07 昔のお話
私はかつて、今となっては遠い昔、ラティマ王国の貴族の娘だった。王族に次ぐと言われる程家格の高いノックス家に生まれた私は家族の愛など無縁に育ち、田舎の貴族マクファーレン家の息子に恋をした。
参加させられた夜会で、ノックス家の娘に言い寄って来る貴族たちに疲れて会場を抜け出した先、誰もいない庭園で噴水に腰掛けた私に声をかけてきたのが彼だった。
「失礼、お嬢様、綺麗なドレスの裾が濡れてしまいますよ」
今夜は誰とも話したくない。私は貴族令嬢の仮面を脱ぎ去って、彼に冷たい言葉を返した。
「知っています。私に構わないでください」
彼はびくりと怯んだように肩を震わせたが、立ち去ることはなかった。
「寒い夜の外で女性を一人になんてできません」
よろしければこれを、と。彼は上着を差し出した。私は拒否しようと口を開きかけるが、ふわりとかけられた温もりに閉口する。
他人の温かさを感じたのは本当に久しぶりだった。
「噴水の水の中に何かあるんですか?」
「何もありませんよ」
私はじっと見つめていた水面から視線を移す。
水面に映っていたのは完璧な令嬢を装うただの娘だ。誰も彼も、親でさえも、私の中身を見てはいない。
暗い感情を燻らせたまま、顔を上げると真っ直ぐに私を見つめる榛色の瞳と目が合った。
「不思議だな。貴女の頬に涙の跡は無いのに、泣いているような気がする」
厳しい訓練で微笑みが張り付いた私に、そんなことを言う人は初めてだった。
ぼんやりと口にした彼は途端に恥ずかしくなったらしい。
頬を赤くして、わざとらしい咳払いをすると頭を下げた。
「ゴホッ⋯⋯初対面の相手にこんなことを言うなんてどうかしていました」
「大丈夫です。不快ではありませんでしたもの」
「失礼を。僕はシミオン•マクファーレンと言います」
「リディア•ノックスですわ」
ノックスの名に一瞬驚いたように目を開くも、シミオンは柔らかく微笑んでハンカチを差し出した。
「⋯⋯泣いてはおりませんよ?」
首を傾げる私にシミオンは軽く笑って、袖を指さす。
「少し水に入ってしまったようですね。冷たくはありませんか?」
「あ⋯⋯」
特注品のドレスは水を含んで色を変えている。
ハンカチを受け取らない私を見て、シミオンは表情を変えずに、ハンカチで私の袖の水を吸わせるように押し当てた。
「⋯⋯誰もが羨んでいるドレスを汚して驚く家族を想像して、いい気味だと思っているのですよ。こんなドレスにあなたのハンカチを使ってしまうのが勿体無いくらい」
私は腕をシミオンに差し出したまま、ふふ、と声を出して笑った。
「ノックス家の娘の中身が今あなたの目に映る私でがっかりされましたか?」
「いいえ。一つ訂正を申し上げるなら、僕のハンカチであなたの肌の冷たさが減るのなら、少しも勿体無くないということですが」
夜の鐘が鳴る。もう夜会も終わりだ。
馬車まで送ってくれたシミオンと別れる時、私は背を向けようとする彼に声をかけていた。
「また会えるでしょうか。私は王都の夜会には全て参加しますわ」
「では、きっと会えますね。僕も会えるのを楽しみにしています」
それから数度、逢瀬を重ね、私たちの仲は深まっていった。
田舎の貴族である彼と貴族で一番高い家格の私は、噛み合わないようでいて、共にいるとぴたりと波長が合うように心地良かった。
それは、私が貴族らしく無い性格だったからでもあるし、全て受け入れてくれるような彼の人柄によるものでもあっただろう。
ある時、私は侍女に嘘を言い、彼とラベンダー畑で会ったことがあった。
温かい陽気で空には鳥が飛んでいる。
自由なその姿を私はぼうっと目で追っていた。
少し離れたところに座ったシミオンは集中して絵を描いているようだ。彼は絵を描くことが好きで、私は邪魔をしないように声をかけなかった。
「リディア!」
いつのまにか眠ってしまっていた私が薄く目を開けると、むに、と頬を摘まれる。
「やめれ、しうぃおん」
「あははは! 一人にさせてごめんね、終わったからさ」
「何を描いていたの?」
摘まれた頬を抑えて問い掛ければ、彼は動きを止めた。
「うーん⋯⋯今は秘密。完成したら見せるよ」
見せてくれても良いのに、と私が唇を尖らせれば、そんなことをしても可愛いだけだよ、と言葉が返って来る。
婚約指輪も何も無い、私たちは恋人だった。
家格の釣り合わない恋は、私には許されていなかった。隠してきた逢瀬を知った家族は私を怒鳴りつけた。
それでも私はシミオンだけがくれる愛を手放すことができず、初めて家族に抵抗した。
ノックス家でまともな扱いを受けていないと知ったシミオンは、自分のことのように悲しみ、結婚して私を守ると、震える私の体を抱きしめる。彼の温もりに安心するのも束の間、ノックス家の騎士が、父の命令で私を家に連れ戻した。
私の家族は娘の抵抗に、過去に見たことがないほど怒っていた。私を屋敷の地下に閉じ込めて、ドレスで隠れる足を鞭打つ。私が何を言っても聞いてはくれなかった。
暗闇の中に閉じ込められて数日、私の元に息をしていない彼が届いた。
事故に見せかけてノックス家が殺したのだ。
「⋯⋯ぇ、⋯⋯うそ⋯⋯嘘よ、こんな⋯⋯っ」
耳をつんざく悲鳴は私の声だった。
冷たい体を掻き抱いて、彼の胸に耳を押し付ける。枯れたはずの涙が溢れて彼の服に染みを作った。
「嘘、嘘よ⋯⋯こんなこと」
あっていい筈がない。シミオンには何の罪も無いではないか。
私を唯一愛してくれたひと。
身分違いの恋が罪なのか?
