王太子に婚約破棄を告げられた悪役令嬢の華麗なる戦い
「オットー伯爵令嬢ルイーゼ。貴女との婚約を破棄する」
王太子フレデリックが放った唐突な一言が華やかな晩餐会の空気を一瞬で凍らせる。来るべき時が来たことを悟り、ルイーゼは拳を握り口を引き結んだ。国外からの賓客を招いた席での発言は、フレデリックの相応の意志の現れ。彼はもう、引き返すつもりはないのだ。
「で、殿下! ご冗談が過ぎますぞ?」
宰相が引きつった笑いを浮かべてフレデリックを諭す。フレデリックは首を横に振り、はっきりとした口調で周囲に呼びかけた。
「覚悟なく放つ言葉ではない。私は真実に目覚めたのだ。もはや偽りの関係に甘んじることはできぬ。これから列席の皆様にご覧いただく一部始終が、我らの未来の証明となろう」
フレデリックの強固な意志を感じたか、国王シャール三世が重々しく口を開く。
「……後悔は、ないな?」
「無論!」
即答し、フレデリックはルイーゼを正面から見据えた。
「決着を付けよう、ルイーゼ」
ルイーゼは目を固く閉じ、絞り出すように告げる。
「承知、いたしました――」
シャール三世は大きくうなずき、軽く右手を上げた。近衛兵たちが集まり、出席者を周縁に移動させる。椅子とテーブルが片づけられ、会場の中央にぽっかりと何もない空間が現れた。シャール三世はパチンと指を鳴らす。
――ゴゴゴゴ
中央の床がぱたんと下に向けて開き、会場全体が鳴動を始める。出席者から戸惑いのざわめきが上がった。黒々と口を開けた穴の下から、何かがせり上がってくる――それは十八フィートの正方形をした、無骨なリングだった。
「いくぞ!」
フレデリックは自らのマントを右手で掴み、勢いよく空へと放った。ルイーゼもまた、ドレスの左肩を掴み、引きちぎるように天に放つ。次の瞬間そこにいたのは、二つの若く荒ぶる魂――
「青コーナー、悪逆非道残虐無道、手段を選ばぬ数々の卑怯技で並みいる強者を叩き潰してきた世紀の悪役令嬢、マスク・ド・スカルの入場です!」
宰相が小指を立ててマイクを握り、青コーナーを左手で指し示す。青コーナーへと続く花道がスポットライトに照らされ、おどろおどろしい入場曲が流れ始めた。観客から激しいブーイングが飛ぶ。真っ黒の地に骸骨を思わせる白の模様を施したマスクを被った一人のレスラーが花道を一気に駆け抜け、ひらりと跳躍してリングに降り立った。
「今日こそお前の最後だ!」
「とっととやられちまえ!」
罵声を浴びせる観客たちを見渡し、憎たらしく口元を歪ませ、マスク・ド・スカルは右手の親指を立てると自らの首に当て、掻き切るように横に滑らせた。
「ダァァム・デストローイ!」
マスク・ド・スカルはそのまま親指を下に向け、舌を出して観客を嘲笑う。観客のボルテージが一気に上がり、ポップコーンが乱れ飛ぶ。
「赤コーナー、清廉潔白正統王者、どんな卑怯な相手に対してもクリーンファイトを貫く稀代の王太子、ホワイトタイガーの入場です!」
会場を支配していた憎悪と罵声が一瞬にして期待と歓声に塗り替えられる。スポットライトが赤コーナー側を照らし、勢いのある入場曲が観客の熱を高める。花道の左右に設けられた柵から伸びてくる手に一つ一つ手を合わせながら、白虎の覆面を被ったレスラーがゆっくりと花道を進み、リングのロープをくぐった。
「やっちまえホワイトタイガー!」
「反則野郎を叩きのめしてくれ!」
人々の声援に手を上げて応え、ホワイトタイガーは宰相からマイクを受け取ると、
「皆さんに一つ、約束しよう」
右手の人差し指を高く掲げた。
「正義は必ず勝つ。私は今日、それを証明してみせる!」
――おおおおおおぉぉぉぉーーーーっ!!
