第九十六話「ずっと人はバトンを渡しながら」
俺はどうすることもできなくて、そのまま壁を見つめていた。
その時、アパートの外に足音が聞こえ、家主である母が帰宅する気配があった。
「たっだいまー」
母は相変わらず気だるそうな声と共に玄関のドアを開き、コンビニ袋を片手にリビングへやってきた。
そういえば玄関先に靴とか置いてないよなと、内心焦りながら視線を向けると、ちゃんと俺のボロボロのスニーカーだけが無念そうに転がっているだけだった。
「あれ、ご飯まだ食べてなかったの?」
「あ、ああ……」
そういえば、アリサに振る舞った後、食器を片付ける方に注力しており、自分で食べるのを忘れていた。
「ちょっと練習で遅くまで出てて。今帰ってきたところだった。少し休憩してから食おうかと」
妙に言い訳がましく呟きながら、俺は自分自身と母の分のチャーハンをレンジで温め始める。
「そ、お疲れさん。バンドの本番、もうすぐだもんね。私も観に行っていいよね? まあまあ、とりあえず今日は晩酌に付き合いたまえ」
そういうと、母は先ほどまで俺が座っていた場所に腰掛け、ビールの缶をプシュッと開けた。
母は食事中から、結構酒を煽るタイプだ。
すでに缶ビールは3本が空になっており、4本目に手を伸ばしている。
今日は特にぺースが早い気もするが、俺にとっては好都合なのでそのままにしておく。
普段は、そもそも食卓を共に囲む機会も少ないのだが、こうして一緒に晩飯を食べていても、さほど会話が弾むわけではない。
母は仕事の話を家ではしないし、俺も学校の話を家庭でするタイプではない。
時折テレビに映る番組の感想がお互い独り言のように溢れる程度だ。
だが、俺は何か重要な話があると、決まって食事時に切り出していた。
そして今日も、話をしたいと思っていた。
「なあ、母さん。……聞きたいことがあるんだけど」
俺は、少し気まずい思いで口を開いた。
「んー?」
母はアルコールが巡り気分がいいのか、缶ビールを片手に曖昧な声で返事をした。
「父さんって、どんな人だった?」
俺は、おそらく生まれて初めてだろう。
この質問を母にぶつけた。
そして、薄板一枚隔てて、同じ家の中にいる彼女の存在も意識しながら。
父親の事が気にならなかったわけではない。
むしろ、ずっと気になっていた。
そして、ずっと聞けずにいたことだ。
しばし、間が開く。
母は驚いた表情こそしなかったものの、少し考えるように瞬きを数回し、口を開いた。
「……めっちゃ、かっこよかったよ。そういえば、最近のあんたもちょっと大夢君に似てきたかも」
母は缶ビールを口に運びながらそんなことを言った。
大きい夢とかいて、ヒロムと読むのが父の名だ。
母はいつも父を名で呼ぶ。
「大夢君と私はね。大学で知り合ったの。彼とゼミが一緒で、仲良くなって。卒業したらすぐに結婚した」
母は、俺の質問の意図をどう汲み取ったのか、これまで話すことのなかった2人の出会いから話してくれた。
俺は父との記憶が、ほとんどない。
俺が物心がついたころには、既にその姿はなかった。
「あんたが生まれてからは、大夢君は特に張り切って仕事をしてたよ。ミルク代を稼ぐんだ、カッコいい親父の背中を見せてやるんだってね」
母は、辛い思い出もあるだろうが、そんな素振りも見せずに、まるで昔見た映画のシナリオを懐かしむかのように語る。
「大夢君は海外にもシェアがある工業機械の大手メーカーに勤めていて、貿易関係の仕事をしていた。だから、海外には頻繁に出張に行ってたの」
断片的に知っていた父の像が、俺の中で朧げながら明確になってゆく。
母は、ただ懐かしむように言葉を紡ぐ。
「でもある時、現地の事故に巻き込まれて、大夢君は帰ってこなかった」
「大夢君はよく言ってたよ。眠るあんたのおでこを撫でながら、『後のことは頼んだぞ。成志』って」
「どういうこと?って私が聞くとね。『俺のこれからの人生は成志の未来の為に使うんだ。俺はもう大人になって、この先年老いて行くだけだけどさ。成志にはこの先色んな事が待っている。こいつが大人になって、誰かと恋をして、また新しい未来が生まれる。そうやってバトンを永遠に繋いでいくことが俺たち人間の何よりの幸せなんだろうな』って」
