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Seven Days to Say Goodbye~七日後に彼女を忘れる僕が、彼女を自由にするまでの話~  作者: 三交代制コーヒーライター


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第1話 病院の売店で、彼女は僕の好みを知っていた

病院の売店には、たいてい必要なものが置いてある。


 歯ブラシ、タオル、マスク、のど飴、新聞、週刊誌、妙に強気な値段のサンドイッチ。

 そして、退屈をほんの少しだけ先延ばしにしてくれる甘いもの。


 もっとも、僕が今日ここに来た理由は、退屈しのぎではなかった。


 診察まで、あと二十分。

 ただの経過確認だ、と言い聞かせるには、少しだけ胸の奥が重い。

 待合室の椅子に座って時間を潰すには長く、どこかへ出るには短い。

 そういう中途半端な時間を、人は売店で消費する。


 僕は冷蔵棚の前で、ペットボトルの列を眺めていた。


 お茶。水。スポーツドリンク。コーヒー。カフェオレ。

 どれも人生を変えるほどの選択ではない。

 なのに、こういう小さな選択ほど、なぜか迷う。


「それ、たぶん苦手だと思います」


 背後から声がした。


 明るい声だった。

 病院の売店という場所には少し似合わないくらい、よく通る声。


 僕は手に取りかけていたブラックの缶コーヒーを持ったまま振り返った。


 そこにいたのは、二十歳くらいの女性だった。

 肩にかかるくらいの髪。秋物の薄いカーディガン。表情はよく動きそうで、実際、目が合った瞬間ににこっと笑った。


 初対面の人間に向ける笑顔としては、少し距離が近い。

 物理的にも、心理的にも。


「……僕に言いました?」


「はい。今まさに、その苦そうな缶を手に取ろうとしているあなたに言いました」


「あなた」


「本当はブラックなんか飲めないのに大人ぶって我慢しようとしている人、と呼ぶよりは丁寧かと思って」


「それは配慮の方向が独特ですね。名前は相沢です。名札に出ていますけど」


 僕は胸元の透明ケースを軽く持ち上げた。

 診察券には、相沢蓮と印字されている。


「では、相沢さん」


「病院で名前を知られるのは仕方ないとして、飲み物の好みまで知られるのは想定外ですね」


「安心してください。好みというより、顔です」


「顔」


「その缶を取るときの顔が、“自分はこれを選ぶべきなのだろうか”って顔でした」


「飲み物ひとつで、そこまで苦悩しているように見えましたか」


「はい。冷蔵棚の前で人生の分岐点に立ってました」


「大げさですね。缶コーヒーを選ぶのにそんな物語性はありません」


「ありますよ。ブラックを選ぶ人間には、ブラックを選ぶ理由があります」


「では、僕がブラックを選ぶ理由は?」


 彼女は少しだけ考えるふりをしてから、人差し指を立てた。


「ブラックを飲める人間だけが、次のステージへ進めると思っている」


「外れです、売店にそんな昇格制度はありません」


「僕は健康を気にしている」


「惜しいようで遠いです」


「本当は甘いのが好きだけど、売店で微糖を選ぶと負けた気がする」


 僕は缶コーヒーを棚に戻した。


「……今の発言、だいぶ核心に近いですね」


「でしょう」


「初対面でそこまで踏み込むの、ミステリーなら第一発見者くらい怪しいです」


「私、発見してしまいました。ブラックに敗北しかけている男性を」


「事件性が薄い」


「でも動機はあります」


「甘さへの未練ですか」


「はい。犯人は砂糖です」


「その理屈だと、だいたいの菓子パンが共犯になります」


 彼女は楽しそうに笑った。

 からかっているのに、不思議と嫌な感じがしない。

 たぶん、笑い方のせいだ。

 相手の反応を見ているようで、ちゃんと自分も面白がっている。


「じゃあ、相沢さんにはこっちです」


 彼女は冷蔵棚から微糖の缶コーヒーを取った。

 迷いがなかった。

 売店の棚を知り尽くした人間の動きというより、僕の手がそこへ伸びるのを先回りしたような自然さだった。


「どうぞ」


「ありがとうございます。でも、買うとは言ってません」


「えっ」


「そこは驚くところなんですね」


「だって今、会話の流れ的に完全に買うところでしたよ」


「流れで購買行動を決めるのは危険です。そうやって人は限定品を買います」


