レシェク・パテル
レシェク・パテルは今日も最終学校――成人するまでに行われる義務教育課程の最終段階――を抜け出して、生家から少し離れたカジュアルなカフェのカウンター席に居座っていた。この小休憩に丁度良い立地と、落ち着いた雰囲気を漂わせるカフェの店主は、レシェクの良き協力者であり、報酬を山分けする仕事仲間でもあった。
――仕事の内容と報酬を手に入れる方法について。
一つ、手頃な獲物を見つける。浮かれて油断している地元民がベスト。
二つ、適当なタイミングでカフェの店主が気を引く行動を取る。カトラリーをわざと落として店中に響き渡るような甲高い金属音を鳴らす、など。
三つ、レシェクが獲物の手荷物を素早く回収し、さり気なく退店する。回収は案外簡単だ。退店の際の『さり気なく』というのが重要なポイントである。
早速、レシェクは都合が良さそうな獲物を見つけたので、カウンターの向こうにいる店主にサインを送った。咳払い二回の後、軽く伸びをする。手を下ろす際に片方の手を標的に向ける。いつも通り、全ての所作を何気なくやった。
獲物は間の抜けた感じの若いカップル。確か、数ヶ月前にティーガーデン南部から越してきた新婚夫婦だ。レシェクは定期的に、役所勤めの親が管理している戸籍情報や生体データを盗み見て、脳内に入念に収納している。だから、全町民の素性はある程度なら把握していた。
食事の支払いを終えた夫婦がレシェクの座る席を通り過ぎた直後、店主が喧しい音を鳴らすエスプレッソマシンを起動する。客達の目線は、騒音を吐き出す旧式の機械へと向けられた。空かさず、レシェクは男が着ているジャケットのポケットから、僅かに顔を出していたカードケースを抜き取った。
このケースの中にIDカードが入っていたら儲け物だ。資産と直結しているIDカードは、あらゆる支払いに使用できる。流動的な生体認証セキュリティは非常に頑強で、基本的には所有者にしか利用できない。しかし、支払いの際に使用される認証パターンを一時保存するように改造したレジスターと、レシェクの脳内に収まる各人の情報を照合して、擬態モジュールを生成すれば、その日限りだが、他人のIDカードを利用できる。
カードケースを手にした途端、レシェクの手首が何者かに掴まれた。彼の悪事を捉えた長い腕の根本を覗うと、見知らぬ長身の女が傍らに立っていた。年齢は二つか三つ、上に見える。女は腰を屈めて、レシェクの耳元に顔を近付けてきた。今さっき飲み干したカフェオレに似たベージュの長髪が、目の前でゆらゆらと揺れている。
「手癖が悪いね、ブロンディーくん」
屈託の無い微笑みを浮かべながら、女は金髪を揶揄する呼称を呟いた。呆然とするレシェクの手のひらから、続け様にカードケースを掠め取る。そして、「お二人さん、落とし物だよ」と言って、若い夫婦にカードケースを投げ渡した。礼を言う夫婦に「気を付けて」と手を振り返した後、女はレシェクの右隣の席に腰を下ろした。
「私はミチル・アレクシウ。……君の名前は?」
唐突にミチルと名乗った女は、泰然とレシェクに問い掛けてくる。初めて悪行を暴かれたレシェクだったが、妙に達観した気分になり、正直に名乗る事にした。
「レシェク・パテル」
「よろしく、レシェク。……レシェクはどうしてこういう事をしているのかな? お姉さんに教えてよ」
大して歳も変わらないであろうミチルが、人生相談でも始めそうな親身な口振りで問い掛けてきたので、思わずレシェクは吹き出しそうになった。さっさと警察に突き出せばいいものを、この女は一体何がしたいのだろう。
「当ててみてよ、お姉さん」
