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秘密の人

作者: ひな

 空の青がだんだん淡くなっていくと思ったら、桃色が混ざり、あたりが急に暗く涼しくなる。

 いつもは意識しないうちに暮れてしまっている日が、数分単位でこんなにも早く変化するものかと驚く。五時ごろまでいた子ども達の姿はもう消えていた。家から最寄りの公園。近所の人に怪しまれる、と思いながら正直もうそんなことを含めて思考する余地が頭に残されていなかった。

初めて座ったベンチとそこに据えている自分がすっかり同じ温度になっていた。そこからはがすと血が流れそうなほど一体になってしまったかのようだ。

そろそろ帰らなければ、という気持ちが体を引き上げようとすると同時に家で待っている顔が浮かび上がる。目が腫れていることを自覚している。心配をかけやしないか、良い言い訳があがるだろうか、という懸念と裏腹に、料理への恋しさが募り、温度の違うものを中でかき混ぜているように胃がぐるぐるとする。

家の温かさが恋しい。明日の仕事も頭にある。繁忙期というわけではないが、止まり木で休む時間はいくらあっても足りない。そうして頭に様々な理由を並べたててようやく立ち上がることができた。

 義母に呼ばれたのは、九月が終わってすぐの週末。新卒から営業をしている酒の卸売メーカーに四年ほど勤めて、このたび、少し大きな昇格が決まり、銀行の仕事をしている妻も、忙しいだろうに、刺身やら日本酒やらいつもより少し豪華な料理で祝ってくれた、その翌日だった。

「話があるんよ。結構大事な、ね」

帰ってから掛け直した電話で、意味深にそういった義母は、仲の良い娘と代わることなく電話を切った。台所から「なんだったー?」と中華鍋を振りながら野菜が焼ける音に負けないように妻が声を張った。

「あの子には言わんで、あんただけきんさい」

決して嘘が得意ではない私は妻の声が聞こえなかったふりをして、トイレに行って言い訳を考えることになった。

妻とではなく、私だけが義母に呼ばれた。なぜ。自分が最近やったことを全て思い返す。妻との喧嘩、こまごまとしたごまかしや嘘はあるが、告げ口されて呼び立てられるほどの

ものではないはずだ。そんなことは生きて、誰かと暮らしていれば自然と必要になるようなものであるはずだし、これまでの付き合いから、義母がそのような人間の性質に精通していて、寛容で分別のあることを知っていたし、その点で誰よりも義母を信頼していた。  

だとすれば、と自分が義母から、そして妻から疑われそうなことを想像した。しかし、

なんであれ実の伴っていないことは具体的に想像しづらく、ワイドナショーや俗なドラマの内容を無理やりパーツ分けして現実に構成し直してみても、壊れかけたおもちゃのように稚拙なものが頭の中でぎこちなくぎしぎしと身をゆするだけだった。義母がそんなことを真面目に話すことは到底想像が出来ない。

「しかし不運が巻き起こす誤解というのは、突然やってきたと思ったら気づくと何もかも連れ去っていっちゃう天災のようなものだから」

いつかのドラマできいたセリフを思い出しながら、気を引き締めて、今度はやってもいないことに対する弁解を頭の中で組み立てながら祖母の家を訪れた。

「こんにちは」

和風の小さな平屋の玄関で迎えてくれた義母が、いつもと変わらなかったことにとりあえずは安堵した。義母の顔と物腰にはいつも通りの分別をわきまえた賢さと、あたたかな親しみがあった。

「ごめんなさいね、無理を言って」

「いえ、そんな」

反射的に応える。少し忙しい時期だった。だが義母からの頼みなど何度もあるわけではないし、普段の勤務態度を鑑みれば、ときたま早退を申し出る事なんてわけない。一度安心すると、もういつもの調子に戻る。いつも義母の家に寄った時と同じようにリビングのデスクに座ると、昇進の報告をした。聞いたよ、おめでとう、頑張ってたのはきいてたけんね、評価されて良かった。

相槌を打ちながら出されたクッキーと紅茶を飲んだ。うちでは普段食べない。決して我慢しているわけではないが、ときたまこのように義母の家で出されるものを食べると、会話の中での甘いものは決して不用品ではないと実感する。

一通り近況報告とそれに関わるこまごまとした世間話が終わると、ふと、沈黙が出来た。何か気に障るようなことを言ってしまっただろうか、とあれこれ言葉をかけてみるが、反応が芳しくない。しばらくしてやっと、義母が何かを言おうとしてためらっているのだと気づいた。

「話って、何でしょうか」

情けない声になってしまう。すっかり安心しきっていたが、義母は、私がしてしまったと思っていることについて問いただしたくて、でも本当は信じたくなくていつ切り出すか迷っていたのではないだろうか。

能天気に笑っていた自分が恥ずかしい。何を疑われていても、万が一自分が実際にしてしまったことだったとしても、説明しようと心を決めた。自分のためではなく、義母の不安を取り除くために。

 だが義母の話は、私のことではなかった。妻のことだった。妻の過去の話。それは私の全く知らないことだった。妻が高校時代に遭遇した悲劇の話だった。

「旦那と離れて、生活と将来のことで精一杯で、あの子の心配がおろそかになって…」

そのことを今でも、恐らくこれからも、後悔している、と俯く義母に対して、「いや」首を振って、それ以上何も言えなかった。義父には会ったことがない。義父がいなくなったのは義母たちが今の私たちよりも五歳ほど年をとった時のことだ。