「相沢さん、限定品に弱そうです」


「なぜですか」


「“今回だけ”って言葉に、論理で抵抗しようとして負けそう」


「かなり失礼なのに、否定しきれないのが腹立たしい」


 僕がそう言うと、彼女はますます笑った。


 病院の中で聞く笑い声としては、少し明るすぎる。

 けれど、その明るさに救われる人もいるのだろうと思った。


 少なくとも、診察前の妙な緊張は少し薄れた。


「あなたは?」


「私ですか?」


「ええ。売店ソムリエの方ですか?」


「売店ソムリエ…」


 彼女は一瞬きょとんとして、それから真顔を作った。


「はい!飲み物と菓子パンの相性を見ます」


「職業として成立する範囲が狭すぎます」


「でも大事ですよ。メロンパンに緑茶を合わせるか、カフェオレを合わせるかで午後の気分が変わります」


「そこまで言われると、少し専門性がある気がしてきました」


「でしょう。売店は小さな人生なんです」


「規模が突然大きくなりましたね」


「選ぶものは小さいけど、気分は変わりますから」


 彼女はそう言って、棚の端に並んでいた小さなチョコレート菓子をひとつ取った。


「私はこれです」


「甘いものが好きなんですか?」


「好きです。病院にいると、甘いものくらいは自分に優しくしていい気がするので」


 その言葉だけ、少しだけ調子が違った。


 明るい声のままだった。

 笑顔もそのままだった。

 なのに、ほんの一瞬、言葉の底に影が差したように聞こえた。


 気のせいかもしれない。

 病院という場所は、こちらの想像力を悪い方向へ働かせる。

 白い壁、消毒液の匂い、遠くから聞こえる呼び出し音。

 どれも、他人の事情を勝手に深刻に見せるには十分だった。


「誰かの…お見舞いですか?」


 聞いてから、少し踏み込みすぎたと思った。


 彼女はチョコレート菓子を手の中で軽く揺らした。


「そんなところです」


「すみません。今のは、少し立ち入りました」


「いえ。相沢さん、すぐ謝るタイプですね」


「不用意な発言の回収が早いだけです」


「なるほど。失言回収業」


「また職業が増えましたね」


「売店ソムリエより需要ありそうです」


「嬉しくない需要です」


 彼女はレジの方へ歩き出した。

 僕も、なぜか手元に微糖の缶コーヒーを持っていた。


 買うとは言っていない。

 言っていないが、いつの間にか持っていた。

 会話の流れで購買行動を決めるのは危険だと、さっき自分で言ったばかりなのに。


 人間は愚かだ。

 そして微糖はちょうどいい。


 レジには年配の店員が一人いた。

 彼女は先にチョコレート菓子を置き、それからちらりと僕の手元を見た。


「ほら、やっぱり微糖」


「あなたが持たせたんです」


「私はすすめただけです。選んだのは相沢さんです」


「責任の所在を曖昧にするのがうまいですね」


「大人なので」


「今のところ、大人の定義がかなり怪しいです」


 僕が缶コーヒーをレジに置くと、彼女は満足そうにうなずいた。


「大丈夫です。それ、たぶん好きです」


「たぶん、なんですね」


「絶対って言うと、怪しいじゃないですか」


「もう十分怪しいです」


「じゃあ、怪しさ控えめで」


「控えめとは」


 会計を終えると、彼女はチョコレート菓子を小さな紙袋に入れてもらった。

 僕は缶コーヒーをそのまま受け取る。


 店員が「次の方どうぞ」と声をかけ、後ろに並んでいた人が一歩前へ出た。

 売店の小さな流れに押されるように、僕たちは出入口の脇へ移動した。


「相沢さんは、これから診察ですか?」


「ええ。あと十五分くらいです」


「そっか」


 彼女はそう言って、少しだけ視線を落とした。

 けれど、すぐに顔を上げる。


「じゃあ、診察前の景気づけですね」


「缶コーヒーで景気づけになるかは微妙です」


「なりますよ。微糖ですから。人生も少し甘くなります」


「名言っぽく言っていますけど、糖分の話ですよね」


「糖分は大事です」


「否定はしません」


 彼女はまた笑った。


 よく笑う人だ。

 それも、相手に笑顔を向けるのが癖になっているような笑い方ではなく、ちゃんとその場で生まれたものを楽しんでいる笑い方。


 僕はプルタブを開け、微糖の缶コーヒーを一口飲んだ。


 甘すぎない。

 苦すぎない。

 ちょうどいい。


「どうですか?」


