第九十八話「グルーヴしている瞬間」
結局、その日の俺たちは朝まで起きて過ごしていた。
アリサとは主に音楽の話題しか通じ合うものもなく、俺のロックスター偉人伝をはじめ音楽談義に尽くした。
日も登り始め、窓の外が白くなる頃、体力的にも限界が訪れたアリサは俺のベッドの中に沈むように眠った。
だが、そんな状況で呑気に眠れるほど、俺も図太い性格では無い。
何のきっかけで母にこの状況を見られれば、一切の言い訳ができない。
朝9時を過ぎたところで、母が起床したのか物音がする。
この時間に起きたのであれば、おそらく土曜日である今日も出勤するのだろう。
その場合は、俺の部屋を開ける事なく母は家を出るはずだ。
薄いベニヤの扉一枚を隔てて、俺はリビングの母の動向に全神経を集中させる。
「じゃ、いってくるからー」
やがて、返事がないと分かりきっていながらも、習慣となっている外出の挨拶を一言残し、母は出勤した。
そこでようやく、俺も安堵したのか睡魔に襲われる。
座布団を床に転がし、ベッドで寝息を立てるアリサを尻目に俺も毛布に包まり仮眠することにした。
土曜日であるため学校はないが、俺たちはバンドの練習のためにスタジオを確保している。昼過ぎには起きなければならない。
*
やかましい、通知音と振動が顔の前に鳴る。
誰だよこんな朝に、と思ってスマホを見ると、スパコンとランボーから鬼のように通知が入っていた。
「やべっ、寝坊した!?」
今はスタジオ入りの予約をしていた13時を10分ほど過ぎたところだ。
あの2人も練習ができず相当怒っている。
「あ、セイジおはよ」
俺が慌てて飛び起きて準備をしていると、すでに起床していたアリサがリビングから顔を出した。
彼女は相変わらず、俺の服を無断で使用している。俺の制服用のワイシャツにジャージの短パン、そして中学生の時に調理実習で使ったエプロンをどこからか引っ張り出して着けていた。
「すまん、今日は練習なんだ。もう出ないと行けない」
「そう、はい。じゃあこれ」
そう言って手渡したのは、2つのアルミホイルの塊だった。
ほんのり温かいソフトボール大のそれを受け取る。
「おう、これは?」
「おにぎり。アタシの朝ごはんを作るついでにね。あ、勝手に冷蔵庫開けちゃってゴメンね。でも味は保証するわ!」
「……ああ、ありがとな。母は多分夜中まで帰ってこないから、まあ適当にくつろいでくれ」
そういうと、俺はアリサ謹製のおにぎりを携え、ベースを片手に玄関へ向かった。
「セイジ、いってらっしゃい」
エプロン姿のアリサに見送られ、家を後にする。
全く、どっちが家主かわからねぇなこれ。
駅まで走る途中、アリサのおにぎりを食する。
不恰好なやつを期待していたのだが、海苔が巻かれた表面に塩気が効いたおにぎりの中身はなんと卵焼きであり、出汁が効いていてこれが思った以上に美味かった。
どこぞのバイトのまかないかなにかで身につけた料理スキルなのだろうが、彼女のこれまでの苦労の跡も感じ、より一層深い味わいだった。
*
スタジオ練習も、すでに佳境を迎えている。
次の土曜日に控えた本番に向け、練習は一切の猶予もない。
遅刻した俺に対し、2人はひとしきりブチギレた後、スタジオの時間が許すまで演奏に明け暮れた。
最近は、予約の空きさえあれば繁華街のスタジオ『マグヌス』に入っている。
練習が終わったあと、夕暮れの繁華街を並び歩きながらスパコンがスマホ片手におずおずと聞いてきた。
「なあ、結局優木氏は大丈夫なのか……? まだ見つかってないんだろ?」
「え、ああ、そうだな。昨日も柊木たちと探したんだが……」
「ったくよォ。ネットっつうのは陰で好き勝手言い過ぎだぜェ。オレが聞いてやるから正面から顔見て言ってこいよォ」
遅刻した事情として、昨晩の捜索についてそれとなく2人には説明し、同じように憤っていた。
「でもまあ、ネットの炎上は着火するのも早いが、白けるのもそれなりに早いもんだぜ。多分次のデカい話題があればそっちに移行するだろうが、ネガティブなレッテルはずっとついてまわるだろうな。RISE ALIVEの運営側に凸ってる奴もいるっぽいし、結構厄介なことになっちまったな……」
スパコンが言うように、騒ぎ自体はそれ以降進展は無い。
と言うのも、アリサの過去をいくら掘り下げたところで結局は過去でしかなく、現在進行形の彼女自身が周囲に対して反社会的な行為をしているわけでは無い以上、話題が続いていない。
そう言う意味でいえば、早々に身を隠したアリサの行動は最良だったのかもしれない。
その時、俺のスマホに通知が来た。
2人にバレないように確認すると、アリサからであり、とある場所に来てほしいと言う事だった。
俺は2人に、野暮用ができたことを伝え、一旦別れた。
*
アリサからのメッセージにかかれた場所。そこは俺にとっても馴染み深い場所だった。
繁華街を抜けた先、日中は散歩やボール遊びの学生などがいる場所、市内を流れる川辺の河川敷だ。
時に、俺はここでアキラさんと遭遇し、時にランボーと殴り合ったこともある。
そして、アリサはその河川敷の川縁を囲うコンクリートの段差に腰掛けると、相棒の真赤なギターを手にしていた。
俺もその横に並び、腰掛ける。
目だけで挨拶を交わし、そのまま無言で川を眺める。