人々の歓喜が咆哮となって会場を揺らす。自然とタイガーコールが巻き起こり、観客の一体感を高める。マイクを宰相に返し、ホワイトタイガーは対角線上にいるマスク・ド・スカルを見据えた。コーナーポストに背を預け、マスク・ド・スカルは馬鹿にしたように笑っている。
「六十分一本勝負、ファイッ!!」
宰相が右手を切るように振り下ろし、戦いの幕が上がった。
両者はゆっくりとリング中央に歩みを進める。ニュートラルコーナーにはオットー伯爵と王妃がそれぞれ付き、選手に檄を飛ばしていた。マスク・ド・スカルはやや前屈みの低い姿勢でまっすぐにリング中央まで進むと、ホワイトタイガーに右手を差し出す。戦いが始まる前の、対戦相手に敬意を払う挨拶――ホワイトタイガーがわずかに口元を緩め、マスク・ド・スカルの手を取った。
「バァカ」
マスク・ド・スカルが手を強く引き、ホワイトタイガーが前につんのめる。下がったホワイトタイガーの顔に、マスク・ド・スカルは勢いを付けた頭突きを放った。ホワイトタイガーの顔が弾け、よろけた身体が一歩下がる。観客席から悲鳴と怒声が上がった。マスク・ド・スカルは膝を沈めると、その場で跳躍してホワイトタイガーの厚い胸板にドロップキックを放つ。たまらずホワイトタイガーは後ろに吹き飛び、背をマットに打ち付けた。マスク・ド・スカルは足を肩幅より大きく広げ、胸を反らし、両手を掲げて天に吠えた。
「間抜け野郎が! このオレサマが、てめぇに敬意を表するなんてことがあるわけねぇだろ、世間知らずの甘ちゃん坊やが!!」
会場に響くマスク・ド・スカルの嘲笑が、観客の熱に形を与える。
「卑怯者!」
「これ以上リングを汚すな!」
「今日こそホワイトタイガーがお前に引導を渡すからな!!」
「頼むから死んでくれ!」
憎悪がうねりとなってリングに立つスカルの覆面に集まる。心地よさげに目を細め、マスク・ド・スカルは赤い舌を出し、観客に向かって声を張り上げた。
「寝言は寝て言え、この夢想家ども!!」
観客の憎悪が殺意を帯びる。口元を歪ませて観客を手招くマスク・ド・スカルの背をにらみ、ホワイトタイガーはゆっくりと立ち上がった。
立ち上がったホワイトタイガーの姿に観客が沸く。マスク・ド・スカルはホワイトタイガーを振り返ると、含み笑いと共に話しかけた。
「おや、立ち上がっちまったかい、王子サマ。あのまま寝てりゃこれ以上ブザマな姿を客に見せずに済んだのに」
ホワイトタイガーのマスクの奥の瞳がギラリを光る。
「よくしゃべるなマスク・ド・スカル。だがここはリングだ。口がどれほど上手かろうと、スリーカウントに加算はないぜ?」
ケッ、とマスク・ド・スカルは白けたように肩をすくませる。
「王子サマはジョークもお上品でいらっしゃる。いいぜ、来いよ甘ちゃん坊や。てめぇの一撃なんざ屁でもねぇってとこを見せてやる」
マスク・ド・スカルは挑発するように人差し指で手招く。ホワイトタイガーは無言でマットを蹴り、マスク・ド・スカルに向かって一直線に走る。マスク・ド・スカルはスタンスを広く取り、やや前掲して出迎えるように両腕を広げた。
「むんっ!」
うなりと共に身体をひねり、ホワイトタイガーは全体重を右の肩に乗せてマスク・ド・スカルにぶつける。マスク・ド・スカルが目を見開き、息を止めた。ロープまで吹き飛ばされたマスク・ド・スカルの姿に観客が一斉に歓声を上げた。
ホワイトタイガーはすぐさま手を伸ばし、ロープの反動でリング中央まで戻ってきたマスク・ド・スカルの腕を掴み、横に半回転して反対側のロープに振る。マスク・ド・スカルは身をひねってロープを背でたわませ、勢いを増して戻ってくる。水平に広げたホワイトタイガーの右の腕の筋肉が盛り上がり、マスク・ド・スカルの首元に狙いを定めた。マスク・ド・スカルは辛うじて身を沈め、ホワイトタイガーの脇を通り過ぎる。勢いは止まらず、マスク・ド・スカルは再び身をよじってロープを背で受け、反動でリング中央に戻される。またも待ち受けるホワイトタイガーの腕を頭上に掠め、マスク・ド・スカルは三度ロープに弾かれた。迎え撃つホワイトタイガーの目が猟犬の鋭さを帯びる。
「終わりだ!」
ホワイトタイガーのラリアットがクリーンヒットし、マスク・ド・スカルは背を激しくマットに叩きつけた。ホワイトタイガーは横たわるマスク・ド・スカルを冷徹に見下ろす。マスク・ド・スカルは苦悶の呻きを上げ――
――ワアァァァァーーーーッ!!
