10 自覚
涼しい季節に移り変わり、暑い気配は完全に過ぎ去ったように感じる。
グリンハルシュの姫が屋敷に来た次の日、私は何となく気になって部屋の窓を開けると庭園を見下ろす。
昨日は庭園の隅にある机でお茶を飲みながら顔を合わせたらしい。ちらりと視線で確認するが、今は人の姿は無かった。
一つ、大きな風が入り込んできて髪を揺らす。
「あ」
ぼんやりしていたからだろうか。私が持っていた紙は手から離れ、風に乗って階下に落ちて行った。
自分用の覚書で他人に見られて困る書類ではないことにだけ安心するが、早く取りに行った方が良い。私は急いで部屋から出ると、庭園の方へ向かった。
「⋯⋯あら」
そこで美しい金髪を持つ女性と出会ってしまったのは偶然だろうか。
金髪の女性は丸い大きな目を瞬かせて、私を見つめた。上物の布を使用した服、艶のある整えられた髪、明らかに貴族と分かる容姿をしたこの女性はグリンハルシュ領から来たという姫だろう。
じっと見つめられているが、舌に感じるのは酸味とほんの少しの甘み、驚きと興味か。
きっと私がどんな立場にいるのかは気づいていない。
「落としたのはこれか」
「は、い。⋯⋯ありがとうございます」
突然隣に大きな人影ができて、低い声と共に私の覚書が差し出された。
鍛えられた体を持つ男から紙を受け取る。
褐色の肌。
珍しい肌の色に私は内心とても驚いていた。ラティマ王国で見ることは無い肌の色。私の白色の髪と同じく、クィルハ教を信仰する多くの人にとって嫌悪の対象の色だった。
「初めまして。今会えたのも何かの縁ね」
金髪の彼女が近づいてくる。
「セラフィーナ•グリンハルシュよ。昨日からここにお世話になっているの。彼は護衛のヴィダル」
よろしくね、と微笑む彼女に私は何か後ろめたいような嫌な汗が背中を流れるのを感じた。
「お会いできて光栄です。リディアと申します。⋯⋯訳あって少しの間だけこの屋敷に滞在させていただいております」
「知ってるわ」
セラフィーナの言葉は意外なものだった。
「ルーク様が連れて来た女性でしょう? 恋人、なのかしら」
「え? いえ、決してそんな関係では⋯⋯!」
「そうなの? 恋人だったら、今後も宜しくと挨拶する所なのだけれど」
焦りが表情に現れているだろう私と違ってセラフィーナの声は全く動じた様子が無い。
舌に感じる味からしても私に全く怒りや敵意といったものを感じていないようだった。
「聞いたかもしれないけど、ルーク様に縁談の話を持って来たのよ。あなたが恋人なら上手く良い関係を築いていきたいと思っていたの。私を恋敵と思って嘘をつく必要は無いわ。本当に違うの?」
「恋人なんかじゃ、ありませんわ」
「そう」
そう、と言う言葉に特別含ませた意味は無いようで、この話はこれで終わるかのように思われた。
私が疑問を口にしなければ終わっていただろう。
「彼を好いているのでは無いのですか?」
「私は領主の娘なのよ。恋とか愛とかで結婚する訳じゃないわ。もちろん、夫となる人を愛したり、家の利になる人に偶然恋をすることもあるだろうけど」
私はセラフィーナの言葉にどくんと心臓を掴まれたような心地になった。
政略結婚しか知らない訳でなく、彼女の瞳の中にほんの僅かな葛藤を見つけてしまったからなおのこと。
ぐらぐらと足元が揺れるようだ。
私がリディア•ノックスだった頃、シミオンと恋に落ちたことを知らず、咎められているように感じた。
「顔色が悪いわね⋯⋯大丈夫?」
「大丈夫、です」
苦味を感じながら、セラフィーナが手を伸ばすのが見える。それを、今までずっと黙っていたヴィダルが押し留めて私の腕を掴み支える。
「⋯⋯自分で立てるか」
「はい」
「休んだ方が良いみたいね、引き止めていてごめんなさい」
「いえ、そんな」
「しばらく私はここに滞在させてもらうからまた会いましょう」
私はその言葉に曖昧に頷いて部屋に戻った。
『グリンハルシュ領の穀物とフィリトン領の織物の、どちらも互いに欲しい筈よ。この縁談は私とあなた、どちらの領地にも利になります。踏まえた上で縁談を一考なさっていただきたいわ』
南部グリンハルシュ領の姫は名乗って一番ルークにそう言ってきた。ルークが明確な返事を返すまではセラフィーナはこの屋敷に留まるらしい。
領主である父はこの縁談に関して、決定権はルークに委ねるが断るには理由が必要だと言って来ている。セラフィーナに断りの文句を言う前に父を納得させなければならない。
「⋯⋯セラフィーナ嬢との縁談は断る」
「早っ、初めて会ってから三日、ルークが避けているせいでほとんどあっていないですし、彼女のことをよく知らないで断れるとお思いですか」
二人きりの執務室でルークがぽつりと口にした言葉にロイは素早く反応した。
「せめてセラフィーナ嬢から誘われたら茶会くらいは行って欲しいですよ。彼女のどこが不満で破談にしたいんです?」
「⋯⋯」
ルークは言葉に詰まって閉口した。セラフィーナの何が不満という訳ではない。しかし、ルークが未来を思い描くときにセラフィーナが自分の横にいるのは全く想像できなかった。代わりに思い出すのは一瞬だけ触れたリディアの唇だ。
同時に、最近の彼女のよそよそしい態度が気にかかる。まるで初めて会った頃のようだ。最近の彼女はルークの前でもよく笑うようになっていたのに。
ルークは服の上から胸を押さえて首を傾げる。
リディアのことは最初から特別に感じていた。見たことのない純白の長い髪をした女。ルークに対して遜るでもなく堂々としていて、でも明日には儚く散ってしまいそうなアンバランスさが目を惹く。二人で時間を過ごせば心地良くて、他の女には口付けや抱きしめたいと思わない。求めているのはリディアだけだった。
これは──恋か。
自覚した瞬間、息がすう、と体を通っていくようにすっきりした。
「はは、何だ。単純な話だ」
「百面相ですか」
ロイがルークを不審なものを見るかのような視線で見ている。
ルークはそれに気づかず口元に笑みを作ると、清々しく過ごしやすいだろう外を窓越しに見た。今日の天気と同じく心の中は晴れている。そう思った気分は一瞬にして崩れた。
ルークの視線の先には、セラフィーナに付いて来た護衛──ヴィダルとリディアが庭園の隅に二人で話す様子が見えた。
「あの男⋯⋯」
眉を顰めて執務室を飛び出す。後ろに聞こえたロイの困惑の声など聞いてられなかった。