表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/35

第26話 ディオンは、遅すぎる招待状を持ってくる

大式典前日の午後。


エレナは、確認経路の下書きと控室札の最終照合結果を抱えて、保安部から儀典局の記録室へ向かっていた。


一番上には、イザークへ戻す照合用紙がある。その下に、セドリックの控えから写した古い控室順と、ベアトリスが現場側から拾った確認欄が挟まっていた。夕方の確認時刻までに記録室で照合を終えなければ、明日の案内順へ戻す確認が遅れる。


回廊の角を曲がったところで、エレナは足を止めた。


記録室へ続く廊下の先に、人が立っている。


ディオン・ハルトレイだった。


彼は、エレナが来る方向を見ていた。偶然の立ち話を装える位置ではない。窓から差す午後の光を背に受け、記録室へ向かう道の途中に立っている。


手には、薄い封筒があった。


ハルトレイ家の封蝋。宛名は、グランベル家。封筒の端には、改めて面会の席を設けたい旨を示す短い添え書きがあった。


招待状だった。少なくとも、形の上では。


大式典前日の王宮回廊で仕事中のエレナへ差し出すには、あまりに遅すぎる招待状。


「エレナ」


ディオンの声が、回廊の石壁に小さく返った。


エレナは、書類を抱えたまま立ち止まる。


ディオンは、以前より少し痩せていた。目の下には薄い影があり、封筒を持つ指に力が入っている。社交の場で整えていた表情の奥に、眠れていない夜の跡が残っていた。


「話がしたい」


「今は、大式典の準備中です」


「分かっている。だが、少しだけ」


ディオンは封筒を差し出しかけた。


エレナは、書類を抱えた腕を動かさなかった。照合用紙の角が少しずれ、彼女はそれを親指で押さえ直す。


「正式な書面であれば、グランベル家へお送りください」


ディオンの手が、半端な位置で止まった。


彼は、一歩前に出た。


回廊の幅は十分にあるはずだった。けれど、その一歩で、記録室へ向かう線が細くなる。彼の脇を通らなければ、エレナは先へ進めない。


エレナは逃げなかった。


「ご用件を、短くお願いいたします」




ディオンは、封筒を下ろしきれないまま、少し言葉を探した。


「君のことを、誤解していた」


エレナは黙って聞いていた。


「君がどれほど支えてくれていたか、今なら分かる。席順の意味も、控室の使い方も、誰に先に声をかけて、誰を同じ扉の前で止めてはいけないのかも。僕は何も見えていなかった」


声は静かだった。嘲りも、言い訳の勢いもない。


「僕は、君に謝らなければならない」


エレナは、ディオンの顔を見た。


後悔は、そこにあった。目の下の影よりも、封筒の端を握り直す指が、その言葉だけは軽くないと告げていた。


その言葉は、ようやく届いた。届いたからといって、この回廊で置き場所が決まるものでもなかった。


腕の中で記録室へ戻す紙が重い。

明日の大式典は待ってくれない。


「謝罪を受け取るかどうかは、今ここで決めることではありません」


エレナは穏やかに言った。


ディオンの目が揺れる。


「今の私は、大式典の準備中です。明日の会場に必要な確認が残っています」


エレナは書類を抱え直した。照合用紙の角をそろえ、落ちかけていた下書きをもう一度胸元へ寄せる。


声を荒げる必要はなかった。


「今は、私の仕事の導線を塞がないでください」


ディオンは、その言葉を聞いて、一歩退いた。


退いた。しかし、すぐには去らなかった。


彼はエレナを見ていた。エレナの視線はディオンの顔に長く留まらず、彼の肩越しに記録室の扉と、柱の影と、通れる幅を確かめている。


自分を見ているのに、自分だけを見ていない。


そのことを、ディオンは遅れて理解した。




廊下の奥から足音が聞こえた。


ルシアンだった。


ルシアンは、回廊に立つエレナとディオンを見た。近づきすぎず、二人の間にも入らず、記録室へ向かう線を塞がない位置で足を止める。


ディオンが進路を塞ぎ続けるなら、近衛隊長として一歩動くつもりだったのだろう。けれど、ディオンはすでに退いていた。


エレナが自分で引いた境界を確かめてから、ルシアンが声をかけた。


「グランベル嬢。次の確認時刻です」


低い声は、急かさなかった。ただ、エレナが向かっていた時間を、彼女の手元へ返した。


エレナはディオンに軽く頭を下げる。


「失礼します」


それから、記録室の方へ歩き出した。


ルシアンは先に立たず、半歩横へ身を引く。エレナが書類を抱えたまま通れる幅が、そこにできた。




ディオンは、二人の背中を見た。


ルシアンの歩幅は大きい。けれど、彼は先を急がず、エレナの持つ紙束が揺れない速さに合わせていた。


エレナは、ルシアンの背に隠れていない。ルシアンを置いて先へ行くのでもない。書類を抱え、自分の足で、次の確認へ向かっている。


ディオンの記憶にあるエレナは、彼の声に合わせて立ち止まった。客の流れを読み、彼の沈黙の足りないところを埋め、場が乱れる半歩手前で整えていた。


今のエレナは、呼び止めただけで予定を変える人ではなかった。


ディオンは、回廊に一人残された。


窓から差す午後の光の向こう、反対側の柱の陰で、白い手袋が扇を開きかけて止まった。


リリアが立っていた。


ディオンがエレナに話しかけていたこと。エレナが境界を引いたこと。ルシアンが現れたこと。二人が去っていったこと。


リリアは、それを遠くから見ていた。


怒りや悲しみは浮かんでいない。いつもの明るい笑みもすぐには戻らない。開きかけた扇の白い骨を、彼女は指で押さえたままにしている。


ディオンの視線は、まだ廊下の先に残っていた。


リリアは、その横顔に声をかけられなかった。




角を一つ曲がり、ディオンのいる回廊から離れてから、ルシアンが声を低めた。


「平気ですか」


エレナは反射で口を開いた。


「大丈夫……」


言葉が、途中で止まった。


大丈夫です。


いつもならすぐに出てくるはずの言葉が、喉の途中で引っかかった。


ディオンの声が、まだ耳に残っている。


君がどれほど支えてくれていたか。


その言葉は、ある意味では正しかった。自分が支えていたことに、ようやく気づいてくれた。そのことに、少しも心が動かないわけではない。


けれど、今ここで、その言葉の置き場所を決める余裕はなかった。


エレナは、胸元の紙束を持ち直した。


「少し、平気ではありません」


声は静かだった。


「ですが、次の確認には行けます」


ルシアンは、すぐに答えを重ねなかった。エレナの顔ではなく、返事が出るまでの間を聞いていた。


「では、次の確認は私も同席します」


エレナは頷いた。


二人は記録室へ向かった。ルシアンは手を差し出さず、紙束を受け取ろうともせず、ただ少し横を歩いた。


回廊の奥で、ディオンはまだ立っている。


しかし、エレナは振り返らなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