観客達が一斉に拳を天に突き上げた。
ホワイトタイガーは倒れているマスク・ド・スカルにフォールの体勢を取る。宰相が二人の脇に駆け寄り、身を屈めて手を振り上げた。
「ワン、ツー、ス――」
三度目の手がマットを叩く直前、マスク・ド・スカルの身体が跳ね、肩がマットから離れる。「二.九五!」と宰相が叫び、観客から落胆のため息が漏れた。ホワイトタイガーは立ち上がり、後ろに下がる。荒く息を吐き、マスク・ド・スカルは身を起こした。
「甘ちゃん坊やの一撃など屁でもないんじゃなかったのか?」
腕を組み、余裕の笑みを口元に浮かべてホワイトタイガーが言った。観客席に指笛が飛び交う。マスク・ド・スカルはわずかに身体を揺らせながら、血走った目でホワイトタイガーをにらんだ。
「ファイッ!」
宰相が試合の再開を告げ、二人はリング中央を挟んで向かい合う。ホワイトタイガーは右手の甲を向け、挑発するように手招いた。マスク・ド・スカルは乾いた殺意でホワイトタイガーをにらみつけ、一直線に駆ける。ホワイトタイガーもマットを蹴り、二人の肩がリング中央で激突した!
「ぐぉっ!」
当たり負けたマスク・ド・スカルが弾かれて一歩、二歩と後ろに下がる。ホワイトタイガーは身を屈めて股下に手を回し、マスク・ド・スカルを抱え上げてそのままマットに叩きつけた。バンッ! という音が響き、あごを上げてマスク・ド・スカルが呻く。ホワイトタイガーはマスク・ド・スカルに背を向けてコーナーポストに歩み寄ると、ロープに手を掛けて軽やかに跳躍し、コーナーの上に立った。両腕を掲げて観客を煽るホワイトタイガーに、怒涛のようなタイガーコールが巻き起こる。
『タ・イ・ガー!』
『タ・イ・ガー!』
『捻り潰せ!』
『処刑だ!!』
加熱する殺意に応え、ホワイトタイガーはコーナーポストを蹴り、動けぬマスク・ド・スカルの上に身を躍らせた。筋肉の鉄塊とでも言うべきホワイトタイガーの肉体が重力加速度を得て躊躇なくマスク・ド・スカルを圧殺する。衝撃がマットを揺らし、マスク・ド・スカルの身体が跳ねる。ホワイトタイガーはそのままフォールの態勢を取った。
「ワン、ツー、ス――」
絞り出すような声を上げ、マスク・ド・スカルは辛うじてマットから肩を浮かせた。「二.九九!」と宰相が叫ぶ。観客席から「カウントおかしいぞ!」とヤジが飛んだ。ホワイトタイガーは立ち上がり、観客に向かって軽く手を上げる。不満を抱えながらも観客はレフェリーへの文句を飲み込んだ。
試合の再開が告げられ、マスク・ド・スカルは大きく肩で息をしながらホワイトタイガーをにらむ。ホワイトタイガーは平然とその視線を受け止め、ゆっくりとした動作で一歩前に進んだ。マスク・ド・スカルが怯えたように一歩下がる。観客の歓声が一段大きさを増した。
『終わりだ!』
『仔ウサギを狩るより容易いぞ!』
『喉笛掻っ切ってやれ!』
観客を焦らすように、ホワイトタイガーは一歩ずつ前に進む。マスク・ド・スカルはそのたびに一歩下がり――ニュートラルコーナーにその背が当たった。マスク・ド・スカルはハッと目を見開く。観客のボルテージは最高潮に達し、無尽の殺意がスカルマスクになだれ込む。コーナーポストの後ろでオットー伯爵が顔色を失った。ホワイトタイガーはこの時を待っていたかのように、一気にマスク・ド・スカルとの距離を詰める。もはや逃げ場はない。マスク・ド・スカルは最後のあがきのように拳を振る。ホワイトタイガーは繰り出された拳をわずかに首をひねって躱し――躱したはずの拳打が左の額を抉った。顔が弾け、ホワイトタイガーの前進が止まる。マスク・ド・スカルは再び拳を繰り出した。拳ではありえない鋭利な傷が額に刻まれ、白虎のマスクが裂けて血に染まる。よろよろと後ろに下がり、ホワイトタイガーは傷を手で押さえて片膝を突く。何が起こったのか――観客席が水を打ったように静まり返った。
