ラウル・イスマトフ①
ラウル・イスマトフにはやらねばならぬ事があった。彼は、机上に置かれたメモをちらりと伺うと、悩ましげに嘆息を吐いた。メモには、クライアントからの依頼内容が書かれている。
数年前、とある老紳士から絵画を描いてほしいという依頼があった。テーマは夏の海。しかし、この世界には、夏という季節は消え失せている。遥か昔にその存在を消してしまった。三十路前のラウルは勿論の事、年老いた依頼主ですら夏の情景を見た事は無いだろう。歴史を感じさせる低品質の画像データを参照しながら、何度も何度も絵筆を走らせたが、納得のいく作品は未だに描けていない。
静寂に包まれたアトリエの中では、ラウルの浅い息遣いと時代錯誤な振り子時計の音だけが木霊している。そういえば今は何時だろうかと、内言を発した途端、時計の鐘が正午を知らせてくれた。キャンバスの前に座ってから、およそ三時間は経過している事になる。これ以上、根を詰めても埒が明かないと思い、気分転換に外の空気を吸う事にした。ラウルはアトリエを抜け出し、玄関へ向かった。
ティーガーデン北部――特に氷海沿岸部の空気は恐ろしく冷たい。例え寝起きであっても、海上で冷え切った北風を受けると、一気に目が覚める。ラウルは突き刺すような冷気を肺に取り込みながら、くすんだ曇り空を見上げた。高く聳える真白い灯台が、嫌でも視界に入り込む。
この灯台は氷海の開拓を手助けする為に建てられた物だが、開拓計画が頓挫した今では、無用の長物となっている。ラウルは病的な国家主義者の両親の目を盗みながら、様々な創作活動――描画、彫刻、執筆、作曲など――を行っていた。若輩ながら、彼には並々ならぬ才覚があり、創作物を認めてくれる人間は少なくなかった。そういった人々の中から後援者が現れ、この灯台を提供するという提案があった。彼はその提案を飲み、ここを新たな住居兼アトリエとした。それから彼は、煩わしい両親の元を離れ、創作活動に専念できるようになった。
風の流れが変わった。直感的に、ラウルは天気が崩れる事を確信する。雪が強まる前に灯台の中に戻ろうと思った直後に、耳慣れない異音が聞こえてきた。唸り声のような重低音だ。異音が少しずつ彼の住居に近付いている事に気付いた頃、ようやくこの音が自動車のエンジン音だと理解した。過去に、同様の音がこの灯台に訪れていたおかげで、時代遅れの珍品が発する音もラウルは記憶していた。
悪目立ちするほどの真っ赤な車がラウルの目前に停まった。車の中から背の高い、ベージュの髪をした女が現れる。彼の姿に気付いた女は「こんにちは」と気さくに挨拶をしてきた。「どうも」と、ラウルは素っ気無い答えを返した。
「私はミチル・アレクシウ」
女はそう名乗った。
「俺はラウル・イスマトフだ」
彼はそう名乗った。
ミチルの後から、華奢な体に明るい金髪を乗せた少年と、褐色の丸顔に青い瞳を携えた少女が顔を見せる。少年は「レシェク・パテルと言います」と明るい口調で自己紹介した。少女は冷たい声で「ナイアです」と告げた。三人の訪問者が纏う気配はそれぞれに異なり、何故彼らが一同となったのか、ラウルには推測できなかった。
「すみません。これから天候が崩れるらしいので、この辺りで宿泊できる所を探しているんですが」
金髪頭のレシェクが前に出てきて、尋ねる。ラウルは「無い」と即答した。彼の返事を聞いた三人は、同時に諦念の溜め息を吐いた。息が合うとは、まさにこの事を言うのだろう。
「ミチルが適当な道を選ぶから」
「いいや、あれはレシェクの案内が悪かった」
「そもそも、ナイアの考えたスケジュールがおかしいんだよ」
打って変わって、三人は内輪で口喧嘩を始めた。ラウルは白い息を唇から漏らしながら、その光景をしばらく眺めていた。既に雪の勢いは強まっており、ラウルの赤毛も、けたたましい三人組の頭髪も、白く染まり始めている。
「ここに泊まっていくか?」
独りでにラウルは呟いていた。自分でも思いがけない行動だった。先程まで騒々しく口論を続けていた三人は唐突に閉口し、ラウルの方へ視線を向けた。それぞれの顔には、喫驚や歓喜の表情が浮かんでいる。
「よろしくお願いします」
三人は各々の口調と拍子で、懇願の言葉をラウルに告げた。
◆
