12 身分違いの恋
次の日は昼食の時間の前から、私は着替えをさせられて、薄く化粧を施され、緩く髪を結われた。
薄橙色の花弁が重なったようなドレスを持ってこられて思わず拒否してしまった私は、他に口出しするのも世話を受けている身で失礼だと思い控えていた。
そうして出来上がったのは落ち着いた紫色のドレスを纏った淑女だ。
鏡に全身を写した姿を見て私は、髪が黒かったなら貴族令嬢だった時と全く変わらないだろうと頭の隅で思う。
支度ができたのなら、もう部屋を出なければならない時間だ。
「リディア嬢! ドレスが素敵ね! 似合っているわ」
ルークとセラフィーナは先に着いていたらしく、扉を開けると席についた二人と側に控えるヴィダルが見えた。セラフィーナは私の姿を見つめてすぐに花が咲くような笑顔を浮かべる。セラフィーナの言葉が本心であることは舌に感じる味からも知ることができた。
ルークの方は私を見て、ぼうっと視線を止めると、はっと我に返ったように目を逸らす。
「ありがとうございます。お招き頂いたのに遅くなってしまったようで申し訳ありません」
「良いのよ。私たちが早く来すぎてしまっただけだから」
ね? と仲良さげにセラフィーナがルークに目配せをするとぎゅっと胸が絞られた心地になる。
重症だな、と自分で自分に呆れながら私は席に着いた。
領主の息子と、娘と、身分の無い私。明らかにおかしい組み合わせだが、セラフィーナは何も気にしていないようだ。
話上手な彼女はくるくると表情を変えながらよく喋った。
「ルーク様は剣術が得意なのですよね? 剣の腕前は南部でも有名で、領地民皆憧れています。本当に素敵ですわ。リディア嬢は? ルーク様の剣の腕を知っていて?」
セラフィーナの言葉に蔑むような色はない。ただ純粋な疑問、という風だった。
「いいえ。直接見たことはありません。屋敷の中で噂に聞く程度ですわ」
「それは勿体ないわ! ぜひ、見ると良いと思うの」
「⋯⋯ああ。リディア、訓練場でも見に来れば良い」
柔らかい声色でルークが言うと、セラフィーナは大きい目をさらに大きくしてルークのことを穴が空きそうなほど見つめた。
ルークはセラフィーナの視線を避けるように、気まずげに顔を背ける。
「ルーク様」
「⋯⋯何でしょう」
「私のこともセラフィーナ、と」
「セラフィーナ嬢、それは」
「セラフィーナ」
「⋯⋯セラフィーナ嬢」
「頑なですわね。やっぱりリディア嬢だけ特別なんですのね」
特別だなんて、そんなことはないと思うけど。
ふぅ、とセラフィーナはため息を吐いて、視線の先を私に変えた。きらきらした目で見つめられて私も目を逸らしたくなる。ルークもこんな気持ちだったのだろうか。
「リディア嬢、セラフィーナと呼んで欲しいの。あなたのこともリディアと呼んでも構わないかしら?」
「私のことはもちろん。ですが、セラフィーナ様を呼び捨てには⋯⋯」
「私が気にしてないなら良いのよ。ヴィダルだって私のこと呼び捨てなのよ?」
指を差されたヴィダルはいつもと変わらない無表情。
セラフィーナがヴィダルに視線を送った時、私は彼女の瞳の中に隠した恋情が揺らめいた気がして慌てて目を伏せた。
きっとセラフィーナはヴィダルのことが好きだ。そして、ヴィダルも。無表情の下でセラフィーナに想いを寄せている。
互いに気持ちを知った上で、気づかない振りをしているのだ。
「ね? リディア」
「は⋯⋯い」
美しく、快活で己の立場をよく分かっている。セラフィーナがルークと結婚したならば、ヴィダルへの気持ちを心の奥底へと押しやり、彼女はフィリトン領に尽くすのだろう。
聞けば、この縁談はセラフィーナの方から是非にと望んでいるらしい。
ルークにはセラフィーナのような人が相応しい、とぼんやり考えた。
「ふふ、控えめな人ね」
領主の娘と一般市民では普通の対応だと思うのだが。リディアの返事を聞いたセラフィーナは口を押さえてくすくすと笑った。