「どうした色男? 急にやる気がなくなっちまったかい?」
血に塗れた鉄製の栓抜きを握ったまま、マスク・ド・スカルはにやりと口を歪ませた。
「何か持っているぞ!」
観客の誰かが声を上げ、静まり返っていた会場が一気に沸点に達する。マスク・ド・スカルはサッと後ろ手に栓抜きを隠した。宰相は試合を止め、マスク・ド・スカルに詰め寄る。
「何を隠した! 出しなさい!」
マスク・ド・スカルはトボけた様子でそっぽを向いた。
「何も隠しちゃいませんよー」
わざとらしく口笛を吹き、足を交差させてマスク・ド・スカルはニヤニヤと笑った。観客から怒声が上がる。
「レフェリー! 後ろ、後ろ!」
「手に持ってる!」
宰相はさらに表情を厳しくする。
「手をこちらに出して!」
手を後ろに隠したまま、マスク・ド・スカルはもぞもぞと身体を揺らせている。
「えー、どうしよっかなー」
「早くしろ! 反則負けにするぞ!」
これ以上待てないと宰相が怒鳴る。軽く肩をすくめ、マスク・ド・スカルは両手を前に出して手のひらを上に向けた。宰相がマスク・ド・スカルの手に視線を落とし、目を見張る。そこには、何もなかった。
「ほらー、冤罪でしょ?」
マスク・ド・スカルはへらへらをした表情を崩さない。戸惑う宰相に
「セコンドだ!」
と観客が叫んだ。宰相はマスク・ド・スカルを押しのけ、コーナーポストの後ろにいるオットー伯爵に言った。
「マスク・ド・スカルから受け取ったものを出してください」
「何の話だ? 私は何も受け取っていない」
両手を掲げ、オットー伯爵は白々しい表情で答える。宰相は伯爵の頭からつま先までを見渡し、再び口を開く。
「ポケットの中身を見せていただけますか?」
「私をお疑いかな?」
オットー伯爵の声に、わずかに危険なものが混じる。宰相ははぐらかすように答えた。
「やましいことがないのなら、中身を出しても問題ありますまい?」
「無論、なんらやましいことはない。ただ――」
伯爵の瞳が刃物の鋭さを帯びた。
「――建国以来の重臣、オットー伯爵家の血を疑うというのなら、いかに宰相殿といえど相応の覚悟をしていただかねばならぬ」
伯爵の目が覚悟を問う。宰相の額にじっとりと汗が滲んだ。会場には暴風のように罵声が渦巻いている。宰相はしばし伯爵を見つめ――
「――わかりました」
小さく首を振り、コーナーポストを離れた。観客が驚きの声を上げ、憎悪が宰相に集まる。
「何やってる!」
「お前の目は節穴か!?」
罵声に背を向け、宰相は試合の再開を告げる。マスク・ド・スカルは冷静な目で宰相を見つめた。
白いマスクの左側を赤く染め、ホワイトタイガーはおぼつかぬ足取りで立ち上がった。マスク・ド・スカルはおどけた仕草で無造作にホワイトタイガーに近付く。ホワイトタイガーの水平チョップをわずかに身を引いて躱し、マスク・ド・スカルは拳を赤く染まった額に放つ。血と汗が飛び散り、ホワイトタイガーは再び片膝を突いた。観客から小さく悲鳴が上がる。
「どうしたどうしたベイビー。お前の大逆転を、会場の皆様が心待ちにしてるんだぜ?」
