09 縁談
ルークが屋敷を出て辺境に向かって、二日目の朝だ。
私は食事を食べ、刺繍を刺し、散歩をして、眠る、そんな穏やかで変わらない日を続けていた。
今も同じ、日課になった散歩は、時間になるとカミラが声をかけてくれる。
庭に出ようと室内から一歩踏み出した時、私の後ろから声がかかった。
「リディア! 散歩か? 丁度会いに行こうと思っていたんだ」
「⋯⋯おはようございます」
私が朝の挨拶を返せば、ルークが目を丸くする。
驚きと戸惑い。舌に感じた味からも、ルークは何か驚いているようだった。
首を傾げれば、首を傾げ返される。
「辺境での戦いから帰ってたのね。無事でなによりだわ」
「⋯⋯あ、ああ」
「それで、私に用って?」
「えーと⋯⋯、そうだ、手伝ってもらいたい書類があってな」
後から取ってつけたような言い方だ。
そろそろ屋敷を離れようと考えていた私は断ろうと口を開く。
ルークと関われば関わるほど情が生まれるのは分かっていた。
「少しだけ、助けてくれないか?」
断りそうな雰囲気を察したのか、ルークがぽつりと言う。
いつもの高慢な物言いとは違う、懇願に私はぐらりと頭を揺さぶられた心地になった。
少し前に見た夢の中のシミオンと、ルークの姿が重なって気分が悪い。
──今回だけ。少しだけ、彼に似ているこの人を手伝ったら、屋敷を出ていく。
私は心に言い聞かせて、頷いた。
それでも、こんなに書類があるとは聞いてない。
「⋯⋯次期領主様。少しだけ、とは?」
「あー、期限は近くない」
「じゃあ自分でやれば良いじゃないの」
「リディアにやってもらいたいんだ。さっきは頷いてくれたじゃないか」
さっきのは嘘か? と口を尖らせるルークと、机に乗った書類を交互に見て、私はついに降参して手を上げた。
「カミラさん、今日はお散歩はやめて、仕事を手伝おうと思います。せっかく付き合ってくださったのに、ごめんなさい」
「いいえ、ここまでご一緒できて良かったです。坊ちゃま、お嬢様に無理をさせてはいけませんよ」
「分かった分かった」
軽いルークの返事をカミラは心配そうにしながらも、私を執務室に置いて別の業務に戻って行った。
今の時間はロイが外に出ているらしく、姿が見えない。ルークと二人きりの執務室で、私は書類をぱらりと捲ってみた。
書類を確認して、修正をしてもらい、また確認すると言ったような何度もやり取りが必要な書類ばかりで、これでは何日、否、何週間もかかるかもしれない。
こんな書類を外部の人間に任せて良いのかと心配になると同時に、引き受けてしまった後悔がやって来る。
「なあ」
ルークが私の表情を注意深く観察するように見つめてきた。
「今日は何か変だ。何で目を合わせない? 俺が⋯⋯この前の夜に口付けたことを怒っているのか?」
「⋯⋯っ!」
ぶわ、と顔に熱が集まる。思い出さないようにと蓋をしていた記憶が溢れたようだった。
そのことは口に出さないで欲しかった。
私がルークを睨みつければ、逆にルークは嬉しそうに微笑んだ。
「やっと目が合ったな。リディア、怒っているのか?」
怒っている、と言ってしまえば、いっそすっきりするのかもしれない。ほんの少しの逡巡をノックの音が遮った。
「ルーク様、今よろしいでしょうか」
「⋯⋯よろしくないだろう」
扉越しに聞こえた侍従の声に、ルークは舌打ちと共に小さく呟くと、ため息を吐き、入るよう声をかける。
入って来た侍従は、私の姿を認めておや、と目を見張り、ルークの不機嫌そうな様子にびくりと体を震わせた。
気まずそうに、それでも仕事を果たそうと、恐る恐る口を開く。
「し、失礼いたします、ルーク様。あの、グリンハルシュ領の姫がフィリトンを訪ねて来てまして⋯⋯」
「グリンハルシュの姫?」
「──セラフィーナ嬢ですよ。もう手紙を貰ったことは記憶の彼方ですか?」
侍従の後ろからひょっこり顔を覗かせたロイが付け足した。
ルークは聞くや否や苦々しい顔になる。
「領主様の所へは挨拶を終えて、ルークとの顔合わせのために庭園で待っていただいているんです」
「急すぎやしないか?」
「知らせを送ってくれていたようですが、僕たちが村に行っている時だったようで、伝え聞いたのは今日です。今日は昼前にいらっしゃると⋯⋯⋯⋯ルークにこの話は朝にもしましたが」
まさか、聞いていなかったんですか? と。ロイは深い深いため息を吐いた。
「昨夜から気もそぞろで、まるで何もきいていないと思っていましたが。とにかく! もう時間が無いので行きますよ」
ルークはぐっと眉を顰めて、仕方なさげに立ち上がる。
私の方に向き直ると、舌の上に苦味が広がった。
「悪い、リディア。頼んでおいて席を外すが」
「大丈夫よ。部屋に持って行って良いものがあればやっておくわ。⋯⋯今から行くのはお見合いですか?」
「違──」
「そうです」
私はあえてロイに向かって質問した。ルークの嫌そうな顔を見るに、否定しそうだと思ったからだ。
「早く行ってあげてちょうだい。私はその間、見られないように部屋に篭っているから」
「おい──」
ルークはまだ何か言いたげだったが、ロイに引き摺られるように部屋を出て行った。
伝えに来た侍従も一礼して部屋を出ていく。途端にしん、と静まり返った部屋で、私は一人になった。
ルークは二十六歳。次期領主としては今まで結婚していないことが不思議なくらいだ。さらに、決まった恋人もいないように見える。
見合い話もあって当然だ。むしろ、一刻も早く相手を見つけなければいけない歳だろう。
「⋯⋯⋯⋯」
拾い猫と同じく世話を焼かれているせいか、たった一度の口付けのせいか。
お見合いという単語に、心臓の辺りがもや、と不快に感じた。
私は胸を押さえて深呼吸する。顔の皮一枚、声色一つ、乱れていなかったはずだ。
繰り返しゆっくり呼吸をして心を落ち着かせてから、私は部屋に戻ることにした。
お見合いの相手から見て、私の存在は邪魔以外の何者でもないだろう。男が囲って、世話をしているなど、側から見たらどう思われるかなど、良い想像ができるはずもない。
私はいつもより早足で部屋までの廊下を進み、部屋に辿り着くと決して窓に近付かないよう、息を殺していた。
閲覧ありがとうございます。
投稿する順序を間違えていまして⋯修正いたしましたm(__)m