 彼女が少し身を乗り出して聞いてきた。


 近い。


 僕は半歩だけ下がろうとして、背中が壁に当たった。

 距離を取る余地がなかった。


「……悪くないです」


「悪くない、いただきました」


「その反応だと、かなり褒めたみたいになりますね」


「相沢さんの“悪くない”は、かなり上位評価っぽいです」


「まだ出会って数分ですよ」


「数分でも、ちょっとはわかることがあります」


「その理屈だと、面接が五分で終わります」


「相沢さんは採用です」


「何に」


「微糖が似合う人として」


「名誉なのか不名誉なのか判断に困ります」


 彼女は満足そうにうなずいた。


 僕は、ふと訊き返すタイミングを逃していたことに気づく。


「そういえば、あなたの名前は」


 彼女は目を丸くした。


「言ってませんでした?」


「聞いてません」


「それは失礼しました。私ばっかり相沢さんって呼んでましたね」


 彼女は少し姿勢を正した。

 売店の出入口の脇で名乗るには、妙に丁寧な仕草だった。


「月島澪です」


 つきしま、みお。


 口の中で、音だけを繰り返す。

 知らない名前だった。


 知らないはずなのに、どこか耳に残る名前だった。

 たぶん、響きがきれいだからだ。

 そう自分に説明した。


「月島さん」


「はい」


「売店ソムリエの月島さん」


「そこまで込みなんですか」


「肩書きは大事です」


「じゃあ相沢さんは、失言回収業の相沢さんですね」


「嫌な名刺になりそうです」


 病院のアナウンスが流れた。

 番号を呼ぶ機械的な声。

 僕の番号ではない。

 それでも、待合室へ戻るべき時間が近づいていることを思い出させるには十分だった。


「そろそろ行きます」


「はい。診察、頑張ってください」


「診察で頑張ることってありますか」


「先生の話をちゃんと聞く、とか」


「それは大事ですね」


「あと、ブラックの顔をしない」


「どういう注意ですか」


「無理して平気な顔をしない、みたいな意味です」


 彼女は笑っていた。

 けれどその言葉は、さっきまでの冗談より少しだけ柔らかかった。


 初対面の相手に言うには、やはり少し近い。

 でも、不思議と不快ではなかった。


「覚えておきます」


 僕がそう言うと、彼女は小さく瞬きをした。


「……はい」


 ほんの少しだけ、返事が遅れた。


 でもそれは、売店の入口を通った人が彼女の肩に軽くぶつかりそうになったからかもしれない。

 彼女は一歩横へ避けて、すぐにいつもの明るい顔に戻った。


「じゃあ、相沢さん」


「はい」


「微糖、ちゃんと最後まで飲んでくださいね」


「飲み物に対する責任感が強い」


「途中で放置された缶コーヒーは、切ないので」


「急に感情移入の対象が缶になりましたね」


 また、彼女が笑う。


 その笑顔を見て、僕は少しだけ肩の力が抜けた。


 診察は好きではない。

 病院も好きではない。

 自分の状態について説明される時間は、もっと好きではない。


 それでも、売店で微糖の缶コーヒーを買わされた、という小さな出来事があるだけで、今日という日が少しだけ違う形になる。


 彼女の言う通り、売店は小さな人生なのかもしれない。

 いや、さすがにそれは言いすぎだ。


 僕は待合室へ向かって歩き出した。


 数歩進んでから、振り返る。

 月島澪は売店の前にまだ立っていた。

 手にした小さな紙袋を胸の前で軽く持ち、こちらに気づくと、明るく手を振った。


 僕は会釈だけ返した。


 手を振るほどの関係ではない。

 少なくとも、僕にとっては。


 待合室の椅子に腰を下ろし、缶コーヒーをもう一口飲む。


 やはり、ちょうどいい味だった。


 初対面のはずの女性が、どうしてこれを選んだのか。

 偶然。

 観察。

 話術。

 もしくは、売店ソムリエとしての勘。


 どれも説明としては成立する。

 成立するのに、どれも少しだけ足りない気がした。


 僕は缶の側面についた水滴を指で拭った。


 診察室の扉の向こうから、誰かの名前が呼ばれる。

 僕はそれを聞きながら、微糖の甘さを舌の奥に残したまま、さっきの笑顔を思い出していた。


 知らない人のはずだった。


 なのに、妙に頭から離れなかった。

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