「……昨日は、泊めてくれてありがと。でも、流石にずっとこのままってわけにもいかないし、今日はもう出て行くね」
アリサは、貸していた俺の衣類を昼間のうちに洗濯したそうで、昨日着ていた自前の格好に戻っていた。
「……別に、気にしなくてもいいが、まあいくらうちの母がずぼらとはいえ、見つかる可能性もあるしな」
俺はそんな受け答えしかできなかった。
そろそろ家に帰るべきと言うのが正しいのか、はたまたこのまま彼女の逃避行に付き合うべきか。
すぐに答えを出せない優柔不断な自分にはほとほと嫌気がさす。
12月の夕暮れは、時刻としてはお昼を過ぎたあたりからすでに日が傾き始め、あっという間に夜を迎える。
そのまま俺たちは、無言のまま川を眺める。
しばらくして、彼女はその寒風が吹くにもかかわらず、銀色の弦をそっと指で押さえ、音色を奏で、静かに歌う。
それは、他でもない『river side moon』だった。
「アリサ……」
「アタシね、この曲が好き。初めて聞いた時から、一瞬で心を奪われたのを覚えている」
そう語る眼差しは、流れゆく川の水を見ていた。
「この曲は、真っ暗な暗闇の中で、もがき苦しむ人にそっと灯りを灯してくれるの。太陽みたいにギラギラしてなくて、どこかへ導くような強い力でもない。月明かりのように、ぼんやりと足元を照らして、自分の歩幅で歩いていけるようにしてくれる」
そうだ。
その曲の歌詞を書いたとき、俺は今のアリサと同じような状況で苦しむサラのことを考えていた。
だが、今の彼女に必要なものは俺の歌ではない。
それはおそらく。
「アリサ! ……やっぱり、ここだよね」
俺たちの背後から聞こえた声は、焦燥と安堵が入り混じった、強い声をしていた。
振り向くと、柊木と多村が揃って歩み寄る。
「サキ、……カズキ」
驚くような声を漏らしたのはアリサだった。
「もう、めっちゃくちゃ心配したんだからね。ていうか、クッチーも一緒なら早く連絡してくれればいいじゃん」
「すまん」
責めるような視線で多村に睨まれ、俺は平謝りするしかなかった。
あくまでアリサの決断に従うとした以上、何も言い返す言葉がない。
「あのね、2人には申し訳ないんだけど……」
そんな中、アリサは詰まりながらも確かな口調で話を始める。
「ネクスト・サンライズ辞退する、なーんて言うつもりじゃ無いでしょうね」
その言葉を、多村はあっさりと遮った。
「アリサ、いい加減にしないと私たちも怒るよ。今日も練習できなかったんだから」
柊木もまた、彼女にとっては珍しく怒りを込めた口調で続く。
「で、でも、アタシ、二人には私と同じ目にあって欲しくない……私のせいで、2人が傷つくところなんて、見たくないよ……ごめんなさい」
サッと、視線を地面に落としたアリサに対して、柊木は、まるで聞き分けの悪い子供をあやすような、少しの笑みをこぼしながらいった。
「有紗。なんであやまるのさ」
その言葉を聞いた瞬間、赤い頭はその言葉をくれた方を見上げる。
「私とサキは、何があっても有紗の味方だよ。たとえ世界中の誰もが私たちを否定しても、私は有紗を絶対に否定しない」
見上げたアリサと、柊木の視線が交差する。
柊木の視線には、嘘偽りも強がりもない。彼女にとって至極当然の事実を並べていることに、アリサは震えながら尋ねる。
「でも……私と一緒にステージに立てば、きっと好き放題言われる……ネットで顔写真や名前も晒されて、些細な傷が一生付き纏うかもしれない。そういう存在なんだよ? 私は。……私だって、お父さんの娘だからって、家庭に問題があるからって、私の言葉は誰も聞き入れてくれなかった……誰も私自身を見ていなかった」
「それでもいいよ。私たちは何も気にしない」
「どうして!? 私が居なくたって、2人ならまだやっていけるよッ! ここで無茶をする必要なんか……!」
「だって、好きなんだもん」
柊木は、アリサの葛藤を一言で両断した。
「アリサのギターの暴れっぷりが好き。歌声に込めた魂が震えるシャウトが好き。歌詞に込められた、少し洒落の聴いている無邪気な感情が好き。……なにより、三人でバンドして、グルーヴしている瞬間が好き」
柊木は歌うように気持ちを告げる。
そこに、多村も頷き同調する。
「そうそう。まあ、外野には好き勝手言わせておけばいいって。その人らにも発言する権利ぐらいはあるでしょ。でも、同じくらい私たちにも自由にする権利はあるの。周囲の圧力とかカンケーないし、善悪の価値観なんて人それぞれなんだからさ」
そこまで言われると、アリサは再び顔を地面に伏せた。
そして、喉の奥から2人に向けて声を絞り出した。
「あ、あたしも……好き。カズキと、サキと一緒にバンドやってる瞬間が好きだよ……」
くるりと身を翻し、俺たちに背を向け遠くを見上げる彼女の肩は震えていた。
そんな彼女を、柊木と多村は揃って、背中から優しく抱きしめた。
もう大丈夫だな。
アリサには、2人がいる。それ以上に、今は言葉は要らないだろう。
そんな女子三人を眺めて、俺は安心して息を吐いた。
「よし。じゃあ、来週。ライブハウスでまた会おうぜ」
そう言い残すと俺は彼女たちに別れを告げた。
さて、この一週間で俺にもやらなければならないことができちまった。
スパコンとランボーになんて言われるか。でも、あいつらならきっと大丈夫だという、俺の確信もあった。




