ラウル・イスマトフ②
今より数年前のラウル。創作活動に勤しみながら、両親から離れる為の新居を探している頃の話。
ある日、とある人物から一通のメールが届いた。彼は国内有数の巨大企業スカーベルセ・インダストリアルの役員で、ラウルに描画の依頼をしてきた。多額の報酬を約束されていたので、ラウルはその依頼に即座に食いついた。テーマは灯台。数ヶ月掛けて、ラウルは絵画を完成させ、依頼主に送った。
後日、依頼主からメールが届く。事務的な謝辞の後、作品に感銘を受けたので、是非とも貴方の後援者になりたい、という文章が綴られていた。初めは、ラウルはこの提案を訝しんだ。しかし、作品に対する慧眼を感じさせる意見が立て続けに送られてきたので、彼の気持ちは提案を受け入れる方向へと傾いていった。
依頼主の正体が気になり、その名前であるノア・トーヴァルセンについて軽く調べてみた。彼はスカーベルセ・インダストリアルの役員ではなく、創業者本人であった。ラウルはこれほどの人物ならば、自分の理想の創作環境を提供してくれるかもしれないと確信に近い期待を抱いた。文面でのやり取りを億劫に感じたラウルは、直接ノアと会って話してみる事に決めた。
昼下がり、事前に約束した集合場所には、フォーマルな衣服に身を包んだ老紳士が佇んでいた。こちらから声を掛ける前に、向こうがラウルの存在に気付いた。
「始めまして、私はノア・トーヴァルセンと言います。君は……ラウル・イスマトフくんで合っているかな?」
「はい。ラウルと名前で呼んで頂いて結構です」
「では、ラウルくん。早速だが、少しだけ君の時間をお借りさせて頂こう」
挨拶を終えた後、ラウル達は適当なカフェに入り、長々と話し込んだ。互いの意見を交わしていくうちに、ノアとは波長が合うような気がしてきた。傍から見ると、ノアは物腰柔らかな老紳士にしか見えないが、その内には強い情熱を秘めている。彼は停滞や束縛を嫌い、その性分のせいで若い頃はよく痛い目を見たと言っていた。その話を聞いている時、ラウルは何となく自分の両親の姿を思い浮かべた。
本題だった筈の後援に関する話は、すんなりと進んでいった。ラウルは新たな創作環境として、人里から離れながらも、必要な資材が安定して供給される場所を望んでいた。その願いを聞き入れたノアは、北部の氷海沿岸にある使われる事の無くなった灯台を紹介してくれた。
説明された限りでは条件は揃っているようだったが、不毛の地の代表格と言える氷海付近の物件というのは、人嫌いのラウルでも流石に躊躇があった。その懸念を口にすると、内見をしに行こうとノアが提案してきたので、ラウルは首を縦に振った。
数日後、ノアが指定した集合場所で立っていると、古い型の白い車が目の前に止まった。運転席の窓が開き、見覚えのある老紳士の顔が現れる。ノアはどこか自慢気に「さあ、乗ってくれ」と、言った。ラウルはまさか自車で北部の辺境まで行くとは思ってもみなかったので、面食らってしまった。しかも、自動運転機能が一切搭載されていない旧世代車である。正直な所、この車で目的地に辿り着ける気がしなかった。
ラウルが恐る恐る助手席に乗り込むと、ノアは彼の内心を察したかのように、自車の性能がいかに優れているかについて語った。ラウルには自動車の知識があまり無いので、内容は殆ど分からなかったが、この車が『A4』という名前を持つ事だけは理解できた。
火薬が破裂するような音の後、ノアの愛車が駆け出した。エンジンから響く重低音が全身を震わせる。現行の自動車に比べると、この車は遥かに騒々しく、地鳴りのように揺れ動き、乗り心地は決して良くない。しかし、ハンドルの切り方や路面状況によって、肉体に伝達される情報が変化する感覚は嫌いでは無かった。
数日を経て、件の灯台へ到着する。早速ノアは灯台やその周辺を案内してくれた。作品や資材を適切な環境下で保管できる倉庫や、地下に敷設された物資用の自動搬送路など、創作する上で申し分ない環境が整っていた。あとは各部屋を用途別に改装すれば、アトリエとしても十分に機能するだろう。ラウルはこの灯台をすっかり気に入り、新居とする心構えになっていた。
空が茜色に染まる頃には、灯台の施設を一通り見終わっていた。ノアは「灯台に上ってみないか」と誘ってきたので、ラウルは快く頷いた。エレベーターに乗って頂上へ向かう。頂上へ着くと、真っ先に展望デッキに出ようとしたが、凄まじい強風に吹き飛ばされそうになったので、直ぐに諦めた。代わりに、壁に取り付けられた小さな窓から、沈む夕日を眺めていた。
「この灯台は意義を失ってしまった」
ノアは皺を刻んだ顔を夕色に染めながら、灯台について語り始めた。この灯台は氷海の開拓事業の一環として、スカーベルセが主導して建造した物らしい。しかし、進捗が停滞した状況が続くと、開拓計画は一時的に中断され、灯台は火を灯す機会を失ってしまった。
「新たなる地平を目指していた筈のスカーベルセは、既に開拓の精神を失っている。安定や秩序を求めて、外部に壁を作り始めた。スカーベルセだけではない。国家という大きな枠組みも、家族という小さな枠組みも、同様に壁を作ろうとしている」
ラウルは口を噤んだまま、次のノアの言葉を待った。