マスク・ド・スカルはホワイトタイガーの髪を掴む――ふりをしてマスクの裂け目に手を掛け、強引に上に引っ張る。マスクの裂け目が広がり、ホワイトタイガーの目元が露わになった。観客の悲鳴が大きくなる。宰相に向かっていた憎悪の視線が、再びマスク・ド・スカルに集まった。宰相が動こうとした瞬間、マスク・ド・スカルは自らの頭を思い切りホワイトタイガーの額に叩きつける。ゴツッ、という鈍い音が響き、ホワイトタイガーの身体が揺れた。マスク・ド・スカルは観客を振り返り、芝居がかった大仰な仕草で声を張った。
「ご来場の紳士淑女の皆様! 今宵ははるばる足をお運びいただき、誠にありがとうございます!」
正面に、左右に、背後に、マスク・ド・スカルは向きを変え、深々とお辞儀をする。観客は一斉にブーイングの声を上げた。それをまるで意に介さず、マスク・ド・スカルは芝居のように言葉を続ける。
「古来、無数の物語が正義の勝利を、悪の滅亡を描いてきました。何度も何度も、しつこいほどにね。しかしこう思ったことはありませんか? 口に出さずとも、心の中で――」
マスク・ド・スカルはニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「――子供騙しの勧善懲悪には、もう飽きたと」
会場のブーイングが急速に萎む。不吉な予感に観客たちが息を飲む。マスク・ド・スカルはクククと喉を鳴らした。
「今から皆さまにお見せするのは、そんなカビの生えた御伽話じゃあない。もっと残酷で、もっとぞくぞくするような物語。『正義は必ず勝つ』だって? バカ言っちゃいけない。お前らがこれから目撃するのは――」
マスク・ド・スカルは堪えきれないように狂ったような笑い声を上げた。
「――正義が破れ、悪が世界を支配する。そんな最っ高のエンターテイメントだ!!」
観客が気圧されたように息を飲む。静まり返った会場の中心で、マスク・ド・スカルはホワイトタイガーの正面に立つと、ふらつき目に光を失った彼を強引に立たせ、思い切りロープへと突き飛ばした。ロープが大きくたわみ、反動がホワイトタイガーを死神に差し出す。マスク・ド・スカルは半ば足をもつれさせながら突っ込んでくるホワイトタイガーの肩に手を置いて軽やかに跳躍すると、空中で身体を半回転させ、肩車の要領で彼の肩に乗り、両ひざで頭を挟んで勢いよく後方に倒れ込む。振り子のようにマスク・ド・スカルの頭が勢いよくホワイトタイガーの股下をくぐり、膝に挟まれた頭はのけぞるようにマットに落下していく。
――リバース・フランケンシュタイナー
すさまじい衝撃音と共に後頭部がマットに叩きつけられ、ホワイトタイガーは大の字に倒れる。観客たちが完全に声を失った。マスク・ド・スカルが立ち上がり、リングの四方を見渡す。全き沈黙が楽しくて仕方がないというように、マスク・ド・スカルは大きな声で笑った。
誰もが声を出せずにいる。ただ呆然とホワイトタイガーを見つめる。マスクを血に染めた正義のヒーローはピクリとも動かない。マスク・ド・スカルの哄笑だけが響く。
「これが現実だ! 夢見るクソ野郎ども!」
大気を裂く雷鳴のようにマスク・ド・スカルは天に吠えた。
「クリーンだろうが、懸命に努力を重ねようが、弱けりゃ負ける。弱けりゃ死ぬ! 正義だ悪だは付け合わせのパセリみてぇなもんだ! 勝者は総取り、敗者にゃパンのひとかけらも残らねぇ! それが真理だ。それが平等だ! 正しく生きてりゃ報われる? いつか神様が助けてくれる? 夢見てんじゃねぇよ! 他人の喉笛喰いちぎって生きていく! 人間ってのは二本足で立つケダモノの名だ!」
