第九十五話「ね、シャワー貸してよ」
「いったいどういうことだよ……」
とりあえずリビングの電気を点け、俺は台所に立ち冷蔵庫に入っていた野菜の切れ端とウィンナーを切り刻み、フライパンで油を熱し始めた。
冷凍庫から保存していた白米を取り出し、レンジに適当に放り込んで解凍を始める。
「えーっと、ほら。セイジが学祭の時に財布を落としたでしょ。その時に、せっかくだから学生証の冴えない写真でも眺めてやろうかなーっと思って覗いたときに住所が見えちゃって」
アリサは二人掛けのダイニングテーブルの、普段は俺が着席するイスに座り、れんげを指で弄びながら経緯を語る。
「なんとなく、その住所を覚えてて。それでちょうどいいからセイジの家にかくまってもらおうと思って来たけど留守だったから。何気なくドアノブ触ったら鍵が開いてて、とりあえず中で待ってようと」
俺はその言葉を聞きながら、解凍が終わった冷や飯と刻んだ具材をフライパンに投入する。
油が爆ぜる音に合わせて、塩コショウで味を調え、チューブのニンニクを流し込みながら全体に火が通るようにフライパンを振る。
「俺と入れ違いになってたのかよ……先に親が帰宅したらどうするつもりだったんだ」
「まあ、その時はその時で」
あっけらかんというアリサに、苦笑するしかなった。
でも、案外俺の母親とは話が合ってしまいそうなあたり、何とも言えない。
結局母親は、今日はまだ一度も帰宅しておらず、この日も夜遅くまで取材や原稿に追われているのだろう。
最後に卵を溶き入れ、しょうゆをフライパンの端から回しかけると完成だ。
俺製、適当チャーハン。具材はその日の余りもので決まるから、同じ味は二度とないのだ。
三人分に分け、一つはラップをかけ置いておく。
食卓に二人分の皿を並べると、アリサは湯気の立ち昇るそれをのぞき込んで顔を明るくした。
「いただきまーす!」
何気に、母親以外に自分の作った食事を振舞うのは初めてだ。
僅かに緊張しながらも、れんげを口に運ぶアリサを横目で観察する。
「うん、おいしい!」
ニコニコと笑みを浮かべながら咀嚼するアリサに、俺は思わず言葉が漏れる。
「おまえさあ、自分の状況分かってるのか。柊木たち、めっちゃ心配してるんだぞ」
思わず、突きつけるような事を言ってしまい、僅かに後悔する。
だが、アリサはチャーハンに伸ばす手を止めずに、俺の言葉に応える。
「サキとカズキには……悪いと思ってる。でも……」
その表情は、わずかに笑みを湛えていて。
まるで何かを手放すことに慣れてしまったような、熱が冷めてしまったような、そんな表情をしていた。
「アタシは平気。別に、慣れてるから。でもアタシと一緒に居ると、二人まで傷つけられるかもしれない。そう思うだけで、アタシは辛い。だから、今は距離を取りたかったの」
その言葉の意味を咀嚼した俺は、思わず呆けた表情で彼女をまじまじと見つめる。
「……お前、まさか」
俺が次の言葉を出す前に、彼女は言った。
「ネクスト・サンライズ、辞退しようと思う」
俺はすぐに、その考えを改めるように言えなかった。
彼女の選択を覆すほどの、理屈が思いつかなかった。
「きっと、サキとカズキは納得しないでしょ。だから、いっそこのまま来週まで逃げてしまうのも、アリなのかなって」
俺たちがアリサを探していた時間に、アリサ自身は何も考えていなかったはずがない。
きっと、俺の部屋でずっと答えの出ない自問自答を繰り返していたはずだ。
ネクスト・サンライズの二次審査に挑めば、『Yellow Freesia』には色々な言葉がぶつけられることだろう。
何かやらかした人たちだから。周りのみんなが批判しているから。結局は他人だから。
好き勝手な理由で、暇つぶしやストレス発散のおもちゃにされ、言葉の暴力と圧倒的物量で蹂躙される。
そんな目に合うのは自分ひとりでいい、アリサの意向はそういう具合か。
今はまだ、アリサの過去に言及した批判が飛び交うばかりで、柊木や多村には何の飛び火もない。
だが、この妙な熱気を帯びた状態で、ステージに立てば。
彼女達の今後の人生に、消えない傷跡が残る可能性もある。
そのことを考えて、アリサは姿を消す決断をしたのかもしれない。
「ごちそうさま。ね、シャワー貸してよ」
俺が思考に耽っている時に、彼女はそんな事を言った。
*
背後からは、シャワーが水を排出する音と共に、人間の胴体を経由した水滴が風呂場の床に叩きつけられる音が響く。
普段は何の感慨もなく、耳を右から左へ流れるこのBGMに、今日は妙な緊張をしながら、俺は部屋であぐらをかき考えていた。
この隙に、多村や柊木に連絡をするという選択肢は、割と無難だと思う。
少なくともアリサの無事を伝えることはできる。
しかし、それでは彼女が姿を消した意味がなくなってしまう。そして、姿を消した上で、滞在場所に俺の家を選んだということは、彼女なりに俺を共犯者として信用してくれているということでもあるだろう。
柊木たちに連絡をしてしまえば、ネクスト・サンライズの辞退について、彼女たちは揉めてしまうかもしれない。
