第九十九話「頑張ってね」
吐き出す息は白く、指先は真っ赤になる程冷たい。
冬の空気は市街地の中心部にいても澄んだように感じ、刺すような冷たさが息を吸い込んだ肺いっぱいに広がった。
小刻みに震える体は、けれど寒さによるものではない。
繁華街の中心部に聳える、平たい建物の上には蛍光色の看板が掲げられており、『ZET CITY』という文字が示されている。今はまだ日の明るい昼間なので点灯していないが、夜になるとネオンの煌々とした明かりが点く。
収容人数1,000人規模のこのライブハウスは、誰もが名を知るようなメジャーバンドがライブを開催するような箱だ。
俺が人生で初めて、ロックバンドの演奏を生で見た場所もここである。
俺の音楽的原点と言える場所に、再び足を踏み入れる。
以前はただのお客さんだったが、今日は違う。
背中にベースを背負ってくぐる扉は、まるで新たな世界への旅立ちのような気がした。
開場までは今から3時間程がある。この場に訪れているのは主に出演者などの関係者ばかりだ。
その誰もが楽器を携えていたり、はたまた音楽業界関係者の大人が行き交っている。
今日、十二月某日。
ネクスト・サンライズの二次審査が行われる。
二次審査では、実際にお客さんを会場に呼びライブパフォーマンスでの審査となる。
音楽雑誌編集長、RISE ALIVE主催者代表、地元ラジオ曲のパーソナリティ、そして現役ミュージシャンの四名。それから会場でのアプリによる投票により、それぞれ十点満点で評価し、最大五十点満点で評価される。
二次審査に選ばれたバンドは全十五組。
そのうち、最終審査であるRISE ALIVEのステージに立てるのは上位三組となる。
ここが最大の難関、俺たちの勝負となる事は明らかだった。
*
俺は関係者入り口から入り、中に居た顔見知りの大人を見つけ、わずかに安堵する。
「おはようございます。参加者の控室はこちらですよ」
イベント主催会社の社員である早崎さんは、俺の顔を見つけると手招きして呼んでくれた。
出演者用の楽屋やら、機材置き場のような雑多で薄暗い廊下を抜けた先の、ちょうど学校の教室と同じくらいの広さの部屋に通された。
蛍光灯の無機質な灯りが照らす、会議室のようなこの一室には俺の他にも参加者が数名待機していた。
「リハーサルの時間になったら、順番にお呼びしますのでそれまで待機していてくださいね」
俺のような出演者の緊張の面持ちとは対照的に、早崎さんは能天気に言うと、再び廊下へ戻っていく。
俺は、なんとなく心許ない思いで周囲を見まわした。
「やあ……君はもしや、いや、というか必然だよね」
俺の背後から、ねっとりとした声をかけられた。
若干振り向きたくなかったが、流石に無視するわけにもいかない。
「おう、君は確か、成田くんだよね」
「そうだね。僕の名前は確かに成田だ」
まどろっこしい口調で名乗るのは、以前ラジオ局でインタビューを受ける際にニアミスした、別の参加者バンドのメンバー、成田ゆとりだった。
相変わらず黒いパーカーにもじゃもじゃの黒髪だった。
「今日はお互い、全力を尽くそうな」
俺は当たり障りのないことを言って、その場を逃げようとしたが、彼はまだ話があるようだった。
「君は知っているかい? 今日の審査員の中で、宿命といえる運命の輪の中心にいる人物……天啓の鍵を握る人物の名を」
「ええと、今なんて?」
「君は知らなくても無理はないよ……でもね、事実は変えることはできない、全ては無に帰するんだ」
いい加減めんどくさくなったので逃げようかと視線を巡らせるが、不幸にも知り合いの姿は見当たらない。まだランボーもスパコンも会場入りしていないようだ。こんな事ならどっかで待ち合わせしておくべきだった。
その時、控室に新たに人が入ってくるのが見えた。
助けを求めるようにそちらをみるが、その人物の顔を見て俺は絶望しかける。
瀬戸悠士は、以前と同じく感情のない冷めた目線で、俺の顔を一瞥した。
「あ、Noke monauralのべーシストの……」
「お、おう。朽林っていうんだけど」
まさか、バンド名とパートで認識されているとは思わなかった。
こいつどこまで音楽主体で物事を考えているんだ。
「おや、君はもしや……というか必然だよね」
成田ゆとりが俺たちの様子を見て、話に加わる。俺は早くも別の意味で帰りたくなっていた。
「ああ、審査員のことか」
ひとしきり、成田と瀬戸が自己紹介をして、先ほど俺に言いかけた話を成田が始めると、瀬戸がそう言った。
「審査員のうち、雑誌編集長とRISE ALIVE主催者は以前から公表されていた。そして、今回明かされたのは、ラジオDJ・カズと、現役ミュージシャン」
瀬戸は事前に情報を入れていたらしく、成田の話を受け淡々と語る。
「REXのべーシスト、KENYAだ」
俺はその言葉を聞き、ドクンと心臓が揺れるのを感じた。
REX。それはまさしく俺が生まれて初めてロックバンドのライブを見たアーティストであり、KENYAは俺がべースを手にするきっかけになった人物だ。