控えめか? と口に出すルークに私は余分なことを言わないように、と視線を鋭くする。さらに、ルークの皿を見れば野菜には一切手を付けていない。彼はいつも美味しいものは先に食べる性格だった。
「ルーク様の前では違うんですの? 何だ、リディアもルーク様が──」
駄目。
ガチャン、と大きな音を立てて私はフォークを皿に落としてしまった。
「失礼しました⋯⋯」
謝罪を口にしながらも、頭はセラフィーナの言葉でいっぱいだった。決して、その後の言葉を言わせてはいけない。
しかし、空気が変わってしまった。
ほのぼのとした空気から一転、呼吸でさえも感じてしまうような静けさ。
ルークが静かに、しかしはっきり口を開いた。
「⋯⋯セラフィーナ嬢。この場を借りて返事をしたいと思う。あなたからの縁談は魅力的なものだったが、応じることができなさそうだ」
「⋯⋯何故です?」
私は息を止める。
「好きな女がいるんだ」
好きな女。ルークの視線で相手は明らかだった。とろりと蜂蜜のような甘さが舌に残る。私は体を強張らせたまま動くことができなかった。
「私はあなたに好きな人がいようと、私を愛さなくても構わないわ。結婚した後も、表だけの妻としてくれても良いの」
「グリンハルシュの姫をそんな立場に置くことはできない。⋯⋯何より、リディアを陰の妻に置きたく無い」
そう、と。セラフィーナが呟いた声が静まり返った部屋に響いた。
ルークが私を好いている。
私が感じたのは互いに想っていたことに気づいた喜びでは無く、焦りだった。
「いけません。次期領主様はセラフィーナ様と結ばれるべきです。私とあなたでは⋯⋯あまりに違う」
「身分のことを言っているのか? そんなものいくらでも乗り越えられる」
私もかつて、そう思っていた。でも違うのだ。身分違いの恋は苦しみの中終わった。
「リディア⋯⋯お前も俺を好いているだろう?」
弾かれたように顔を上げる。じっと私を見つめる顔、顔、顔。この場に立っていることすら堪らなくなって、私は部屋を飛び出した。
いきなり部屋を飛び出すなど失礼だという思いが頭の隅によぎるが戻るつもりは無い。
私はドレスの裾を踏まないように走るが、細い足では少しの距離も稼げなかった。
ぐっ、と後ろに引っ張られて硬い腕に抱きしめられる。
「待て⋯⋯! 話をしよう」
「⋯⋯早く屋敷を離れていれば良かったわ」
そうしたら、この思いも自覚することはなかっただろう。ルークの胸に顔を押し付けられたまま震える。
「何故、セラフィーナ様との縁談を断るの。フィリトン領のためには彼女が必要よ」
「さっきも言っただろう。お前以外考えられないんだ」
苛々する。昔の自分を、愛に溺れた愚かな私を、見ているようで。
「グリンハルシュとの縁が必ず必要な程、フィリトンは弱くない。お前が誰だろうと、俺が決めた人なら皆祝福する」
身分が無いだけじゃ無い。私が人間じゃ無くても?
「でも──っん」
尚も言い募ろうとした口をルークの唇が塞いでいた。
突然の口付けに全部の思考が頭から消えた。抵抗しようと思えばできるのに、私の体は動かない。
「否定の言葉は聞きたく無い。それとも俺のことが嫌いか?」
確信を持って聞いてくる。
ルークはとても勘が良い。私のルークへの想いなど瞳を合わせただけで知られているようだった。
二度、三度、四度の口付け。
私の心の堅固な錠を溶かしていく。
「っは」
止めていた息を、唇が離れた一瞬で吸って、また柔らかく合わさる。
糸が切れたような私の体はルークに支えられなければ立っていることもできなかった。
「リディア。好きだ。俺の想いを受け取って欲しい。お前からの答えはまだ求めないから」
甘い甘い味に、ほんの少しの酒の香り。
ルークの瞳は傷つくことを恐れるような色はで私をじっと見つめていた。
ぐらりと体の中心を殴られたように心が揺さぶられる。
ルークは私が欲してやまなかった愛をくれるかもしれない。
同時に私の本質を知ったら離れていくだろうとも思った。
それでも良い、という思いが過った。
悪魔だと彼に知れるまで。長い長い人生の中、一時でも愛されていたと思えるなら。
私はルークの腕の中で頷いていた。