家族に背いたことが罪のなのか?
神がもし存在するのならこんな現実を許す筈がない。
「悪魔でも何でも良い⋯⋯っ、どうか彼を生き返らせて⋯⋯!」
「無理だよ。死んだ直後ならともかく、時間が経ちすぎた。残念だけど、諦めるしかない」
澄んだ声。突然私の前に現れたそれはシミオンを横目に見てそう言った。
「誰⋯⋯?」
「誰って⋯⋯今、君が、呼んだんじゃないか」
人間はこんなに短期間で忘れる生き物じゃないよなぁ、などと呟く姿は聖書の悪魔とは違い、角も蜥蜴のような尾も裂けた口も無かった。目の前にいるのは純白の髪に褐色の肌を持つ美しい青年だ。
「悪魔⋯⋯本当に?」
「だーかーら本物だって」
「悪魔でも、生き返らせることはできないのね」
ぎゅう、とシミオンを抱きしめる腕の力を強めた。
意識がなくなった人間の体は重たくて、腕が痺れてくる。シミオンの死を実感して、また涙が溢れた。
悪魔が私の様子を興味深そうに覗き込む。
真っ赤な瞳が私の心の奥を見透かしているようだ。
「もう一つの望みは叶えてあげられる。叶えて、あげようか?」
悪魔の声に涙に濡れた顔を上げた。
「僕と契約してその身を堕とすなら、ね」
「⋯⋯もう一つの望み?」
「とぼけるのは無しだよ。自分でわかってるだろう? 自分の家族⋯⋯ノックス家っていうんだ。殺したいほど憎んでるって」
悪魔が心を読んで、私の代わりに言葉にした。言葉にしてしまえば簡単だった。
シミオンを殺して、死体を嘲笑った家族を、許すことなどできる筈なかった。
そうして私は悪魔と契約したのだ。
普段なら殺そうと向かっていった所で、ノックス家の騎士に取り押さえられるだけだったが、悪魔が力を使えば簡単に両親は息絶えた。
「こんなに簡単に死なせて良かったのか? 対して苦しむ間も無かっただろ」
「これで良いのよ」
私を育てた家族に対する最後の慈悲だったのかもしれない。
「ふーん。ま、僕にとっては何でも良いけど。さ、今度は君の番だ」
一瞬、体が引き攣れるように痛んで、黒かった髪が真っ白に染まった。
体はじんじんと熱を持つように熱い。
「これで君も悪魔の仲間入りだね。今から君は老いることも、死ぬことも無い」
「え⋯⋯」
「家族を殺して、自分も死ぬつもりだった? 彼が死んだ世界に一人生きるなんて苦しいもんね?」
私の心を読んだ悪魔が、私を追い詰めていく。じりじりと逃げ場の無い場所で炙られている心地だった。
「願いの対価だよ。生き続けることは君が最も恐れていることだろう? 君の苦しみが僕の報酬だ。とはいえ、これだけの望みのためにいつまでも縛るのは等価ではないな。⋯⋯君にとって1番難しい──君が心から誰かを愛し、愛されれば呪いは解けるよ」
「──⋯⋯っ」
跳ねるように飛び起きれば、窓の外の空は暗く雨が降っていた。耳を澄ませても雨の落ちる音しか聞こえない。起床時間を迎え屋敷の使用人達が動けば、その音が聞こえて来るから、朝ではないようだ。
悪魔の声が頭に残っている気がして、額を撫でれば汗が滲んでいた。
背中も濡れていて気持ち悪い。
着替えをしようと立ち上がる。
そのまま窓に近づいたが、騎士の訓練場の様子は窺えなかった。
「⋯⋯」
想いは毒だ。
ルークからの感情も。
シミオンが死んでから約百年。いつだって周りの人は私が悪魔だと知れば離れていった。
愛をくれるかもしれないなんて、思ってはいけない。
私は昨夜の口付けをできるだけ早く記憶から消そうと、ベッドに座ったまま一度、瞼を固く瞑った。