静寂の刃
東京地方裁判所第三法廷。二月の冷たい空気が、傍聴席にも漂っていた。
前から三列目に座る宮本恵美子は、じっと被告人席を見つめていた。四十二歳。娘を殺されてから、ちょうど一年が経っていた。
膝の上に置いたバッグは、いつもより少し重かった。中には文庫本が一冊。昨夜、恵美子は丁寧にページの中央部分をカッターで切り抜き、そこに果物ナイフを埋め込んだ。セラミック製の刃。金属探知機には反応しない。入廷時の手荷物検査で、係員は本をぱらぱらとめくっただけで通してくれた。
被告人・田代浩二は三十八歳。前科三犯。恵美子の一人娘、七歳の美咲を誘拐し、暴行の末に殺害した男だった。
「では、被告人に最終陳述を求めます」
裁判長の声が響く。
田代は立ち上がり、原稿を読み始めた。
「私は...深く反省しております。被害者のご遺族の方には...」
その瞬間、恵美子は立ち上がった。
バッグから何かを取り出す。
法廷内の誰もが、一瞬、時間が止まったように感じた。
───
それはセラミック製の果物ナイフだった。刃渡り十二センチ。白い刃は、まるで陶器のように見えた。
恵美子は傍聴席の柵を乗り越えた。
ベテランの廷吏・佐藤は、最初の異変に気づいていた。しかし、恵美子の顔を見た瞬間、体が動かなくなった。そこには怒りも憎しみもなく、ただ深い深い悲しみだけがあった。まるで、すでに魂が抜け落ちてしまった人間のような表情。佐藤自身にも小学生の娘がいた。一瞬、「もし自分だったら」という考えが頭をよぎった。その一瞬が、致命的だった。
「お母さん、ただいま—」
美咲の声が聞こえる。いつも玄関で靴を脱ぎながら言っていた、あの明るい声が。
「被告人席に近づかないで!」
我に返った佐藤が叫ぶ。しかし恵美子の足は止まらなかった。
田代が振り向く。その目に、恵美子は何も見なかった。後悔も、恐怖も、何も。
最初の一撃は、男の肩に入った。
二撃目、三撃目。
「美咲...美咲...美咲...」
娘の名前を呟きながら、恵美子はナイフを振り下ろし続けた。
四撃目、五撃目、六撃目。
佐藤と若手の廷吏が恵美子を押さえつけた時、田代は床に倒れていた。法廷は血と悲鳴に包まれていた。
佐藤は恵美子の手からナイフを取り上げながら、彼女の目を見た。そこには何の光もなかった。ただ、小さく唇が動いていた。
「美咲...やっと...守れた...」
───
「どうして止められなかったんですか!」
裁判長が廷吏に怒鳴る声が、遠くから聞こえた。
佐藤は答えられなかった。「一瞬、躊躇してしまいました」とは言えなかった。
恵美子は床に押さえつけられたまま、目を閉じた。
手のひらに残る、ナイフの感触。何度も何度も振り下ろした感覚。それは憎しみからではなかった。これは、母親としての最後の仕事だった。法が裁けないなら、自分が裁く。たとえ、その代償がどれほど重くても。
「美咲、もう大丈夫だよ」
小さく呟いた。
救急隊が駆けつける。田代は緊急搬送された。生死は不明。
恵美子には、もうどうでもよかった。
───
「宮本恵美子、殺人未遂の罪により、懲役八年の実刑を言い渡す」
三ヶ月後の判決公判。恵美子は何の表情も浮かべずに、その言葉を聞いた。
田代は一命を取り留めていた。十七カ所を刺され、うち三カ所は生命に関わる重傷だったが、奇跡的に命をつなぎとめた。
「被告人には、極限の精神状態にあったという酌量すべき事情がある。しかし、法廷という司法の場で暴力に訴えた行為は、法治国家として決して容認できない。よって...」
裁判長の言葉は、恵美子の耳には入ってこなかった。
傍聴席には、恵美子を支援する市民団体のメンバーや、報道陣が詰めかけていた。一方で、「私刑は許されない」と批判する人々もいた。
判決後、記者たちが殺到した。
「後悔していますか?」
「もう一度同じ状況になったら、どうしますか?」
恵美子は何も答えなかった。ただ、護送車に乗り込む前に、一度だけ空を見上げた。
灰色の東京の空。美咲が好きだった青空は、どこにもなかった。
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## エピローグ
女子刑務所の独房で、恵美子は毎日を過ごした。
面会に来る人は誰もいなかった。夫は事件の半年前に離婚していた。両親はすでに他界していた。
ある日、差し入れの本の中に、一通の手紙が挟まっていた。
『私も娘を亡くした母親です。あなたの気持ちが、痛いほどわかります。でも、どうか生きてください。あなたの娘さんは、お母さんに幸せになってほしかったはずです』
恵美子は、初めて涙を流した。
事件から一年と三ヶ月。初めて流れた涙だった。
窓の外には、少しだけ青空が見えていた。
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