2話
第二話
暗がりの中を歩いていた。
何時から歩いているのか覚えていないが、ともかく永い時を歩き通しだった。
空腹を覚えて立ち止まったが、食べ物など何も持っていない。
無意識の内に、左耳にぶら下がった鍵を撫でて、目の前にパンを現出させ、無我夢中で被りついた。
――美味い。
だが普通のパンではない。そう思い、もう一度パンを良くみてみた。
指、掌、腕…。
不意に吐き気がこみ上げてきた。
これは人の腕だ。
こんなものに無我夢中で被りついて、まるで私は――。
しゅうは飛び起きた。
「おい、大丈夫か、しゅう殿」
ベットの傍らに、心配そうな顔をしたインリンがいる。
慌てて自分の腕を見てみる。肌色だ。頭に手を伸ばしてみるが、何もない。
「私は一体…」
インリンから水を受け取りながら、冷や汗でびっしょりのしゅうは訊ねた。
「あの後、しぃな殿を連れて遺跡にいったら、しゅう殿が扉の中の部屋で倒れていたんだよ。てっきりゴブリンに襲われたものと思って、慌ててしまったけれども、怪我もないみたいだし、まずは良かった」
「そうでしたか、…ご迷惑をお掛けしました」
しゅうは頭を下げながら、考えた。扉が開いていたということは、やはりしゅうは意味不明な呪文を唱えて扉を開けたのか?
だとしたら――。
「王冠はどうしました?」
「王冠?」
インリンが聞き返してきた。
「扉の奥の部屋に、王冠と…あと、大きな鏡があったと思うのですが」
「しぃな殿と二人で見て回ったけども、王冠はなかったなあ。確かに古ぼけた鏡はあったけど」
「そうですか」
意味が分からなかった。
結局王冠は何処へいったのか?
しゅうが気絶してから、インリンたちが戻ってくるまでに、誰かが持ち去ったのか。
それとも部屋に入った後からが夢だったのか。そういえば扉を開けたときに吸った、ひんやりとした空気。あれが幻覚をみせるガスだったのかもしれない。
「疲れてるんだろ。復命は既に終えてあるし、セリア様もゆっくり休めってさ」
言い終るとインリンは、ひとつ欠伸をかみ殺した。その仕草で、彼が自分が倒れている間、ずっと傍にいてくれたのだと判った。
「インリン殿、本当に有難う御座いました」
「なに、持ち場を離れた私も悪かったよ。元気になったら酒場に来いよ。あ、それから…」
不意にインリンが、バツの悪そうな照れ笑いを浮かべた。
「大丈夫、緑風はちゃんと渡しますから」
その笑みの意味を汲み取って、しゅうは笑いながらいった。
「約束だよ! じゃあ私は酒場に行ってくるから」
そう言い残すと、インリンは手を振って、医務室から出ていった。
一人になったしゅうは、もう一度自分の腕をみて、さらに頭上を確認した。
やはり肌は青色ではないし、頭上には何もない。
――幻だったのだ。
変な王冠も、鏡に映った自分の姿も全て…。
大きな溜息を一つつくと、同時に安堵感が体全体へ行き渡った。
しゅうは、そのままベッドに仰向けになり、暫く横になって天井を眺めていたが、
――セリア様に元気な姿を御見せしなければ。
と思い立って、急いで身支度を始めた。
不安もなくなり、ぐっすり眠りたいところではあるが、心配しているであろうセリア女王のことを思えば、このまま寝ているわけにもいかない。
動いてみたが、何処も痛まないし、体調は万全だ。簡単に仕度を終えて、そのまま足取りも軽く、女王の執務室へと向かった。
「しゅう殿が目通りを願い出ております」
そう衛兵が報告してきたため、セリアは書類の山から目を離した。
「しゅうが? もう元気になったのか。すぐに通してやってくれ」
そういってから、手を前に組んで伸びをした。
何気なく窓の外に目をやれば、ガルバディオの街は既に赤く染まっていた。ガルバディオは、良くいえば活気のある、悪くいえば雑多な街並みを持っているのだが、この時間には、屋根の色が全て夕暮れ色に染まって、統一感のある風景になる。それは、セリアが好きなアンタレス国の風景のひとつだった。
部屋から退出した衛兵は、すぐにしゅうを連れて戻ってきた。
「しゅう、元気になってよかった、もう大丈夫なの?」
セリアは入ってきたしゅうへ微笑みかけた。
「はい、ご心配をおかけしました」
返事もしっかりしているし、斜陽の光のせいもあるだろうが、顔色もすこぶる良い。
「報告は全て受けているよ。美容にも悪いから、あまり心配かけるようなことはしないでくれ」冗談交じりにいうと、しゅうもつられて笑顔をみせた。
書類検分の小休止のつもりで、その後暫く二人で談笑していた。
「…そういえばインリンが、しゅうは遺跡に強い関心を示していたと、意外そうに言っていたが、正直私も意外だよ」
「私もそんなに遺跡が好きだと言う訳でもないのですが、あの遺跡だけは何故か…。歴史を感じさせる建物には、人を惹きつける魅力というか、魔力があるのかもしれません」