灯台の管理施設の中には、ここで働く予定だった職員が寝泊まりできるように、寄宿舎が用意されている。今ではその殆どが物置きと化しているが、稀にこの辺鄙な場所へと依頼人が訪れる機会がある為、ラウルは一部の部屋を客室として残していた。
三人の訪問者に客室の場所を案内した後、昼食を取る事にした。アトリエの隣りにある居間に三人を待機させた後、ラウルは冷凍室に改装した部屋から幾つかの食材を持ち出して、キッチンへと運んだ。そして、淡々と調理を進め、人数分のシチューを完成させた。食卓の準備をしている間、彼らは物珍しそうにラウルの顔を伺っていた。
「今時、ここまでちゃんと料理をする人は初めて見たかも」
ミチルが何処か嬉しそうに言った。茶化したり、皮肉を言っているようには見えなかった。純粋にラウルの生活のあり方に興味を持っているようだった。
「体の存在や扱い方を忘れないようにする為だ。感性が鈍るからな」
「身体回帰派ってやつ?」
「違う。彼らは、人間よりも機械や仮想人格が優位となる社会の到来を危惧して、身体の価値を社会に再認識させようとしている立場だ。だが俺は、過程という細部と、結果という全体性の、両者を構造として接続する引力に対する理解から離れる事を危惧しているんだ。事物の本質は、この引力に由来すると俺は考えている」
ラウルは冷淡かつ平坦な口調で持論を語った。息継ぎのタイミングでミチルの様子を窺ったが、彼女は口をぽかんと開けて、虚空を眺めているようだった。ラウルの思想の殆どを理解していないように見えた。ふと我に返ったのか、ミチルの視線がラウルの方へ向く。
「えーと、その、つまり……」
ミチルは人差し指をピンと立てて、何か意見を言おうとしているが、歪な苦笑いを浮かべるばかりで、ついぞラウルに向けた声は出てこなかった。代わりに、向かいに座っているレシェクに向けて叫声を飛ばした。
「レシェク! ラウルさんが何言ってるか分かる?」
ミチルの助言を求める声を耳にしたレシェクは、口元へスプーンを運ぶ動きをぴたりと止めた。そして、スプーンの中に溜まったシチューを凝視しながら、真面目な声色で語り始める。
「つまり、このシチューだ。シチューを作るには、肉や野菜を包丁で切って鍋で煮込んだり、ホワイトソースを作るだろう? 各工程の中で感じられる、食材を切る時の抵抗感、鍋から立ち上る蒸気の熱、ホワイトソースに潜むミルクの香り……。そういう感覚を通して、シチューはできあがる。最後に、シチューを食べる事で味の良し悪しを確かめる。でも、ここまでの過程と、完成されたシチューとの繋がりが見えなくなると、シチューというものが何なのか、分からなくなってしまうんだ。…………これで合ってますか、ラウルさん」
「概ね合ってる」
ラウルが頷くと、レシェクは安堵の溜め息を吐いた。対するミチルは眉をひそめながら、シチューとにらめっこしている。しばらくして、シチューの理解を放棄したのか、彼女は親指を立てながら言った。
「私は、これからもレトルトのシチューを食べていくよ」
「それでいい。これは俺個人の考えだ。それに、レトルトは味や栄養価が確実に保証されているからな。大昔は相当酷かったらしいが」
「私にはその大昔のレトルト食品の話の方が面白そうに感じるなあ」
それから、ミチルが興味を抱いたレトルト食品の歴史について語りながら、昼食を続けた。ミチルもレシェクも聞き役として良い反応をするので、思いの外、会話に夢中になってしまった。ふと、もう一人の訪問者である褐色肌の少女の存在を思い出し、ラウルはナイアの方を窺ってみたが、既に食事を終えたのか、彼女の姿はそこに無かった。ナイアの居場所を探ろうと辺りを見回していると、不意に視界の外から声を掛けられた。
「ラウルさん、聞きたい事があるのですが」
振り向くと、真剣な表情をしたナイアが、一枚の写真を持って佇んでいた。写真には数年前のラウルのしかめ面と、夏の海の絵画を依頼してきた老紳士の微笑みが並んで写っている。
「この写真、あなたとあなたの隣に立っている男性は、どういった関係なのでしょうか?」
「もしかして君は――」
ラウルが言い終わる前に、少女は答えた。
「私はナイア・トーヴァルセンと言います。この写真に写っているノア・トーヴァルセンの孫娘です」