「『俺たちはいつか成志よりも先に死ぬんだ。でもさ、きっと俺たちの何かはこいつの中に生き続けてるんだろうなぁ。成志も、その先も、ずっと人はバトンを渡しながら続いてくんだろう。でも、こいつには何かを『成し遂げる志し』を与えた。何かでっかいことをやってくれるかもなぁ』って言ってた」
見た記憶のない父の顔。
けれど、その声を母の口を通して聞いたような気持ちになった。
「そうなんだ……」
俺は自分で聞いたくせに、母に気の利いた感想も言うことができなかった。
「うん。……実を言うと、私、ちょっと怖かった」
すると、母は少し、眉間に薄い皺を寄せて俺を見据えた。
「あんたは、子供のくせにどこか落ち着いていて、まるで私に負担をかけないように何かを我慢していたんじゃないかって」
ずっと聞けなかったことは、母の中にもあったのかもしれない。
「やっぱり、お父さんがいないのが寂しいんだろうかって。でも、あんたはそんなこと、一言も言わなかった」
そう、かもしれない。
俺は無意識のうちに、母に迷惑をかけたくないと思っていた。
小学生の時も、友達が持っている最新ゲームが羨ましくても、ねだったりはしなかった。
周りのみんなは、夏休みに家族旅行に行った話をしていても、俺は苦笑して話を合わせていた。
周囲の人たちが、当たり前のように父親の話をしていても、俺は何も感じないと思い込んでいた。
俺が寂しがると、母が辛い思いをするかもしれない。
母が辛そうなところはもっと見たくない。
だから、俺が我慢をすれば済む話だ。
「あんたは中学生になっても飄々としていて、反抗期のそぶりも見せなかった。だから、ちょっと心配でもあったのよ。いつか溜め込んでいたものを爆発させるんじゃないかって」
俺自身は、そんな気は全くなかった。
母に対する不平不満など、溜め込んではいなかった。
けれど、不公平であると思ったことはあるかもしれない。
なぜ、人々は平等になっていないのか、全く考えたことがないわけではない。
「でも、あの時にハッとしたのよ」
「あの時?」
「あんたが、『ベースが欲しい』って言ったとき。初めてじゃない? あんなにあんたが熱っぽく何かをねだったのって」
ああ。なるほど。
俺はそれまで、誰にも迷惑をかけないように、ひっそりと生きていた。
別に父親が居ない事を負い目に感じていたわけではない。
自分の主張をすれば、誰かに迷惑をかけるかも知れない。
誰かに迷惑をかけるぐらいなら、黙っていよう。
そんな思考回路がいつしか俺の中に出来上がっていたんだ。
そして、そんな理屈をぶっ飛ばしてくれたのがロックだった。
音楽に魅せられた俺は、周囲の目も気にならなくなるほど音楽に夢中になった。
それがきっかけで高校デビューは失敗したけれど。
ようやく本当の自分自身と向き合うきっかけが出来たのかもしれない。
「だから、最近のあんたがすごく楽しそうなのを見て、ホッとしたのよ。スパコン君やランボー君、それにサラちゃんのおかげかもね」
それから、しばらくは母との昔話に花を咲かせ、次第にアルコールが回った母はそのままテーブルの上で寝てしまった。
仕方なく、俺が居間に布団を敷き、母を寝かせる。
そして、俺は自室に戻った。
「うおっ」
薄い引き戸を開けた先、我が自室のベッドの上には、相棒のフライングVを構えたアリサが胡坐をかきながらコードを鳴らしていた。
「静かに。いま、降りてきた」
そういいながら、すっとメガネを直してアリサはコードを静かに鳴らし始める。
どうやら、アリサの作曲スタイルは"降りてくる"タイプらしい。
「ねえ。ベース、合わせてよ」
「お、おう」
母は一度眠るとなかなか起きないタイプなので、少しぐらい楽器の生音を出しても問題ないだろう。
一応、扉を閉め、俺はベースを取り出す。
その晩は不思議なほど空気が澄んでいて、弱い暖房しかない我が家の冷えた空気に、生音のベースとギターの音色はよく響いた。
アリサが主導して曲を組み立て、俺もそれに合わせつつアイデアを出し合い、曲を作り上げていく。
疲れていたはずの体は妙な熱を帯び、疲労感や眠気は全くなかった。
そのまま曲を書き続けること三時間。
アリサの鼻歌がメロディとなり、曲の原型が完成した。
時刻は日付も変わり既に深夜二時。
確実に深夜の妙なテンションになっていた。
「ね、コンビニいかない?」
「そうだな、さすがに何か食いたいな」
「あ、じゃあ肉まんたべよ」
そういうと、アリサには俺のコートを貸し二人で外に出た。




