第九十二話「深い海の底で、一人孤独に生きる生き物」
ギターを手にした私は、いつの日かちゃんと演奏できるようになりたいという目標を持つようになっていた。
しかし私の対人恐怖症は、日を追うごとに酷くなっていた。
人と目を合わせて会話ができない、何か会話の流れの中で引っ掛かりのようなものがあると、咄嗟に謝ってしまうなどは当然の事だ。
精神が落ち着かないときは、バスや電車などの公共機関ですら利用することが出来なかった。
私を見ているわけでもないのに、私を笑っているわけでもないのに。
誰かの視線や話し声や笑い声。
そのすべてが自身を貫く矢となって降り注いだ。
そして、その症状は突然フラッシュバックすることもあり、酷くなると私の視界は白く靄がかかったようになり、立ち眩みのようにグラグラと揺さぶられ立っていられなくなる。
その場にうずくまってしまうことも多かった。
授業中であれば机に額を押し付け何とかやり過ごすこともできる。しかし、体育のような時間ではそれも難しい。
特に、バレーボールなどのチームで連携する種目では、当然チームメイトと意思疎通が必要になる。その度に私は視界がグラグラし、授業を休むことが多くなっていた。
その日も、体育の授業を貧血として休み、保健室に向かっていた。
戸を開けると養護教諭の女性が白衣を着て、コーヒーカップを片手に書類を眺めていた。
「おや、また来たね。ゆっくりしていきな」
養護教諭の岡崎美加子先生は、薄く笑って私の事をまるでお客さんであるかのように迎えた。
岡崎先生は大学を卒業して、この高校が最初の赴任となったそうで、まだ二十代半ばという若い教諭だった。緩く巻いた長い髪と優し気なたれ目から癒し系のような印象で男子学生のファンも多い様子だ。
けれど、私は少し印象が違っていた。
「優木は何飲む? って言ってもインスタントのコーヒーかカフェオレぐらいしかないけどな」
少し粗暴な言葉使いからも、学校の先生とは思えないような言動が見受けられ、見た目の雰囲気と少しギャップがある。
しかし、その気取らない態度が私にとっては少し気が楽だった。
同年代の同級生たちや、教師のような大人と会話すると、過去のトラウマが蘇るのかどこかで私の思考回路がおかしくなってしまう。
けれど、大人と子供の中間のような彼女はその不安が無かった。
「いいえ、大丈夫です。ごめんなさい」
私は授業を休んだ身なので、のんびりと飲み物を頂く気にはなれなかった。
消毒液とコーヒーの混ざる独特な匂いを嗅ぎながら、私は保健室内のベンチに腰掛ける。
「そうか。遠慮しなくてもいいんだぞ」
それきり、岡崎先生は視線を再び書類に落とす。
保健室は静寂に包まれる。
いま、この校舎には数百人の若者が居て授業を受けている。
それなのに私はここで一人ぽつんと座っている。
その疎外感。
まるで、宇宙からこの星を眺めるかのように、はるか遠くの場所に、日常や普通の高校生を感じた。
「あの、先生」
「ん?」
私は普段、授業を休んで保健室に来ても会話をしない。
だけどこの日は、何かを確認したくて、口を開いた。
「いえ……ごめんなさい」
「何か聞きたい事があったんじゃないのか?」
「あ……あの……特に、これといった話じゃないんですけど……」
「いいよ。どうせ私はヒマだし。言ってみ」
どうして私はこんなことになったのか。
私はどうすればいいのか。
どうして息がこんなに苦しいのか。
私はどこで間違えたのか。
聞きたいこと、教えてほしい事は山ほどある。
だけど、そのどれもが具体的ではなくて、言葉にならなかった。
言葉に出来ない、それが今の私の一番の問題だった。
「どうして、人と人は一緒に居なきゃいけないんでしょうか」
私は、ポツリとその言葉が口をついて出てきた。
どうして人は一人で生きられないのか。
傷つけ合うと分かりながら、人は共同生活をしなければならない。
社会と繋がっていなければならない。
生活を成り立たせる為だとか、生物の営みなんだからとか、そういう理屈が理解できないわけじゃない。
でも、深い海の底で、一人孤独に生きる生き物が居てもいい。
どうして、私はそう成れないのだろう。そうなれたら、どんなに楽なんだろう。
「難しい質問だな。哲学か? それとも生物学の話かい?」
岡崎先生は、私の言葉を笑うでもなく、茶化すでもなく、けれどいつも通りの適当な態度で考え込んだ。
「人と人は一緒に居なければいけない……か。確かにそうだ。学校なんてものはその最たるもので、顔も個性も特徴もまるで違う未知の生物みたいな若者を強制的に形の整った箱に押し込んでいる。どこかでぶつかり合ったり、枠に収まらない人が出てくることは百も承知でね。そこが異常であることは私もわかっているよ」
教育者であるはずの岡崎先生は、けれど学校のことを矛盾していると切り捨てた。
それでも、と彼女は言葉を続ける。