「それが悪いとは思わない。各々には各々の意志があり、私自身も老いによって、同じ道を辿っている。だが、私は往生際が悪いのか、未だ開拓の意志を継ぐ者を探している」
決意の篭ったノアの視線がラウルを突き刺した。彼の眼力に狼狽えながらも、ラウルは断言する。
「残念ながら、俺に氷の海を砕く力はありません」
「氷を砕く事だけが、開拓ではない。閉塞へ向かおうとする潮流を打破し、外界への道を拓く事こそ、真の開拓なのだ。内外の境界が滞留を続ければ、人類はやがて窒息する。君の作品にはそれを乗り越える力があると、私は思っている」
呆然とするラウルに対して、老紳士は悠然とした仕草で、懐から小箱を取り出した。
「これは開拓に要するであろう資金源だ。どうか君に使って欲しい」
「受け取れません。俺には荷が重過ぎます」
「ならば、しばらく預かっていてくれ。私の意志を継ごうとする者をここに訪れるように仕向けよう。彼らの声を聞いて、君がそれを認めれば、どうかその箱を渡してやって欲しい。もし誰もここを訪れる事がなければ、いずれ君が使ってくれ」
「……分かりました」
ノアの気迫に圧倒されたラウルには、その願いを断る事はできなかった。
話を終えた二人は灯台を降り、夕食を取った。食事を終え、眠りに就く前にラウルは心残りをノアに伝える事にした。
「ノアさん、俺に何かできる事はありませんか?」
「さっきの頼みを引き受けてくれれば十分だよ」
「何でもいいんです。ここまでしてくれたあなたに、何かを返したい」
「なら、絵を描いてくれないか? 夏の海の絵だ」
「夏の? けれど、この世界に夏はもう……」
「だからこそ、描いて欲しいんだ。君が思う夏を私に見せてもらいたい。気負う必要は無い。ただ心にある物を描いてくれればいいんだ」
「……分かりました。必ず夏の海を描いて、あなたに見せます」
必ず――。
◆
しばらく、写真を見ながら懐古に浸っていたラウルだったが、ナイアの怪訝な視線に気付いて、我に返った。
「私の祖父とあなたはどういった関係なんですか?」
ナイアは同じ問いを繰り返す。
「ノアさんは、俺の友人であり、後援者だ。この灯台を提供してくれたのも彼だ。……彼は今、どうしているんだ?」
ラウルの問いを聞いた途端、ナイアの表情が曇った。彼女の顔色の変化を見て、直ぐにラウルは現実を悟った。
「亡くなったのか?」
ナイアは一度だけ頷いた。ラウルはアトリエの扉の方を伺った。そこには、不動の錨のごとく、未完成の夏の海が佇んでいる。
「俺は、間に合わなかったのか」
独り言ちると、ナイアが首を傾げた。
「どういう事ですか?」
「絵を描いて欲しいと頼まれていた。だが、最後まで納得のいく物が描けなかった」
後悔の念が押し寄せる。結局、自分はノアの望んでいたような開拓者にはなれなかった。内界に囚われたままの凡人だったのだ。
「お辛い所で恐縮ですが、祖父はあなたに何かを遺していきませんでしたか? 私は祖父の遺産を探しているんです」
塞ぎ込むラウルを前に、ナイアが凛とした口調で尋ねてくる。ラウルは彼女の冷たい青さを帯びた瞳の中に、確固たる熱意が潜んでいるのを垣間見た。ナイアは、ノアの血筋だけでなく、彼の意志も継いでいるのかもしれない。その疑念を確かめる為に、ラウルは問い掛ける。
「君はそれを手にして、どうするつもりなんだ?」
彼が問うと、ナイアの青い瞳が輝きを増した。
「私は殻を破る事はできましたが、体に纏わり付く欠片を拭えないでいます」
ラウルは次の言葉を待った。かつて、ノアの前でそうしたように。
「――祖父の遺産は、私が飛び立つ為に必要な物です」
ナイアの声明を聞いたラウルは、しばらく呆然としていた。目の前の少女の姿に、ノアの面影が重なった気がしたからだ。
「少し、待っていてくれ」
逸る気持ちを抑えながら、ラウルは早足でアトリエに向かった。そして、小箱を手に持ち、ナイアの前に再び立った。
「これは君の物だ」
ラウルは、ノアの意志を継ぐ者に小箱を手渡し、彼との約束を果たした。
◆
翌朝、三人が出発する直前に、ラウルはノアに依頼された絵が描けたら、ナイアの元に送ると伝えた。そして、ノアの墓標の傍らに飾って欲しいと。ナイアは快く了解の返事をくれた。話を聞いていたのか、レシェクが「何の絵を頼まれたんですか?」と聞いてきた。
「夏の海だ」
「ラウルさんの考え方で、夏を描くのは難しそうですね」
「その通りだ、レシェク。一向に描き方が掴めないが、いつか必ず――」
必ず描く。そう言い掛けて、ラウルは口を噤んだ。猶予はいくらでもあった筈だが、彼は肝心な所で間に合わなかった。このままでは、また同じ事を繰り返すのではないかと、彼は自身の過ちを思い返した。
「旅に出て、探してみなよ」
明朗な声の主は、ミチルだった。
「この冬の世界にも、何処かに夏はあると思うよ。私達は一度も経験していない筈なのに、夏を知ってる。それってきっと、夏がまだ消えていないって事なんじゃないかな?」
根拠の無い言葉に、何故かラウルは心を惹かれていた。彼は、少し間の抜けた笑みを浮かべるミチルに向かって「そうかもしれないな」と言った。
三人を見送った後、ラウルは久し振りに灯台に登った。珍しく凪いでいたので、展望デッキに出る。そして、果ての無い氷の海と雪原を眺めながら、独りでに呟いた。
「旅か」