「そんなものかな。私はファイトクラブや天真の武道会を見ている方が血が騒ぐけども」
セリアがそう反論すると、
「本当は私もそういうほうが好きなんですけどもね」
しゅうはそういってから笑った。
「天真を観戦するのも好きですし、参戦するのも良いですね。今度御一緒に如何ですか?」
「出るほう? それとも見るほう?」
「御意のままに」
しゅうが大袈裟に、その場で恭しく跪拝をしてみせたので、
「わらわは参戦が望みじゃ」
セリアは吹き出しそうになりながらも、跪くしゅうに手を差し出した。
が、突然その手をしゅうに思い切り引かれて、セリアは前のめりに倒れた。
「しゅう、悪ふざけが過ぎ…」
窘めようとしたセリアの声が途中で途切れた。
しゅうが、倒れたセリアの上に馬乗りになって、首を締め付け始めたからだ。喉を絞める力の強さで、ふざけている訳ではないことが判る。
「ぐ…加減に…」
セリアは、しゅうの下腹に思い切り膝を叩き込んだ。呻き声と共に力が弱まる。その隙にセリアは、しゅうの下から逃れて、魔剣スカーレットニードルを鞘から払った。
「…どういうつもりだ、しゅう?」
セリアは剣先をしゅうに向けて訊いたが、しゅうは無言のまま、こちらを見つめている。その頭にはいつの間にか、妙な形の王冠が載っていた。
「今ならまだ間に合う、非礼を詫びろ」
此処にはセリアとしゅうしかいないため、まだ事実を隠匿することは出来る。
「早く!」
そうセリアが促すのと、しゅうが左耳の辺りの鍵に触れるのは、ほぼ同時だった。
しゅうの肌がみるみる青く変色していき、髪の毛が、内側から発光したかのように、銀色に輝きだす。
――こいつはしゅうじゃない。
スカーレットニードルの剣先が、さっきまでしゅうだった怪物の、左腕を薙ぎにかかる。怪物は、腰のサーベルでそれを受け止めた。
――だが、これは確かにしゅうのサーベル。
浮かんだ雑念を振り払って、一歩踏み込み、刃を押しつける。が、押しつけた刃に、しゅうの、いや怪物のサーベルをつたって、何かが数匹、もぞもぞと這い上がってきた。
蜘蛛だ。体の色の奇抜さから、それが毒蜘蛛であろうと察したセリアは、後ろに跳び退り、剣を振って蜘蛛達を払い落とした。青い怪物が、左耳辺りの鍵を触ると、怪物の足元から蜘蛛が湧き出し、見る間に数十、数百とその数を増した。床、壁、天井を埋め尽くしながら這い寄ってきたそれら蜘蛛の群れを、セリアは剣で必死に牽制するが、何しろ数が多すぎる。
――このままでは――。
「怪物よ、其処までなんですね」
声と共に、火の玉が飛んできて、地面を埋め尽くしている蜘蛛の上に落ちた。落ちた火は一気に燃え広がり、蜘蛛の群れを焼き払った。
「セリア様、大丈夫ですか?」
リューガがセリアの側に駆け寄り、怪物に向けて槍を構えた。
「観念するんですね」
先ほど火の玉を放った騎士、セファイドも、セリアのほうへ歩み寄ってきて、怪物とセリアの間に割って入った。
「む、貴公はまさかしゅう殿か? 一体――」
怪物の顔をみたリューガが驚きの声を上げた。その声を聞いた怪物は、突然顔を覆って苦しみだした。
「とりあえず、おとなしくさせることが先なんですね」
セファイドが杖を構えて、しゅうににじり寄る。
「がああぁ!」
怪物は、何かに耐えかねたように叫び声を上げたかと思うと、身を翻し、窓を破って飛び出した。
「待て、しゅう殿、此処は五階――」
リューガが慌てて窓に駆け寄り、下を覗いて怪物の姿を探す。
「大丈夫ですか、セリア様」
セファイドが心配そうに聞いてきた。
「私は大丈夫だ、だが…」
「大地に死体はない。恐らく逃げたのでしょう」
リューガが窓際から戻って来る頃には、騒ぎを聞きつけた兵士達が入口付近に集っていた。「全軍に伝令!」
リューガが兵士たちの方へ向き直った。
「しゅう殿はご乱心召された。発見次第、速やかに捕縛すべし。青い怪物がいた場合も同じである。尚、刃向かう場合は構わん、容赦なく――」
「殺してはならん」
「セリア様!」
リューガが非難の声を上げたが、
「殺すな、生きたまま捕まえよ。これは厳命だ」
と、セリアは凛とした口調で言い放った。
拝命を受けたリューガは、兵士たちを引き連れて部屋から出て行った。
セファイドだけが部屋に残った。
彼はセリアを椅子に座らせてから、
「…王に手向かった罪は重い。どちらにせよ、それだけで死罪は免れないんですね」
と、セリアのほうを見ずに呟いた。
「騎士にとって、縄目の辱めを受けるのと、戦って死ぬのと、どちらが名誉なことか…」
「それでも捕まえるのだ」
先ほどの声とは打って変って、セリアの声には疲労が滲んでいた。
「しゅうが何故、突然あのように変貌したのか、その訳が知りたい」
そういって、彼女はしゅうが破っていった窓へ目をやった。
ガルバディオの街並みは、既に闇の中へと沈んでいた。