近年では、あまり表舞台には立っていないので、こうしたイベントで名前を聞くのは意外だった。
「RISE ALIVEの初期、立ち上げ当初はまだ集客が見込めるフェスじゃなかった。その頃からREXはよく出場していた。縁のあるミュージシャンとして呼ばれたんだろう」
瀬戸はそう言うと、スタンバイを始めるために手頃な椅子に座りベースを取り出した。
成田はその傍に立ち、何やら話を続けている。
俺は2人からそっと離れ、いったん外出することにした。
この場所で、REXのKENYAの前でライブをする。
俺にとって、また別の意味で失敗できない演奏になりそうだ。
*
会場の外には喫煙スペースもあり、複数の人が行き交っていた。
寒さに身を縮ませながらも、耐えられない程ではない。
俺も決して喫煙はしないが、そこに距離を置きながらも混ざっていると、スパコンとランボーも会場に姿を現した。
それぞれ機材を置くため、控え室へ向かうのを見送る。
そろそろ戻っても成田ゆとりに絡まれなくて済むかしらと思っていると、サラが川上理科と連れ立ってやってきた。
「いよいよね。緊張してる?」
「まあ、さすがにな」
サラは普段通りの世間話のような口調で言う。
そう言われると、なんだか俺も落ち着きを取り戻すから不思議だ。
「あの、蘭越君はちゃんと来てますよね……?」
川上理科は、心底心配そうに尋ねてくる。
「ああ、さっき会ったからそれも大丈夫だ。いまからどこかへ暴走しない限りはな」
「そっか……安心しました。あの、今日は頑張ってくださいね」
「おう、まだリハまで時間があるから、メッセでも送って中に行けばランボーにも会えるはずだぞ」
そういうと、少し照れくさそうにはにかみながら、川上理科は会場の中へ向かった。
「……それで、結局あの子たちの方もなんとかなったのよね」
サラは俺の隣に並んで立ち、腕を組みながら言う。
サラの言うあの子たち、とは紛れもなくアリサたちのことだろう。
「そうだな。アリサも戻ってきて、今日の審査にはちゃんと出場するはずだ。まあ、一番の問題はこれからだろうけどな」
アリサにまつわる炎上騒ぎは、勢いは落ちたとは言え消えてなくなったわけでは無い。
むしろ、これから先の方が厄介かもしれない。何か事があるたびに、蒸し返されネチネチとケチをつけられる事だろう。
この審査の結果にも、少なからず影響もあるはずだ。
「そう。まあ、クチナシが付いていたならそっちの心配はしてなかったけどね」
サラはそう言うと、それきり何も言わずに居た。
出場者以外は原則として客席側にしか入れないだろうから、俺が控室へ向かうのを待っているのだろうか。
そのまま、俺はなんとなく、会話も無くサラと並んで立ち続ける。
特に要件はないはずのだが、なぜか足を動かす気にならなかった。
寒さのせいか、サラはずっと腕を胸の前で組んだままだった。
「おはよう、朽林と神宮寺さん。早いね」
その時、噂をすればなんとやら、柊木を先頭に『Yellow Freesia』の三人組も会場に到着した。
柊木、多村に続き、視線を足先に落としたアリサの姿もちゃんとある。
俺は安堵の吐息を洩らすと、アリサはわずかに目線を上げて俺を見た気がした。
「柊木さんもお疲れ様。今日は頑張ってね」
「うん、ありがとう。とにかく悔いがないようにやるね」
サラと柊木は、最近は割と打ち解けているのか、お互い握り拳を顔の前にあげながら鼓舞していた。
「いやあ、こんな可愛いお嬢さんに応援されちゃ、お姉さんたちも頑張らないとね。クッチーたちよりもいい演奏しちゃったら私たちのファンになる? なんてね」
多村が戯けたように言うと、サラもそれに頷く。
「あはは、確かにそうですね。ファンになっちゃうかも。いい演奏期待しているわ」
多村とはそこまで接点がないので、やや外向けの顔をしているが、楽しそうに微笑している。
俺は女子たちの黄色い会話になんとなく疎外感を感じていると、アリサが俺の傍に歩み寄ってきた。
「セイジ……この前はありがと。……今日は全力で演奏するから」
ちゃんと見ていて。
そう続くような言葉を、けれど彼女は飲み込み、上目遣いで俺を見る。
「ああ。お互い、全力でぶつかろうぜ」
この言葉は心の奥底から、素直に出てきた。
アリサたちYellow Freesiaと同じステージで競い合えることを本当に楽しみに思う。
「私も、楽しみにしているわ。アリサさん」
その時、サラがアリサに向かってそう言った。
アリサはくるりと顔をサラに向け、うんと頷いた。
それから、一瞬の間があいた。
どちらかが何か次の言葉を言うのかと思ったところで、「さむー! ねえそろそろ中はいろうよ」と多村が言ったので、一同は動き出した。
俺もそれに従って会場へと入るのだった。
寒さをより一層身に染みて感じていると、客席側と出場者側への別れ道に差し掛かったところで、サラが耳元で囁いた。
「……まあ、クチナシも頑張ってね」
俺が返事をする前に、サラは少しくすみの混ざる金色の後ろ姿を残して立ち去った。
俺はそれを見送るしかできなかった。




