第23話 金羽会は、まだ遊びのつもりでいる
翌日の昼前、東翼の小広間には若手貴族が集まっていた。
窓際の丸卓に、茶と小さな菓子が置かれている。扉は完全には閉じられておらず、廊下を通る職員の足音や、替えの茶器を運ぶ盆のかすかな音が、ときおり会話の端に混じった。
扉の外を通る者たちは、貴族の雑談に聞こえたものを、職務中に問い返すことはない。ただ、耳に入った言葉だけが、盆の上の茶器と一緒に廊下を進む。
金羽会と呼ばれる一群の若者たちは、正式な会でも派閥でもない。誰が主宰者かを決めることもなく、記録を残すこともなく、王宮で退屈しないために集まり、噂を交換し、誰かの失敗を面白がる。
本人たちにとって、その程度の集まりだった。
オスカー・ベイルが、茶杯を片手に笑った。視線は一度だけ、半開きの扉へ流れた。
「大式典の席順、なかなか面白いことになっているらしい」
「面白い?」
隣の若手が、菓子を取る手を止める。
「ハルトレイ家の近くに、グランベル家ゆかりの者が入るとか。しかも第五控室には、うちの顔見知りが入るらしい」
「婚約破棄の話題には困らないな」
笑い声が起きた。声量は控えめでも、扉の外を通る者が聞き落とすほど小さくはなかった。
第五控室、という言葉だけが、盆の上の茶器と一緒に廊下へ出た。
廊下側で、茶器の触れ合う音が一度だけ細く鳴った。誰かが足を止めたのではなく、歩調がほんの少し乱れただけだった。
「グランベル嬢は、今は王宮儀典局にいるのだろう」
「保安部の臨時補佐だ。ルシアン卿の隣で図面を広げているとか」
「婚約破棄された令嬢が、近衛隊長に拾われたというわけさ」
誰かが茶杯を置き、また笑った。王宮の中でエレナが何を見ているのか、彼らは知らない。知ろうともしていない。ただ、言い換えれば面白い形になることだけは、よく知っていた。
「そういえば、事前挨拶式で近衛が半歩、動いたらしいな」
「でも、剣を抜いたわけではないのだろう」
「だからいい。その程度なら笑いで済む」
また軽い笑いが起きる。
オスカーは、扉の隙間へまた目をやった。廊下側に、替えの茶器を持った若い職員が見えた。
「第五控室の割り当て、少し入れ替わると聞いたぞ」
声は落としていた。だが、扉の外へ届かないほどではなかった。誰に向けた声でもない、という形だけは整っていた。
「本当か」
「さあ。そうなったら面白い、という話だ」
「案内役がその話を聞いたら、本当に迷うかもしれないな」
「控室札を扱う若い者なら、第五控室の札を念のために取り分けるかもしれない」
「大式典だぞ。最後は儀典局が整えるだろう」
扉の近くで、替えの茶器を持っていた若い職員が一瞬だけ顔を上げた。第五控室の割り当てが入れ替わる。その形で、言葉が彼の耳に残った。すぐに視線を伏せ、盆を持ち直して廊下へ出ていく。
廊下の端にいた案内役見習いが、「第五控室ですか」と彼に小声で尋ねた。若い職員は「中でそのように」と言いかけ、すぐに「いえ、聞こえただけです」と言い直した。
オスカーは、そのやり取りに気づいたようでもあり、気づかなかったようでもあった。茶杯の縁を指で軽く弾く。唇の端だけが、ほんの少し上がっている。
「本当に動いたなら、聞いた側の問題だ。こちらは指示を出したわけじゃない。ただ雑談をしただけだろう」
その場の空気は、少しも重くならなかった。
彼らは大式典を壊すつもりではない。近衛隊が剣に手をかけるところを見たいわけでも、姫殿下の婚約発表を台無しにしたいわけでもない。
ただ、少し慌てるところを見たい。評価された令嬢が、困る姿を見たい。自分たちの言葉で誰かが勝手に動くなら、それも笑い話にできると思っていた。
その程度だった。
ディオンは、その席の端にいた。
茶杯を持ったまま、笑い声を聞いている。以前なら流していた。社交の軽口は珍しくない。誰かの名が出て、誰かが笑い、別の話題へ移る。それだけのことだと思っていた。
けれど、今は同じ音に聞こえなかった。
事前挨拶式で、控室が一つ消えかけたこと。出所の分からない伝言が現場を動かし、近衛の半歩が来賓に見えたこと。エレナの判断で、大事には至らず式典が続いたこと。ディオンが知っているのは断片だけだったが、その断片が、目の前の笑い声と同じ場所に収束した。
「その話は、やめておけ」
ディオンは言った。
オスカーが、意外そうに眉を上げる。
「なぜだ。面白いじゃないか」
「式典の控室や席順は、軽く扱うものじゃない」
