11話
第十一話
ひどい霧だった。
自分の足元でさえ霞んで見えるほどの濃霧は、初めての経験である。
ルネーシャの宿を発つ時の、一点の曇りもない空を思い浮かべながら、レクスは荒廃した街並みを歩いていた。
昔此処に住んでいたという男の話によると、魔物が城に棲み付いて以降、ルネーシャ古城を取り囲むこの一帯の霧が晴れたことはなく、霧と魔物によって、ほとんどの住民は逃げ散ってしまったという。
だが、男は、今もなお濃霧の中で暮らしている者がいる、とも言った。
――その者に情報を訊くのが一番早そうだ。
男もその者の住処までは知らず、仕方なく、レクスは荒れ放題の家々を、しらみつぶしに回っていた。幸い、元住人の男から買った地図を見ながら路地を巡れば、迷うことはない。
――しかし、本当に居残っている者などいるのだろうか。
霧の中は魔物も出るというし、ほぼ無人となってしまった今、食料などの生活必需品だって入手は難しいはずだ。
既に何十件目か、家屋を調査し、無人であることを確かめたレクスが表に出たとき、周囲の変化に気づいた。
霧が家屋に入る前より薄くなっている。
不意に気配を感じた。
人のものとは思えぬ、禍々しい気。
――来たな。
レクスは手を剣の柄に掛けた。
シルフェイドの兵士が数人、道をこちらへと歩いてきた。見覚えのある顔だ。
「なんでシルフェイドって国は、こんなに弱いのかねえ」
そして聞き覚えのある声。
昔、兵舎の裏を通り過ぎようとしたときに、思わず聞いてしまった声だった。
「幹部が幹部だからな、仕方ないさ」
――魔物の幻術だ。
レクスは、一番右端の兵士を、一太刀で切伏せた。
本物がこんな処にいるわけがないのだ。
だが、その兵士は、まるで本物のような叫び声を上げて、本物のように大地をのたうった。
「レクス…将軍、同じ国に仕え…る同志に、何てことを……」
それだけいうと、事切れた。
レクスの服には、返り血による紅い斑点が出来ている。
「レクス将軍は確かにいい人なんだけどな、」
隣の兵士が話し始めた。
レクスはその兵士も斬り捨てた。
「でも、将軍としてはなあ」
更に隣の兵士も。
「皆を纏め上げるだけの力量が、」
「果たしてあるのかねえ?」
「誰か、もっと良い」
「将軍に率いてもらいたいよ」
気づいたときには、兵士全員を斬っていた。
――魔物の…幻術だ。
乱れた心を落ち着かせるために深呼吸をしたが、血の生臭さを肺まで吸い込んでしまい、思わずむせた。
――ひとまずこの場を離れよう。
そう思って、来た道を戻ろうとするレクスを遮るように、小さな二つの影が近づいてきた。
「お兄ちゃん」
それは、ラーミディに居るはずの兄弟だった。
「な、…お前たち、何で――」
こんな処に、と言いさして止めた。
ルネーシャ近郊に彼らがいるわけがない。これは魔物の幻惑なのだ。
「お兄ちゃんは、なんで僕達のお父さんを殺したの?」
身構えるレクスに、少年が訊ねた。
「俺が…殺した?」
幻惑だと解かっていても、聞き返さずにはいられなかった。
「うん。僕達のお父さんを殺したのは、お兄ちゃんだよね?」
「それは違う! 俺はそんなつもりは――」
「敵が怖くて、何も出来なかったんでしょ。そんなお兄ちゃんを助けるために父さんは死んじゃったんだよね?」
「それじゃあ、お兄ちゃんがお父さんを殺したのと同じことだよ」
暫らく言葉が継げなかった。
何と言って良いのか分からず、必至で考えた。
「……そのことは本当に悪かったと思ってる。だから俺は今まで、そしてこれからも君たちに――」
「お兄ちゃんが僕達にモノを買ってくれたら、お父さんは帰ってくるの?」
「お兄ちゃんが優しくしてくれれば、お父さんは生き返るの?」
「そ、それは……」
今まで、ラーミディの彼らの家で、少年たちに、このようなことを言われたことはなかった。懐かれて、慕ってくれていたのだ。だがレクスには、少年たちの口から出ている言葉が、すべて幻惑による虚言だとはどうしても思えなかった。むしろ、今語っている言葉こそが、実は、彼らがレクスに隠していた本心なのだ、とさえ感じた。
「お兄ちゃんが僕らに何をやったって、お父さんを殺したお兄ちゃんの罪は消えないよ」
「罪を消す方法はただ一つ。お父さんを生き返らせることだけ」
二人はレクスのほうへ歩み寄ってくる。
「もしもそれが出来ないのなら――」
「早く向こうの世界へ行って、お父さんを慰めてあげてよ」
手には飾りの付いた懐剣。
玩具のような代物だが、人を刺し殺すことくらいなら出来る。
「こ、来ないでくれ……」
たじろぐように一歩後退った。
「…死ぬのが嫌なの?」
「お父さんはお兄ちゃんのために死んだのに、お兄ちゃんはお父さんのために死ねないの?」
「自分が生きてればそれでいいの?」
「お兄ちゃんは卑怯だよ」
「お兄ちゃんは――」
レクスは、詰め寄る兄弟へ背を向けて逃げだした。
逃げることしか出来なかった。
――これは幻なんだ。
頭では解かっていても、二人に剣を向ける気持ちはどうしても起きなかった。いや、例え幻でも、剣を向けるわけにはいかなかった。
霧の中をひたすら走り続けた。既に何処をどう走っているのか分からない。
ただ走って、走って、走って。
道の縁につまずき、転んだ。
息が乱れていて、すぐには立てなかった。手を地面についたまま、呼吸を整える。
そんなレクスの側に、一人の男が立っていた。
「久しぶりじゃないか、レクス」
呼吸が止まった。
懐かしい声。
「相変わらず元気そうだな。いや、今はそうでもないか」
よく自分のことを叱ってくれた。
「俺は別にお前のことなんて恨んじゃあいないよ。俺の意志でやったことだしな」
よく自分の面倒を見てくれた。
「死後の世界ってのも悪くないぜ。昔俺が殺した相手に会えるし、腐れ縁が多すぎて飽きない。だが、」
そして、自分を庇って、敵の刃の下に沈んだ――。
「だが、どうしても、残してきた女房、子供のことが気になるのさ」
「……」
「レクス。俺に、家族のこと、伝えに来てくれる…よな?」
男の問いに、レクスは手をついたまま、黙って頭を前に突き出した。
「すまんな、レクス。お前にこんなこと頼むなんて、俺は――」
「早くやってくれ」
男の言葉を遮った。
「これでアンタの恩に報いれるのならば、俺は構わない」
心の底からそう思った。
自分のために命をかけてくれた人。
その人のために命を棄てる。
至極明快で、公平な論理じゃないか。
過去に犯してしまった過ち。
――これで、その過ちにけじめをつけれるのなら――。
男が腰から剣を抜き、ゆっくりと振りかぶる。
その気配と同時に、レクスは、自身の心が急速に安らいでいくのを感じていた。