義母が話し終えたとき、私はじっと考えた。やたら口の中が乾いた。思えば大学でも他の人には全く心を許しているようには見えなかった。学科の飲み会にはほとんど顔を出さず、たまに公式行事のように開かれるものがあったとしても、友人の愚痴に相槌を打っているだけ。確かに、学科の半分は男だ。遠目から見ていても楽しそうに見えなかった。うちの大学は高校まで勉強を頑張ってきた真面目な学生が多い。その典型だろうと勝手に判断していたが、なんでもっと考えなかったのだろう。

「夜勤だった。ただそれだけのことだ。働くのはあの子のためだ。いつものことだった。でも帰ったらあの子はいなかった。もう大きいんだし自由にさせればいいなんて、どんなに身勝手な、軽率な考えだったんだろうね」

続いた沈黙に溶かすように、義母は言った。それは問いかけではなかった。慰めを求めるような共感に飢えたつぶやきでもなかった。ただ義母の心そのものだった。私を外部者ではなく、協働する仲間として見なし、まるで一緒にしている何かの中で、ミスをしてしまい、それを私に尻ぬぐいさせることを詫びているかのように見えた。私も手伝わせてほしいと思った。涙が流れそうで、ただそうすれば義母の不安をあおって期待を裏切ることになってしまいそうで、何とかとどまらせてしっかりと義母の目を見た。義母はもう顔を挙げて正面の私を見ていた。私の中にある何かを見つめているように思えた。試されているように思えて喉が狭まったのを感じた。じっと見つめ返すと、義母は、ふ、と表情を緩めて

「ああよかった。大丈夫そうだ。今のことだけじゃない。あんたがいてくれて、あの子の心を開いてくれて、本当によかった」

その言葉は、妻の姿を思い浮かばせ、私の今までの人生を振り返らせた。勉強や仕事。様々な形で評価はされてきたが、初めて、私が本当に大事にしていることを見抜いて、それを共有して、その根本の人間性含めて丸ごと肯定してくれるような、そんな声を聴いて、私は、ああもう大丈夫だ、と思った。目の前に自分の人生における居場所が突然現れたような気がした。今までただ漂うだけで、本当はどこにも私の居場所なんてなかった。これで大丈夫。ああ、よかった。幸せだ。本気でそう思った。

 本気でそう思ったのだ。しかし、家の前まで来るとその気持ちは傍において、妻の姿を見ることに緊張を覚えていた。義母に言われるまでもなく、このことを私が知っていることは隠しておこうと思った。知られてうれしい話ではないだろうし、あまりいいことも思い浮かばない。ただ自分が隠しきれるかどうかは心配だった。いつもと変わらずにいようと思っていたのに、気づいたら帰り道にある酒屋によって少しいいワインを買ってきてしまった。ただ、隣にあった花屋に入らなかっただけましだ。

アパートのドアを一つ息をついて、開けた。妻はワインをみて「今日なんかあったっけ」と不思議がったものの、喜んだ。

「もうできちゃうからね、準備しといて」

ランチョンマットと箸置きを並べながら普段と変わらずキッチンで忙しそうに作業する妻を見る。労働時間はほとんど同じにもかかわらず家事にも手を抜かない。忙しい時期でも弱音もほとんど吐いたところを見たことがない。常に前向きで真面目。そんなところに惹かれて付き合った。

そのひたむきさの裏にはあんな過去と、それを真正面から受け止められない時代が。そう思うと妻の姿が誇らしく、一層愛おしかった。何度も頭の中で繰り返した義母の言葉が再び頭の中に蘇り、自分が奮い立たせられるような気がした。

 そんな私の気持ちを知らない妻はてきぱきと支度をして、気づいたらテーブルにその日の料理が並んだ。目の前にいる妻も含めて、なんだか全部が奇跡のように感じて噛みしめるように口に運んだ。小鉢を食べながらふと、気が付いた。

「かにかまじゃないね。これ魚?」

「鮭とばって言うの。北海道のおつまみなんだけど料理にも使えるの」

妻は私が気づいたことが嬉しいようだった。

「へえ、お土産?」

妻は地域的なものや変わり種のようなものをあまり好まない。自分で買ったのではないのだろうと思いながら尋ねると、なぜか照れて

「今日北海道物産展やってたところで見つけちゃって懐かしくって」

「懐かしい?」

当然妻の出身は北海道ではない。首をかしげて見ると、妻は少し照れながら、実は一年の時に付き合ってた人が北海道出身でね、と話し始めた。普段私たちは酒を飲まない。妻はアルコールが入ると陽気で饒舌になるクチだ。

本当に誰にも言ってないんだけど、ほら、あの髪がくるくるしてる一つ上の先輩がいたでしょう。私と同じくらいの背の。あの人と、本当に数か月だけ。あの人すごく騒がしかったけど、本当に奥手で。大学生なのに手つないだだけで終わっちゃった。笑っちゃう。懐かしいね。ね、あなたは。誰かいないの、実は付き合ってた子とか、そんな話全然したことなかった。



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