人のお茶会が始まった。
ジュリーが持ってきた旅先の菓子を食べ、馬車の車輪が泥にはまった話を聞いた。笑ってお茶が飲めなくなり、一度カップを置いた。
誰も玄関を見なかった。私は時計を見なかった。
「来週は、うちに来て。母も、二人に会いたいと言っていたの」
私が言うと、アデールはすぐに頷いた。
ジュリーが指を折り始める。
「明日はリボンを見に行くのでしょう。その次の日は、アデールの新しい帽子を見せてもらう。来週はエステルのおうちね」
「待って。帽子はお茶のついでに見ていけばいいのよ」
「そんなに急いで済ませなくてもいいじゃない」
アデールが私を見た。
私も見返したあと、二人でジュリーを見た。
「予定を空けておくって、私、今度は楽しみで言えるのね」
そう言うと、アデールが嬉しそうに笑った。
ジュリーはもう一つ、旅先の菓子を私の皿へ載せてくれた。
数日後、両家の婚約解消の書類が交わされた。
ロラン様から一度、会って話したいという申し出もあったが、お断りした。両親にはあらためて礼を言い、アデールとジュリーには次のお茶会の招待状を書いた。
日時を書き、お菓子の希望があれば教えてほしいと添える。アデールには借りたハンカチも返さなくては、と、洗って畳んでおいたものを取り出した。
刺繍の入った白い布を見ているうちに、またあの夜のことを思い出した。泣いても笑っても、そばにいてくれた二人を。
私は招待状の末尾に、もう一行書き足した。
今度は、二人に会える私の幸運にも乾杯させてください。
ペンを置いてから、少し笑った。
やはり私は、まだ喜び足りないらしかった。
面白かったら、評価・ブックマーク頂けるとうれしいです。




