第34話 今さら、あなたの隣には戻れません
庭園へ続く廊下は、静かだった。
大式典を終えた来賓の足音は、馬車寄せの方へ遠ざかっている。灯りはまだ落とされていないが、壁に映る人影は少なく、石壁に差す西日だけが回廊を長く区切っていた。
エレナは、控室から少し離れた窓際で、国王アルベール陛下からの呼び出しを待っていた。
先に来るのが、国王陛下からの使いとは限らないことも、分かっていた。
先ほど受け取った茶器はもう手元にない。それでも、器の縁に触れた温度だけが、指先に薄く残っている。
疲れはあった。けれど、今日の仕事はまだ終わっていない。
庭園側の扉から、夕方の冷たい空気が流れ込んだ。その気配に紛れるように、廊下の向こうから足音が近づく。
エレナは、振り向く前に分かった。
「エレナ」
ディオン・ハルトレイの声だった。
振り向くと、ディオンは数歩先で足を止めていた。
正装は乱れていない。襟元も袖口も整っている。だが、視線はエレナの顔へ届く前に、一度、窓の下へ落ちた。
以前のように、当然の顔で近づいてはこなかった。
「少しだけ、話す時間をもらえないか」
声は低い。廊下に響く声ではなく、届けばよいという距離に置かれた声だった。
エレナは、手を組み直した。
「国王アルベール陛下のお呼び出しまでの間でしたら」
ディオンは一歩近づき、それから止まった。二人の間には、礼を交わせるだけの距離が残っている。廊下の奥では、使用人が盆を持って通り過ぎ、控室の扉の前には保安部の職員が控えていた。
二人きりにはならなかった。
「今日の式典で、何が起きたのか、全部は分からない」
ディオンは言った。
「だが、何かが起きかけていたことは分かる。空気が変わったことは」
エレナは答えなかった。先ほどまで長机の上に広げられていた席順表、控室札、伝言控えが、まぶたの裏に並ぶ。
ディオンは、その沈黙を急かさなかった。
「そして、それを防いだ場所に、君がいたことも」
言い切ってから、彼はわずかに息を詰めた。式典中に何がどう噛み合ったのか、彼は知らない。茶器の列も、半拍だけ残された音も、確定順も、近衛の半歩も、彼の目には届いていない。
それでも、会場の温度が変わる瞬間だけは、見えたのだろう。
「僕は、君があれほど必要とされているとは思わなかった」
ディオンの視線が、エレナの組んだ手へ落ちた。冷えの残る指先と、背筋を崩さない姿勢を見て、言葉を探すように口元が動く。
「君を誤解していた。冷たく感情がないと思っていた。だが、違ったんだな」
エレナは、黙っていた。
声には後悔があった。その後悔は、ようやく彼の手元に届いたばかりのものに聞こえた。
「もし、もう一度話せるなら」
ディオンは、そこで一度言葉を切った。
「改めて、婚約のことも――」
「ディオン様」
エレナは静かに遮った。
廊下の石壁にぶつからず、ディオンとの距離の中で止まる声だった。
「婚約破棄が、傷つかなかったわけではありません」
ディオンの口が閉じた。
庭園からの風が、エレナの袖口をかすめる。組んだ指に、少しだけ力が入った。
「あの日、あの場所で、大勢の前で切られたことは、傷として残っています」
王宮舞踏会の光、床に落ちた沈黙、向けられた視線。長く脇へ寄せてきたものが、胸の奥をこすった。
エレナは息を整えて、ディオンを見た。
「けれど、傷ついたことと、戻ることは、別のことです」
ディオンが何か言おうとした。謝罪か、反論か、自分でも選べていないような息が、喉元で止まる。
エレナは続けた。
「あなたが今、私を理解してくださったとしても、あの日は消えません」
廊下の向こうで、馬車の車輪の音がかすかに聞こえた。遠ざかる音だった。
「今の私には、次に見るべき会場があります。一緒に動いてくれる方々がいます」
エレナは、ディオンの目をまっすぐに見た。
「今さら、あなたの隣には戻れません」
ディオンは動かなかった。
反論する言葉を探しているようだった。謝罪を重ねようともしていた。けれど、エレナが声を荒げていないからこそ、どの言葉も、この距離を越える前に落ちていく。
「君が冷たいのではなかったことは、今なら分かる」
ようやく出た声は、かすれていた。
「君が周りを見ていたのは、僕を含めた場を守っていたからだったんだな」
エレナは頷かなかった。否定もしなかった。
その理解は、もうエレナが受け取って置き場所を決めるものではない。
「そうだったとしても」
エレナは言った。
「もう、あの場所には戻れません」
ディオンの指が、袖口を強く押さえた。彼は一歩も近づかなかった。近づけば、その距離がもう戻らないものだと、自分の足で確かめてしまうようだった。
廊下の奥で、小さく衣擦れの音がした。
リリア・セレストが、角の手前に立っていた。ディオンに声をかけようとしていたのだろう。扇を持った手が胸元で止まり、二人の間にある距離を見て、そこから先へ踏み出せないでいる。
大式典の会場では、彼女は華やかだった。明るい笑みも、美しい衣装も、人の視線を集めるには十分だった。
けれど、今この廊下でディオンの目は、華やかな笑みを追っていなかった。
リリアは、いつもの形に唇を上げようとした。
微笑みは、一拍遅れて、半分だけ形になった。
ただ、彼女の立つ場所は、エレナとディオンの会話の外にあった。
エレナは一礼した。
礼は浅かった。婚約者として寄り添うためでも、謝罪を受け入れるためでもない。
「ハルトレイ家のこれからについては、家同士で整理すべきことかと思います。それは、私の判断ではありません」
呼び名も、声の高さも、形式の中に収まっている。
それだけを置いて、エレナは背を向けた。
ディオンは追いかけなかった。廊下に残った距離を、彼はそのまま見ていた。リリアも、扇を閉じたまま角の手前に立っている。
エレナは歩き出した。
足取りは乱れていない。だが、一歩進むたび、胸の奥へ後回しにしてきたものが少しずつ揺れた。あの日の声。冷たい、と呼ばれた夜の空気。会場を閉じるために押し込めた痛み。
それらは、まだ胸の奥に残っている。
ただ、もう同じ場所へ戻るための理由にはならなかった。
回廊の先に、ルシアンがいた。
壁際に立ち、エレナが近づくのを見ると、背を離した。何を聞いていたのか、どこまで見ていたのか、彼は言わなかった。
エレナも尋ねない。
ルシアンはディオンの名を出さず、廊下の先へ視線を移した。
「国王アルベール陛下がお待ちです」
それだけ言って、歩き出す。
エレナも続いた。ルシアンの歩幅は大きい。けれど、速度は自然に落ち、エレナが無理をしなくても隣へ並べる速さになった。
背後の廊下を、エレナは振り返らなかった。
視線の先には、国王の執務室へ続く灯りがあった。