マスク・ド・スカルは正面にいる一人の観客を見据えた。十歳ほどのその少年の目から涙の粒がこぼれ、頬を伝う。マスク・ド・スカルはにぃ、と蛇のような笑みを浮かべた。少年は胸の前で手を組み、震える声でつぶやいた。
「……立って、ホワイトタイガー」
かすれ、溶けて消えてしまいそうな小さな声は、会場を包む沈黙にわずかな傷を付ける。声を持っていることを思い出したように、少年の隣にいる中年の男が口を開いた。
「立ってくれ、ホワイトタイガー!」
言葉は伝播し、祈りは広がる。
「頑張れ!」
「負けるな!」
「勝って!」
「捻り潰せ!」「処刑だ!」と目を血走らせていた観客の姿はそこにはない。今、人々の中にあるのは、人間という存在そのものに対する切実な祈りだった。正しく生きること。人は助け合えるということ。人間の善性への信頼を、人々はたった一つの名に託した。
『ホワイトタイガー!!』
マスク・ド・スカルはどこか嬉しそうに微笑み、後ろを振り返る。荒く息付き、引き裂かれたマスクの奥に確かな意志の光を宿して、正義のヒーローがそこに、立っていた。
――ワアァァァァーーーーッ!!
王宮が歓喜に揺れ、タイガーコールが会場を埋め尽くした。
「仕上げといこうじゃねぇか」
舌で唇を舐め、マスク・ド・スカルはホワイトタイガーを見据える。ホワイトタイガーはマスク・ド・スカルをにらんだまま、右手の人差し指を天に高く掲げた。その指は試合前に告げた一つの約束を示している。
――正義は必ず勝つ
観客の歓声がひと際大きくなり、ホワイトタイガーの背を押すように拍手が巻き起こった。
「証明してみせろよ! できるもんならなぁ!」
マスク・ド・スカルはホワイトタイガーに向かって走る。ホワイトタイガーはスタンスを広くして身構えた。マスク・ド・スカルは右肩を前に出し、体重を乗せてぶつかる。バチン、という音が響き、弾き飛ばされたのはマスク・ド・スカルのほうだった。一歩も退かぬ要塞のような立ち姿にマスク・ド・スカルが悪態を吐く。
「頑丈なだけが取り柄のデクノボーがっ!」
マスク・ド・スカルは水平チョップを放った。受けたホワイトタイガーは微動だにしない。鏡映しのようにホワイトタイガーが水平チョップを繰り出す。受けた衝撃にマスク・ド・スカルは目を剥いた。マスク・ド・スカルは再度水平チョップを放つ。ホワイトタイガーの表情は揺らがない。ホワイトタイガーの水平チョップが大気を裂く。バシン、と重い音が響き、マスク・ド・スカルは後ろに下がった。
「ちっ」
忌々しげに舌打ちをして、マスク・ド・スカルはその場で跳躍し、ホワイトタイガーの胸板にドロップキックを放った。ホワイトタイガーの口元が苦痛にゆがむ。マスク・ド・スカルは再びドロップキックを放つ。ホワイトタイガーがよろけるように一歩下がった。観客席から悲鳴が上がる。確信の笑みを浮かべ、マスク・ド・スカルは三度ドロップキックを放ち――ホワイトタイガーの手がマスク・ド・スカルの両足を掴む。マスク・ド・スカルが目を大きく見開く。身をよじり、ホワイトタイガーはマスク・ド・スカルの足を掴んだままグルグルと回転を始めた。一周、二周、三周――回転は速度を増し、観客の期待を煽る。充分に期待を育て、ホワイトタイガーは手を離した。マスク・ド・スカルの身体が弾丸のように射出され、マットの端に叩きつけられる。強かに背を打ち、マスク・ド・スカルはくぐもった呻き声を上げた。
『タ・イ・ガー! タ・イ・ガー!』