アリサは、自身の行方不明が続けばなし崩し的に辞退を認めざるを得ないと二人が考えることを期待しているのだろう。
どうするべきか、俺は悩んでいた。
その時、沈黙を破るかのようにスマートフォンが着信を告げた。
「もしもし」
『あ、クチナシ。事情は柊木さんから聞いたけど、大丈夫?』
電話越しのサラは、心底心配そうな声をしていた。
「ああ。今はもうそれぞれ家に帰ってる。……まあ、あいつのことだ。したたかに生きているとは思うが」
まさか、今俺の家でシャワー浴びてるよ、なんて口が裂けても言えない。色々な意味で。
『そうね……でも、やっぱり心配だわ。特に、今回の話はネットで拡散してかなりの規模になっている……』
サラもかつては、似たような状況に陥った経験がある。
彼女の感じたことは俺には想像することしかできないが、その分アリサを心配する気持ちも強いのだろう。
『なにがあっても、クチナシはあの子の味方でいてあげて。それが一番嬉しかった……いえ、嬉しいはずだから』
その言葉に、何か返そうと思った時だった。
「セイジー! タオルどこー!?」
「ゲッフォゲッッフォォォォン!!」
背後から響く大声に俺は盛大に咳き込み、なんとか通話にノイズを混ぜ込む。
『だ、大丈夫? 風邪引いたりしてないわよね?』
「ああ、大丈夫だ。とにかく、何かあったら連絡するから、じゃあな」
『ハァ? あ、ちょっと……』
そういうと、返事も聞かずに通話を切った。
サラには申し訳ないが、こうするしか俺には思いつかなかった。
色んな意味で。
取り急ぎ、アリサにはバスタオルの在り方と、着替えとして俺のシャツとジャージを脱衣所の前に置き配した。
髪を乾かした後の彼女は、ブカブカの俺の服を纏いながら、我が物顔で俺のベッドに座った。
「へえ、セイジの服って意外と大きいのね」
「……そうかい」
自身の衣服を女子が身に纏っていることもそうだし、改めて女子の体は小さいことを認識した俺はすごく恥ずかしくなった。
気を紛らわすように俺はベースを練習するふりをしていると、アリサはこんな状況でも手放さなかったギターを抱えていた。
お互い、微妙な気まずさを意識し合うように、音を鳴らし合っていた。
その時、押し殺したような振動音が鳴り響く。
それはアリサのスマホに着信があったことを知らせていた。
先程までは、メッセージアプリの通知を全てオフにしていたからか、多村たちのコールもシャットアウトされていたようだ。
しかし、これはまさしく電話着信であるようだ。
目だけでお互い合図し、俺は彼女に応答を促す。
「もしもし」
相手の名前は見えなかったが、静まり返った部屋にはわずかな音量で相手の話し声が聞こえる。
『おい、どこにいるんだ……友人も心配しているぞ』
くぐもった声は大人の男性であるとわかる。
「……いい。大丈夫って言ってあるから」
『だが……かなり焦った様子だったぞ』
先ほどの多村の話から想像すれば、今の通話の相手はアリサの父親であるようだ。
『あまり、人に迷惑はかけるな』
その時、その一言にアリサの目が一瞬潤み、彼女の中の何かの回路が切り替わったかのような気がした。
「……“迷惑”ってなに? アタシが、アタシが迷惑だっていうの……?」
アリサの声は震えていた。
それまでの平静が、やはり虚勢であったことに思い至る。
だが、もう遅い。
彼女の中で決壊した感情の濁流は、もう止めることは出来ない。
「一体誰のせいで!? 誰のせいでこんなことになったっていうのよッ!?」
彼女が喉の奥に溜め込んでいたはずのものが堰を切ったかのように溢れ出る。
アリサの表情は、何かに耐えかねたように歪んでいた。
「全部アンタが悪いんでしょ!? アタシの平穏な日常も無くなった! アタシと関係ない出来事で、アタシまで不幸な人間の烙印を押された! 新しい目標を見つけても、また昔の話を掘り起こされてそれもメチャクチャにされる! なんで!? ねえ、一体アタシが何をしたって言うのよッ!?」
彼女がずっと耐えてきた理不尽としか言いようがない現実を、彼女は初めて言語化してしまった。
そうすることで、厳然たる事実として認識してしまうことも恐れずに。
「もう、アンタの子になんて生まれてこなければ……!」
「アリサッ! やめろ!」
俺は思わず口を挟み、彼女の次の言葉を遮っていた。
その言葉の続きは、たとえ部外者の俺であっても言ってほしくなかったし、聞きたくなかった。
俺の声に、アリサは言葉をやめ、大きく息を吸うと力無く吐き出した。
「……とにかくアタシは大丈夫。そのうち帰るから」
それだけを一方的に言うと、相手の返事を聞かずに彼女は電話を切った。
俺は所在なさげにその場に立ち尽くすと、「ごめん、ちょっと1人にさせて」という彼女の言葉に従い、部屋を出てリビングのダイニングテーブルに座った。
静かに戸が閉められ、2人の間には薄いベニヤの壁が立ち塞がる。
小さな家に2人、大きな隔たりができたような気がした。