「人はきっと、一人では自分を認識することが出来ないんだ。誰か別な人が居る、だから私という自身が居る、そういうことで初めて自分自身が成立しているんだと思う。だから、人と人が一緒に居ることでようやく、自分自身という存在が生まれるんだろうな」
喋りながら、自分で納得するように岡崎先生は語った。
「誰かと一緒に居ること、他人とのコミュニケーションが辛いのは、きっとその人自身が優しいからだと、私は思うよ。こういう事を言えば相手が傷つくかもしれない、本当はこういう答えを望んでいるのかもしれない。想像力を働かせて、相手の事を気遣い、最適な答えを選択する。そこには明確な答えなんて無いし、後悔しても過去は修正できない」
ちがう、私の気遣いは優しさでは無いと、心の中で無意識に反論する。
気を使うのは、反撃が恐ろしいからで。
最適な答えを出さなければ、組織から弾き出される。
弱者として、不適合者としてのレッテルが貼られ、好き放題に私の領域を毟り取られるから、とにかく謝るしかない。
「優木、自分自身にもっと優しくなっていいんだぞ」
「え……」
急に言われた言葉に、思わず顔を上げてしまう。
そうすると、憐れむでも無く、心配するわけでもない、まして何か答えを突きつけるわけでも無い、いつもの適当で雑な態度の視線が、けれど確実に私の心の内を見据えていた。
その時、机の上に置いてあったスマートフォンの画面が光った。
何かの通知が来たようで、本体が震える。
おそらく、岡崎先生の物だろう。彼女は「なんだこんな時に……」と言いながらそれを拾い上げようと手を伸ばした。
しかし、私の視線はその画面に釘付けになった。
「そのギター……」
「えっ、ああこれか。見られちゃったか」
岡崎先生は少し照れながら、改めてスマートフォンを拾いあげ画面を立ち上げる。
私が見つけたのは、その待ち受け画面になっている写真だった。
海外のミュージシャンであろう、演奏中の男性が抱えているギターこそ、私が拾ったあのギターと同じA字型のような特徴的な形状をしていた。
「マイケルシェンカー。もしかして優木も知ってるのか?」
「いえ……ごめんなさい」
「へっくしょん‼‼」
その時、急に保健室にくしゃみの声が鳴り響いた。
私は心臓が止まるかと思いながら、身を硬直させる。
一方の岡崎先生は、「あーあ」と呟いた。
「もう出てこいよ。多村。……すまんね、優木。騙したり隠していたわけじゃないんだけど」
岡崎先生はバツが悪そうな顔で頭を掻いた。
保健室のカーテンの向こう、ベッドの方からゴソゴソと音がして、カーテンが開かれた。
そこには、申し訳なさそうな照れ笑いの一人の女子生徒が居た。
彼女はショートヘアの頭に布団の繊維くずを乗せながら、「いやー、あははは……」と誤魔化し笑いでベッドから這い出す。
「あの……」
所在なさげに私が視線を迷わすと、察した岡崎先生が説明する。
「そいつはB組の多村だ。授業をさぼるために保健室のベッドを使う図々しいヤツだ。……まあ、寝不足な時もあるし、そういう時は無理せず寝るのが最適だからな」
腕を組んで言う岡崎先生であるが、それを黙認する時点で彼女も大概である。
「てへ、昨日の夜も下の子がなかなか寝付いてくれなくてねーって。それはさておき、ゴメン。盗み聞きはするつもりはなかったんだけどさ。出るタイミングも分からなくって」
彼女はニコニコと笑いながら私に話しかけるも、私は視線を床に落とす。
「んで、なになに? センセーの彼氏の話? それとも推しのガイタレ?」
彼女はばっちりとこれまでの会話を聞いていたようだ。
突飛な質問をしてしまったこと、それを聞かれていたことに恥ずかしくなり、私は顔を上げることが出来ない。
「違う。……が、まあ、どうだろうか」
岡崎先生は珍しく歯切れ悪く答えると、多村が勢いづく。
「ええーどういうことですかそれ。私に見せて見せて」
彼女はベッドを飛び降り、岡崎先生のスマホを覗き込む。
「えー、センセーはこのガイジンが好きなんですか? ちょっと意外。でもいいですよね、バンドマン。うちのお父さんもバンド好きで、いつかは家族でバンドやるんだーって言って私にドラム習わせたりとかするんですよ」
「えっ、ドラム習ってるの?」
おもわず、私は声を上げてしまった。
この頃は、楽器の話題になると声がよく出る。
「うん、まあ昔の話だけどねー。今はうちの下の子たちの習い事が大変でさ」
そう言いながら、多村はドラムスティックを振るような仕草を見せる。
言われれば、確かに経験者のようなしなやかな腕捌きにも見える。
「んで、優木さん……でいいのかな? あなたはギターやってるの?」
ニコニコと人懐っこい笑顔で聞いてくる多村とは目が合わせられず、地面にある自分の足先を見ながら、これまでの事情を説明する。
ゴミとして捨てられるギターが放っておけなくて、持ち帰ったはいいが練習の仕方がわからないことを。
「そうか。それならスタジオに行くか、ちょうどいい。多村も来い」
そう切り出したのは、岡崎先生だった。