観客の想いが、祈りが、願いが一つの奔流となってリングに注がれる。苦痛の呻きを上げて転がるマスク・ド・スカルの傍らにホワイトタイガーは立つ。その冷徹な瞳に気付いたマスク・ド・スカルが慌てた様子で身を起こした。ホワイトタイガーは素早くマスク・ド・スカルの腕を取り、強引にロープへと振る。フィニッシャーの予感に会場のボルテージは最高潮に達した。
『いけっ! ホワイトタイガー!』
ロープに胸と腹を打ち、マスク・ド・スカルの身体がホワイトタイガーに背を向けたまま弾かれて戻ってくる。ホワイトタイガーはマスク・ド・スカルの腰を両腕でホールドし、勢いのままにその身体を持ち上げた。芸術的な弧を描き、マスク・ド・スカルの両肩がマットに突き刺さる!
――ジャーマンスープレックスホールド
つま先を立ててきれいなアーチを描いたホワイトタイガーの身体に観客から感嘆と歓声が上がる。マスク・ド・スカルは、動かない。宰相が真横に駆け寄り、膝を突いて右手を振り上げる。
「ワン!」
観客が息を飲む。
「ツー!」
手を組み、固く目を瞑る。『正義は勝つ』のだと、ヒーローの言葉を信じるように。
「――スリー!」
宰相の手がマットを叩く音が聞こえる。けたたましくゴングが鳴り響いた。ホワイトタイガーがホールドを解く。マスク・ド・スカルの手足が力なくマットを打った。
――おおおおおおぉぉぉぉーーーーっ!!
言葉にならない熱狂が爆発する。ホワイトタイガーの名を讃える声が会場を包む。少年の涙の色が変わった。満足そうに息を吐き、ホワイトタイガーはマットに身を横たえた。
万雷の如き拍手が鳴りやまぬ中、ホワイトタイガーはゆっくりと身を起こした。侍従長が傍に寄り、恭しくマントを差し出す。再びマントを身にまとったとき、ホワイトタイガーの仮面は剥がれ、王太子フレデリックが姿を現した。
マスク・ド・スカルもまた、身を起こし小さく頭を振る。終わった。終わったのだ。スカルのマスクを脱ぐと、しゅるしゅると身体が縮む。侍女の差し出した淡い蒼のドレスに袖を通し伯爵令嬢ルイーゼとなった彼女は、立ち上がり、背を伸ばした。
「裁定を」
宰相がシャール三世にマイクを譲る。拍手が名残を惜しむように徐々に減り、やがて消えた。フレデリックとルイーゼは並んでシャール三世に傅いた。シャール三世は重々しい口調で告げる。
「見事な試合であった。この試合は我が国のマット界に伝説として語り継がれるであろう」
来賓たちが一斉にうなずく。皆が今日、この場にいることができた幸運を実感している。シャール三世はわずかの間沈黙し、フレデリックを見下ろした。
「……婚約破棄を認めよう、フレデリック。これは国王としての正式な裁定である」
「ありがたき幸せにございます」
フレデリックは硬い声で謝意を述べる。ルイーゼの表情がわずかに翳った。来賓たちは痛ましげに目を伏せる。完璧なスリーカウントフォール勝ちを収めたフレデリックの望みを阻むことは誰にもできない。口惜しい沈黙が晩餐会場を包む。
「そして、フレデリックよ」
シャール三世は冷徹な瞳をフレデリックに向けた。
「お前の王太子としての義務と権利を今後一年間停止する」
フレデリックとルイーゼが同時に顔を上げ、目を見開いてシャール三世を見る。賓客たちがざわめきの声を上げた。
「な、何ゆえでございますか!?」
「わからぬか、我が息子よ」
教え諭すようにシャール三世は、いや、かつてこの国のマット界の頂点に君臨していた伝説のマスクマン、サーベルタイガーは言った。
