9話
第九話
「ねえ、お兄ちゃん」
兄弟二人の目が真っ直ぐに見つめてきた。
「今度は何時来るの?」
「また旅に出ないといけないんだ。だから暫らくは来れないな」
「えー!」
「明日も来てよ!!」
「そんな声出すなよ。……そうだ、今度来る時には何かもって来るからさ」
「ホント? 約束だよ」
「分かってる。だから二人とも、お母さんを大事にするんだよ。この間二人にあげた物、持ってるかい?」
「もちろん!」
二人は同時に懐剣を取り出した。
綺麗な飾りが付いた、玩具のような代物だが、幼い二人にはぴったりの大きさで、先日はそれを使って剣の扱いを教えた。
「二人がお母さんを守らないといけないんだよ。だから強くならないといけない」
「わかってるさ!」
「帰ったら、また剣の使い方を教えてよ!」
「もちろんだとも。…それじゃあ行ってくる」
二人の頭を撫でてやったあと、レクスは立ち上がって、側で立っていた母親のほうへ向かって頭を下げた。
「じゃあ行ってきます」
「いつも有難うございます。気をつけて行ってらっしゃいね」
「奥さんも体には気をつけてください。では」
上着を着終えたレクスは、笑顔を残して彼らの家を辞した。
「やはり此処でしたか」
その家を出て、角を曲ったすぐの所で声を掛けられた。
男が一人、外套の襟を立てて佇んでいる。
「…将軍自らお出ましとは恐れ入ります」
レクスはその男を一瞥し、無愛想に応じた。
「まあ、そう尖らずに」
シルフェイド現将軍、ハデスは、レクスの感情をさらりとかわして、家のほうへ目を向けた。
「先ほど外から様子を窺いましたが、奥さんも元気そうですね。なによりです」
「……」
「子供達もすくすくと育ってますし。あれから既にどれくらい経ったか――」
「ハデス将軍、貴方が此処で待っていた、ということは何か公用なのではないんですか?」
レクスはその話題を嫌うように、ハデスに訊いた。
「あ、そうでした。国王がお呼びですよ」
「国王が? おかしいな、俺は既に命を受けているのですが」
先日、シルフェイド国王セラフィーゼから、エルブレイズの内偵を命じられたばかりだ。だから明日にはエルブレイズに向けて発つことになっており、そのことは国王も了承しているはずだった。
「私も内容までは伺っておりませんが、それに関連したことかも知れませんね。行けば解かるでしょう」
「了解しました。只今よりラーミディ城へ向かいます、ハデス将軍」
レクスがハデスに向かい、直立して言うと、
「どうもレクス殿に将軍と呼ばれると、肩身が狭いですね。どうしても前将軍だったレクス殿と自分を比べてしまう」
と、ハデスは頭を掻いた。
「そんなこと。私は自らの至らなさを恥じて将軍を辞した者ですよ。ハデス殿と比べることなど、とても」
「いや。レクス殿の包容力、明るさは将軍としてとても魅力的でしたよ。……ただ、」
ハデスは一端言葉を切ると、レクスに正面から向き合った。
「ただ、惜しむらくは、レクス殿、貴方は優しすぎるんですよ。優しすぎるから将軍を辞したように私は思う」
「そんなこと言われても…」
ハデスの真面目さを嫌うように、レクスは力なく笑って横を向いた。
「…全てが力不足だった。それだけですよ」
「貴方とこの家の家族との繋がりは、国王にお聞きしたことがあります。それを忘れない気持ちは確かに大事だと思いますし、そんなレクス殿を私は尊敬もしています。しかし、優しさは時に命取りになるのです。そのことはこの家のご主人が証明している。私は、貴方が彼と同じ道を歩んでしまわないか、それを危惧するのです。私が思うに――」
「彼が居なければ今の俺は居ない」
ハデスの言葉を、レクスは強い口調で遮った。
「…ただそれだけのことですよ。伝言確かに承りました。昼前には登城したいですから、これにて御免」
レクスはくるりと踵を返すと、ハデスの溜息を背で聞きながら、足早にその場を後にした。
シルフェイド国の首都をアドミラリティという。しかしその都は、地理的に端に寄りすぎているため、交通の便に難点があり、徐々に衰退の一途を辿っている。
それに変わる都として、シルフェイド国内で最も活気に満ちているのが、此処ラーミディである。
世界のほぼ中心に位置し、交通の便はすこぶる良い。太古に存在した『風の国』の首都であった、という輝かしい過去もあり、現在では名実共に、シルフェイドの中心になりつつある。
ラーミディの城に登る道すがら、レクスはその街並みを一望した。
城の建つ、この丘陵から街を眺めていると、街を吹きぬける風が目に見えるような気がしてくる。
先ほどまでいた家が見えた。
――優しすぎる…か。