一瞬、場が止まった。
すぐに、オスカーが笑う。
「ディオン、お前が格式を気にするのか。珍しいこともあるものだ」
「そういう話ではない」
「では、どういう話だ」
問われて、ディオンは言葉に詰まった。
誰の面子も潰さず、笑顔の形を壊さず、軽口だけを別の方向へ流す。以前なら、エレナがそれをしていた。別の短い話題を差し込み、誰かの杯を褒め、席順の話を季節の挨拶へ変える。相手に勝った顔も、負けた顔もさせないまま、場の向きを変える。
ディオンは、その姿を見ていたはずだった。だが、見ていたことと、同じようにできることは違った。
「とにかく、やめろ」
それだけでは弱かった。
笑い声は戻った。先ほどより少し小さくなっただけで、話題そのものは消えない。
ディオンの隣に座っていたリリアは、その横顔を見ていた。
エレナの話が出るたびに、ディオンの目が変わる。責めているのか、悔やんでいるのか、リリアには分からない。ただ、ディオンが今、エレナのことを考えているのは分かった。図面も、控室も、伝言も、リリアの知らないところにある。
リリアの前には、茶杯と菓子皿しかない。ディオンが気にしているのは、目の前の茶席ではなく、エレナのいる王宮の現場だった。
そう思った瞬間、茶杯の水面が小さく揺れた。リリアは指先で杯を押さえ、すぐに視線を伏せる。
何も言えなかった。
同じ日の昼過ぎ、保安部にベアトリスが足早に入ってきた。
大式典の図面は、まだ机の上に広げられていた。「仮」と書かれた三つの印のそばに、イザークの記録帳とセドリックの控えが置かれている。
「現場職員から、妙な話を聞きました」
エレナは、控室配置図から顔を上げた。
ベアトリスは手帳を開き、まず一箇所を指で押さえた。
「案内役の一人が、第五控室の割り当てが変わると思い込んでいます。朝の引き継ぎ前に、若い職員から『第五控室の割り当てが入れ替わる』と聞いたそうです。その職員は、東翼の小広間で貴族の方々がそのように話していたと」
「案内役は、もう動きましたか」
「控室札を取り分けようとして、先輩職員に止められています。まだ札は動いていません」
「正式な変更指示は」
「出ていません」
イザークは、すでに記録帳を開いていた。控室変更の欄を確認し、ペン先で空白を示す。
「控室変更の記録はありません。確認欄も空白です」
エレナは、昨日つけた二つ目の「仮」の印を見た。
第三控室と第五控室。
ハルトレイ家に近い貴族と、金羽会に近い若手貴族が向かい合う位置だった。そこへ、正式ではない言葉が触れている。
「他には」
ベアトリスは、手帳の次の頁を開いた。
「給仕のリゼットからです。ハルトレイ家の席が少し動くかもしれない、という話が給仕の間で流れています。若い給仕が、茶器を回す順を変えるべきか確認を求めていました」
「給仕順は」
「まだ元の順です。ただ、席順表の写しに印をつけかけていました」
イザークが席順表を引き寄せる。
「席順変更の記録もありません」
「もう一つ」
ベアトリスは声を少し落とした。
「姫殿下の退場時に、使節団と国内貴族のどちらが先に礼をするのか、侍女の間で話題になっています。出どころは不明です。ただ、なんとなく広がっているそうです」
「侍女側の手順は」
「変わっていません。ただ、靴音を合わせる位置を確認し直す者が出ています」
イザークは進行表の礼順欄を確かめた。
「礼順変更の通達もありません」
エレナは、三つの話を図面の上に並べるように見た。
第五控室の割り当て。
ハルトレイ家の席順。
姫殿下の退場時の礼。
正式な変更には当たらないものばかりが、昨日見つけた三つの確認箇所と近い場所にあった。
控室の話は、第三控室と第五控室の間に触れる。
席順の噂は、給仕の手を止める。
礼の順番は、姫殿下の退場導線と使節団控室への案内導線の交点にかかる。
誰も命令を受けたとは言っていない。誰も手順を破ろうとしていない。ただ、念のために確かめようとしている。
その念のためが重なれば、当日の一拍は簡単に詰まる。
「事前挨拶式と同じです」
イザークが静かに言った。
「記録にない言葉が、現場を乱し始めています」
ベアトリスの手帳、イザークの記録帳、「仮」と書かれた三つの印が残る図面。三つの紙が、机の上で同じ方を向いていた。
エレナは、第三控室と第五控室の間に置いた仮の印を見た。
「冗談でも、会場は動きます」
イザークのペンが、記録帳の上で動いた。