「お前は勝ったのではない。勝たせてもらったのだ。マスク・ド・スカルという最高の悪役の導きによってな」
フレデリックがハッと息を飲む。ルイーゼは視線を床に落とした。サーベルタイガーは淡々と言葉を続ける。
「観客の声援を力に変えたとでも思っているか? だがその声援は誰が作り上げた。お前のファイトスタイルか? 違う。観客の憎悪を一身に集め、完璧に悪を貫き通した者がいたからこそ、お前のフィニッシュホールドが最高の輝きを得たのだ」
「お待ちください!」
ルイーゼは顔を上げ、サーベルタイガーをまっすぐに見上げる。
「私はリバース・フランケンシュタイナーを一切の手抜かりなく仕掛けた自負がございます。それを受けきり、立ち上がったは殿下の比類なき強さの証明。たとえ陛下といえど、ホワイトタイガーの誇りを汚すことはなりませぬ!」
「よいのだ!」
フレデリックは鋭い声でルイーゼを制した。
「よいのだ、ルイーゼ。すまなかった」
「殿下――」
ルイーゼは苦しげにフレデリックの横顔を見つめる。フレデリックは父王に頭を下げた。
「承知、いたしました」
ルイーゼは胸の前で手を握ってうなだれた。二人の様子を見つめ、シャール三世は小さく息を吐いた。
「ひとつ問おう。なぜ婚約破棄を望んだ、フレデリック」
フレデリックの肩がビクリと震える。ルイーゼは不可解そうに眉を寄せ、フレデリックを盗み見た。言いよどむフレデリックにシャール三世は冷たい声で命じた。
「答えよ」
頭を下げたまま、フレデリックは絞り出すように言った。
「……気付いて、しまったのです。真実に――自分の、弱さに」
「弱さ?」
ルイーゼが驚いたように声を上げる。床を見つめ、フレデリックは言葉を続けた。
「……婚約者という立場にいては、ルイーゼと――マスク・ド・スカルと本気で戦うことはできない。だが、ホワイトタイガーとしてマスク・ド・スカルはいつか絶対に決着を付けねばならない相手。だから貴女と戦うには、婚約を破棄しなければならなかった」
フレデリックは顔を上げ、横にいるルイーゼの顔を見つめた。
「そして、マスク・ド・スカルに勝利したその暁には、改めて貴女に結婚を申し込むつもりだったのです。ルイーゼ」
「えっ?」
ルイーゼは驚きに目を丸くして両手で口を覆った。フレデリックの真摯な目に見つめられ、ルイーゼの顔にほのかな朱が浮かぶ。世話が焼ける、とでも言いたげに鼻を鳴らし、シャール三世はオットー伯爵に顔を向けた。
「オットー伯。我が愚息を一年、卿に預ける。一から鍛え直してやってくれい」
「陛下!? 何を!?」
弾かれたようにフレデリックがシャール三世を見る。オットー伯爵は胸に手を当て、優雅に頭を下げた。
「ご下命、承りましてございます」
「お父様!」
ルイーゼが顔を真っ赤にして悲鳴のような声を上げる。シャール三世はわざとらしい厳めしさをまとって二人に告げた。
「最高の悪役令嬢の相手は、最高の王太子にしか務まらぬ。己を磨き、彼女に相応しい男になれ、フレデリック」
――パチパチパチ
来賓たちから自然と温かい拍手が巻き起こる。フレデリックとルイーゼは戸惑ったように周囲を見渡した。隣国の大使が力強く告げる。
「未来の英雄に祝福を!」
北の地から招かれた王子がそれに続いた。
「当代最高の悪役令嬢に最大の敬意を!」
フレデリックとルイーゼは顔を見合わせ、照れたように微笑む。人々の拍手に応え、二人は深く礼を返した。宰相が絹のハンカチで目尻を拭い、シャール三世はこの国の未来を確信したように満足げに大きくうなずいたのだった。