そんな綺麗事ではない事は、自身が一番解かっていた。だからその一言に、ハデスの気遣いを感じ、そんな彼に反論する自分の姿を想像したら、居たたまれなくなって話を切り上げてしまった。
屋根の上を、白い風が通り抜けていく。
その風を追うように視線を動かしたが、ハデスの姿は此処からは見えなかった。既に立ち去ったのかもしれない。
――過去に犯してしまった過ちは、やはり一生引きずって生きていくしかないのだろうか。
風をぼんやりと見ながら、思った。
誰にだって、触れられたくない過去はある。悔い続けるべき過去がある。
そんな過去から逃げることが出来たら、どんなに楽だろうか。過去を知る人と決別し、新天地に足を踏み入れて、過去に向き合わずに生きていきたい、と思ったことは、一度や二度ではない。
そして、そんな考えが浮かぶ度に、そのような生き方が正しいわけがない、と、自らを戒めてきた。
だが、そうやって自分を律しつつも、つい思ってしまう。
もしもこの世に、絶対過ちを犯さない人がいたら、その人はどれほど幸せだろう、と。
そんな、愚にもつかぬことを考えながら歩くうちに、いつの間にか城門を潜り抜けていた。
ちょうど謁見している者が居なかったらしく、レクスが取次ぎの兵士に用向きを伝えると、王の間まですぐに通された。
「度々呼び出して申し訳ありません、レクス殿」
畏まっているレクスに、セラフィーゼが声をかけた。いつもと同じ涼やかな声音だ。
「何か緊急の御用でしょうか?」
「緊急という訳ではありませんが、レクス殿には伝えなければならない内容です」
そう前置きすると、セラフィーゼは、一つ咳払いをした。
「魔王軍の噂を聞いたことがありますか?」
「魔王軍? 初めて耳にしましたが…何なのですか、それは?」
話の思わぬ流れに、レクスは顔を上げた。
緑風を思わせる王の瞳と目が合った。
「先日ルネーシャで、我が軍とエルブレイズ軍との戦闘があったのは知っていますね?」
「ええ。エルブレイズに奪われた、ルネーシャの都市の再度の奪還を目的におこなった戦闘ですね」
「そうです。実は、その戦闘の際にルネーシャから抜け出してきた住民からの情報なのですが、二、三週間ほど前から、ルネーシャ近郊に在る古城に、魔物が棲み付いているらしいのですよ」
レクスは少しの間、ルネーシャの地理を思い浮かべてから、
「ルネーシャ近郊に古城なんてありましたか?」
と、訊ねた。ルネーシャにはあまり行ったことが無いので、古城の存在が思い浮かばなかったのだ。
そんなレクスの様子を見たセラフィーゼは、
「遥か昔、五つの国が覇を競い合っていた時代がありました。五つの国とは、太陽王の治めた火の国を筆頭に、水、風、土、闇の国々です。それはご存知ですね?」
と、この世界の歴史に触れた。
「ええ、前に国王から御教授頂きました」
「此処ラーミディが、過去に『風の国』の首都であったように、ルネーシャも古、『水の国』の首都だったのです。現在のルネーシャは、その、古に存在したルネーシャの街を基盤として築かれたのですが、その設計時、利便性を理由に、より平坦な場所へ街の中心、即ち城が遷移されました。そのため、昔の城が新しい街の近郊に位置することになり、以降発展の邪魔にならなかったため、その古城は壊されることもなく、現在なおその姿を留めているのだそうです」
「……さすが、詳しいですね」
「歴史を勉強するのは好きですから。…古の王の居城を棲家にしているから、周辺の住民が畏怖をこめて『魔王軍』と呼んでいるらしいのですが、もしかすると、その城に君臨する魔物の首魁、即ち魔王が存在するのかもしれません。なにぶん敵国のことなので、情報量が不足していまして」
「その古城の調査が追加任務、ということですね」
「その通りです。エルブレイズの内憂は、我が国の利になる。調べる価値は十分にあります」
普段は優しそうに見えるセラフィーゼだが、やはり一国の王、このあたりは抜かりがない。内情が判れば、魔王軍を利用して、エルブレイズに調略を仕掛けるつもりなのだろう。乱世なのだから仕方ないことなのだ、と、それについてはレクスも思っている。
「分かりました。ルネーシャを中心に、エルブレイズの内偵を進めてみましょう」
「で、それについてもう一つ、お願いがあります」
「といいますと?」
「実は魔王軍の噂を聞いた直後に、真珠を内偵に向かわせたのですが、連絡が途切れてしまったのです」
真珠もシルフェイド国の騎士である。
「分かりました。真珠殿と連絡が取れるかについても、やってみます」
「頼みましたよ。未知の相手、くれぐれも気をつけるように」
翌早朝。
レクスは、少年たちの家の門前を通ってラーミディを発った。