揶揄うようにレシェクは言った。すると、ミチルは少しばかり考える素振りを見せた後、人差し指の先端をレシェクの眉間に向けながら答えた。
「ふむ、恐らく主目的は金銭じゃない」
「……続けて」
「レシェクは身なりも綺麗だし、所作も上品だから、それなりの家柄の人間に見える。だから、金に困ってる感じはしない。それに、この国でスリなんてリスクのある稼ぎ方、普通はやらないからね。計画も驚くほど雑だし」
「うん、合ってるよ。僕は別に、お金に困っているわけじゃない。……それで、どうして僕はこんな事をしているのかな?」
レシェクは厄介な手合に絡まれたと思う反面、ミチルの推察をもう少し聞いてみたいとも思った。彼の返事に気を良くしたのか、元から朗らかだったミチルの顔色は、更に明るさを増した。
「君は円満な人生を失うかもしれない危険性に快感を覚えている。つまり、マゾヒズムだね」
しかし、明朗な声色が吐き出す回答は、屈折した不純の色を孕んでいた。思わず、レシェクは目を見開いてしまう。
「どうしてそう思った?」
「直感。……正解だった?」
「外れだよ。……正直、どうしてこんな事をしているのか、自分でも分からないんだ」
「じゃあ、レシェクは自分探しの為に盗人になったのか」
「そうかも」
レシェクは苦笑しながら、ミチルの言葉を肯定した。
「自分探しなら、お姉さんがもっといい方法を知ってるよ」
「それはどんな方法?」
「旅に出る事」
ミチルはレシェクに見えるように、携帯端末をテーブルの上に置き、マップモードに切り替えた。見慣れたティーガーデンの簡易マップが現れる。居住可能地域の北端の方――氷海の沿岸部には、赤色のピンが置かれていた。
「私は今、氷海を目指して旅行中なんだ」
そう言ってから、ミチルは旅行に出るまでの経緯を語った。彼女の話を聞いているうちに、とんでもない人間に捕まってしまったと、レシェクは辟易の思いを胸に浮かべた。ミチルは結びに提案を持ち掛けてくる。
「レシェク、私と一緒に旅に出てみない?」
この危険思想を身にまとっているような女――ミチル・アレクシウと共に行動する事は、将来に悪影響を及ぼす可能性を高める行為に違いない。こそ泥をやっているよりも危うい道を辿る気配が、彼女の提案に携わっていた。しかし何故か、ミチルの旅路に付いていきたいという気持ちが、レシェクの心を満たしている。
「いいよ」
気付けば、レシェクは承諾の返事をしていた。
「そうと決まれば、早速私達の旅を彩る名車の紹介をしに行こうか」
そう言ってミチルは席から立ち上がり、レジスターの方へ向かった。レシェクは盗みを暴かれた事も忘れて、彼女の背中に付いていった。ミチルはレジスター越しに店主と相見えると、抑えた声で忠告する。
「君はこういうの向いてないよ。コーヒーは結構美味しいから、そっちで稼いだ方がいいんじゃない? もし、面倒事に絡まれているなら、ここに連絡するといいよ」
忠告を終えたミチルは、IDカードの代わりに一枚の名刺を手渡す。それには法律事務所の名前が記載されていた。
「という事で、ここはツケでいい?」
そう問われた店主は、ミチルとレシェクを交互に見返した後、一度だけ頷いた。颯爽とカフェを立ち去るミチルを追いかけながら、レシェクは彼女に尋ねた。
「どうして店主がグルだって分かった?」
「レシェクと違って、彼はビクビクし過ぎ」
「へえ、気付かなかったな。お姉さんは目が良いんだね」
「ミチルでいいよ」
「そう? じゃあ、よろしくミチル」
「こちらこそ」
ミチルと雑談しながら、カフェの駐車場を歩いていると、真っ赤なセダンタイプの旧世代車がレシェクの目に移った。どこぞの偏屈なマニアが好きそうな古臭い車だと思っていたら、ミチルの足がその車の前で止まった。
