第26話 ディオンは、遅すぎる招待状を持ってくる
大式典前日の午後。
エレナは、確認経路の下書きと控室札の最終照合結果を抱えて、保安部から儀典局の記録室へ向かっていた。
一番上には、イザークへ戻す照合用紙がある。その下に、セドリックの控えから写した古い控室順と、ベアトリスが現場側から拾った確認欄が挟まっていた。夕方の確認時刻までに記録室で照合を終えなければ、明日の案内順へ戻す確認が遅れる。
回廊の角を曲がったところで、エレナは足を止めた。
記録室へ続く廊下の先に、人が立っている。
ディオン・ハルトレイだった。
彼は、エレナが来る方向を見ていた。偶然の立ち話を装える位置ではない。窓から差す午後の光を背に受け、記録室へ向かう道の途中に立っている。
手には、薄い封筒があった。
ハルトレイ家の封蝋。宛名は、グランベル家。封筒の端には、改めて面会の席を設けたい旨を示す短い添え書きがあった。
招待状だった。少なくとも、形の上では。
大式典前日の王宮回廊で仕事中のエレナへ差し出すには、あまりに遅すぎる招待状。
「エレナ」
ディオンの声が、回廊の石壁に小さく返った。
エレナは、書類を抱えたまま立ち止まる。
ディオンは、以前より少し痩せていた。目の下には薄い影があり、封筒を持つ指に力が入っている。社交の場で整えていた表情の奥に、眠れていない夜の跡が残っていた。
「話がしたい」
「今は、大式典の準備中です」
「分かっている。だが、少しだけ」
ディオンは封筒を差し出しかけた。
エレナは、書類を抱えた腕を動かさなかった。照合用紙の角が少しずれ、彼女はそれを親指で押さえ直す。
「正式な書面であれば、グランベル家へお送りください」
ディオンの手が、半端な位置で止まった。
彼は、一歩前に出た。
回廊の幅は十分にあるはずだった。けれど、その一歩で、記録室へ向かう線が細くなる。彼の脇を通らなければ、エレナは先へ進めない。
エレナは逃げなかった。
「ご用件を、短くお願いいたします」
ディオンは、封筒を下ろしきれないまま、少し言葉を探した。
「君のことを、誤解していた」
エレナは黙って聞いていた。
「君がどれほど支えてくれていたか、今なら分かる。席順の意味も、控室の使い方も、誰に先に声をかけて、誰を同じ扉の前で止めてはいけないのかも。僕は何も見えていなかった」
声は静かだった。嘲りも、言い訳の勢いもない。
「僕は、君に謝らなければならない」
エレナは、ディオンの顔を見た。
後悔は、そこにあった。目の下の影よりも、封筒の端を握り直す指が、その言葉だけは軽くないと告げていた。
その言葉は、ようやく届いた。届いたからといって、この回廊で置き場所が決まるものでもなかった。
腕の中で記録室へ戻す紙が重い。
明日の大式典は待ってくれない。
「謝罪を受け取るかどうかは、今ここで決めることではありません」
エレナは穏やかに言った。
ディオンの目が揺れる。
「今の私は、大式典の準備中です。明日の会場に必要な確認が残っています」
エレナは書類を抱え直した。照合用紙の角をそろえ、落ちかけていた下書きをもう一度胸元へ寄せる。
声を荒げる必要はなかった。
「今は、私の仕事の導線を塞がないでください」
ディオンは、その言葉を聞いて、一歩退いた。
退いた。しかし、すぐには去らなかった。
彼はエレナを見ていた。エレナの視線はディオンの顔に長く留まらず、彼の肩越しに記録室の扉と、柱の影と、通れる幅を確かめている。
自分を見ているのに、自分だけを見ていない。
そのことを、ディオンは遅れて理解した。
廊下の奥から足音が聞こえた。
ルシアンだった。
ルシアンは、回廊に立つエレナとディオンを見た。近づきすぎず、二人の間にも入らず、記録室へ向かう線を塞がない位置で足を止める。
ディオンが進路を塞ぎ続けるなら、近衛隊長として一歩動くつもりだったのだろう。けれど、ディオンはすでに退いていた。
エレナが自分で引いた境界を確かめてから、ルシアンが声をかけた。
「グランベル嬢。次の確認時刻です」
低い声は、急かさなかった。ただ、エレナが向かっていた時間を、彼女の手元へ返した。
エレナはディオンに軽く頭を下げる。
「失礼します」
それから、記録室の方へ歩き出した。
ルシアンは先に立たず、半歩横へ身を引く。エレナが書類を抱えたまま通れる幅が、そこにできた。
ディオンは、二人の背中を見た。
ルシアンの歩幅は大きい。けれど、彼は先を急がず、エレナの持つ紙束が揺れない速さに合わせていた。
エレナは、ルシアンの背に隠れていない。ルシアンを置いて先へ行くのでもない。書類を抱え、自分の足で、次の確認へ向かっている。
ディオンの記憶にあるエレナは、彼の声に合わせて立ち止まった。客の流れを読み、彼の沈黙の足りないところを埋め、場が乱れる半歩手前で整えていた。
今のエレナは、呼び止めただけで予定を変える人ではなかった。
ディオンは、回廊に一人残された。
窓から差す午後の光の向こう、反対側の柱の陰で、白い手袋が扇を開きかけて止まった。
リリアが立っていた。
ディオンがエレナに話しかけていたこと。エレナが境界を引いたこと。ルシアンが現れたこと。二人が去っていったこと。
リリアは、それを遠くから見ていた。
怒りや悲しみは浮かんでいない。いつもの明るい笑みもすぐには戻らない。開きかけた扇の白い骨を、彼女は指で押さえたままにしている。
ディオンの視線は、まだ廊下の先に残っていた。
リリアは、その横顔に声をかけられなかった。
角を一つ曲がり、ディオンのいる回廊から離れてから、ルシアンが声を低めた。
「平気ですか」
エレナは反射で口を開いた。
「大丈夫……」
言葉が、途中で止まった。
大丈夫です。
いつもならすぐに出てくるはずの言葉が、喉の途中で引っかかった。
ディオンの声が、まだ耳に残っている。
君がどれほど支えてくれていたか。
その言葉は、ある意味では正しかった。自分が支えていたことに、ようやく気づいてくれた。そのことに、少しも心が動かないわけではない。
けれど、今ここで、その言葉の置き場所を決める余裕はなかった。
エレナは、胸元の紙束を持ち直した。
「少し、平気ではありません」
声は静かだった。
「ですが、次の確認には行けます」
ルシアンは、すぐに答えを重ねなかった。エレナの顔ではなく、返事が出るまでの間を聞いていた。
「では、次の確認は私も同席します」
エレナは頷いた。
二人は記録室へ向かった。ルシアンは手を差し出さず、紙束を受け取ろうともせず、ただ少し横を歩いた。
回廊の奥で、ディオンはまだ立っている。
しかし、エレナは振り返らなかった。