「これが私の愛車、プログレスP6です!」
両手を広げながら、ミチルは堂々と宣言した。どうやら、どこぞの偏屈なマニアはここにいたようだ。
「さあさあ、どうぞ乗ってくださいな」
赤い車の隣ではしゃぐミチルの姿を見て、記憶の奥底に閉じ込めておいた映像が、レシェクの脳裏を過ぎった――。
◆
レシェクは、両親に引き合わされてから最終学校に入学するまでは、ティーガーデンの思想を全うしようとする善良な人間であった。そんな彼の性質が現在のように形を変えたのは、ある映画に由来している。
ティーガーデンの政府は大衆の目に写らぬよう、緩やかに思想を統制している。その影響は書籍や映画などの文化面にも及んでいる。特に平穏と安定を乱すような、退廃的な行為を推進しかねない内容の作品は、厳しい取り締まりを受ける。例えば、殺人を忌避すべき醜悪な行為ではなく、美的に描写したような作品は、直ぐに規制を受けてしまい、世に出回る事はない。しかし、世に出回る予定すら無い作品に関しては、思想的な監視が行き届く事は滅多に無い。
最終学校に入ったレシェクは、映画研究会に所属した。映画に強い関心がある訳でもなく、気まぐれな思い付きからの行動だった。だが、彼が想定していたよりも活気のある研究会で、撮影技法や脚本の記述など専門的な知識を学ぶ機会もあった。
ある日、レシェクが映画研究会のデータベースを気まぐれに覗いていると、タイトルが記載されていない作品を見つけた。製作者の情報を見てみると、どうやらその作品は、十年以上前に卒業した先輩達が撮影した自主制作映画らしい。
キャストは二人だけ。台詞は殆ど無く、無声映画に近い。故意なのか、CGは一切使われておらず、画作りも古めかしい。容易にテーマを読み取る事のできない実験的な作品だった。
罪を被り、現世に行き場を失った二人の男女が、赤い車を走らせて海へ向かう。曇り空の下、くすんだ灰色の海に入水する二人は、互いの手を取り、舞うように泳ぐ。踊り疲れた二人は、体を寄せ合い、微笑みを交わしながら、水底に沈んでいく……。
この確実に政府に目を付けられるであろう退廃的な内容の映画に、レシェクはすっかり魅了されてしまった。特に最期の心中シーンは、彼の内部に消えない『傷』を刻みつけた。レシェクはこの『傷』が危うい心象であると自覚していたが、その本質が映画のような美しい破滅への渇望である事は未だに認識していない。
レシェクの記憶力は人並から外れた卓越した能力であり、彼は自身の記憶を制御する事に長けていた。『傷』を押さえ込む為、特技を利用して、映画の記憶を深部に封印していたが、それは応急的な措置に過ぎず、しばしば盗みを働いたりするような歪んだ形で表面化してしまった。そういった現象の一つとして、彼は赤い車の隣に並ぶ女の姿を目にすると、抗い難い感情の発露が起こり、映画で見たような幻想的な結末を求めようとする。
それは、まさに今、目の前で起こっていた。
◆
――まるで僕が彼女と心中したいと考えているみたいじゃないか。それは絶対に違うぞ。
レシェクは内心で叫んだが、彼が否定的に捉えている思考はまさしく真実であり、切望する願いであった。レシェクは己の本心を理解できぬまま、美しい破滅の気配を期待して、意気揚々とミチルの愛車に乗り込もうとする。しかし、彼の体は真紅の車の前で硬直してしまった。
「どうしたの?」
既に車内に入ったミチルがくぐもった声で尋ねてくる。
「ドアの開け方が分からないんだけど……」
レシェクが困惑しながら車のボディをぺたぺたと触っていると、堪えきれなくなったミチルが大笑いを始めた。彼にとっての理想の終末はまだまだ遠い。




