第九十一話「ある日急に、バカになった」
その週末、私は拾ってしまったギターケースを抱えて、一人とぼとぼと歩いていた。
せっかく自らの元へ迎え入れたのだから、弾けるように練習したい。
そうじゃないと、最初にこの子を捨てた人間と一緒になってしまうからだ。
けれど、ギターの練習なんて何をすればいいのかなんてわからない。
家で教則本でも眺めて練習すればいいのだろうが、私はそうする気になれなかった。
というのも、正式に購入したわけでもないギターをいつのまにか私が弾いていたら、いくら私の言動には干渉してこない父親であろうとも、何を思うだろう。
正式な値段は知らないが、楽器はそれなりに高価なものだ。
それを購入したレシートもなければ、譲り受ける友人もいない。
盗品などと疑われて、取り上げられるのだけは避けたかった。
そんな思いから、とにかく楽器を弾いていても問題なく、なおかつ家からは離れた場所を探し求めて歩いていた。
数年前に引っ越してきてから、この街を遊び歩くこともなかった。自宅と学校、駅の場所ぐらいしか知らない
よく知らない街を歩くのは、暗闇の中を彷徨い歩くようで不安だった。
たどり着いたのは市内を流れる河川の傍、河川敷となっており小さな運動公園も備えられている場所だった。
ここには飼い犬の散歩やボール遊びをする学生、そして楽器を練習する大人などがいる。
そこに混じるように、私もギターケースを背負って入り、河川敷のコンクリートブロックの上に腰を下ろした。
ジッパーを開け、再びギターを取り出す。
赤く光沢のあるボディに、少し錆びた弦。
見よう見まねで膝の上に乗せ、弦を弾いてみる。
デュワーン、と少し間の抜けた音が響いた。
おそらく、設定とか調整が必要なのだろうとは思うが、どうしたらいいかもわからない。
スマートフォンでいろいろ調べてみるが、そもそも私はアンプとかチューナーというような付属品を持っていない。
いきなり演奏ができるようになるのは難しいか、と少し思い直しながらも、そのまま膝の上にギターを乗せ川を眺めていた。
アルファベットのAのような形状をした角ばったギターのボディは、膝にフィットせず少し痛い。
それでも、お互いの傷を舐めあうかのように、お互いの尖った部分を認め合うかのように、私はギターを離さなかった。
その時、風に乗って川のせせらぎに混じる、弦を弾く音が聞こえてくる。
私と同じくギターを練習している人がいるのだろうか。
しかし、その音は私のギターの音とは異なり、ベンベンボンボンと鈍く重い音だった。
私と数メートル間を開けて、同じくコンクリートブロックに腰掛ける女子がいた。
背格好や服装からおそらく、同年代であろう。
セミロングの髪に、涼しげな目元が印象的だ。学生服ではなく、春物のカーディガンにデニムのパンツをはいたラフな格好だ。
彼女もまた、ギターのような楽器を膝の上に乗せ、ぎこちない手つきで一生懸命に弾いている。
黒くて大きく、よくテレビなどで演奏する人が持っているような、流線型で左肩が上がったような形状だった。
しかし、その音はまるで演奏には聞こえず、素人であることは私にもわかった。
同年代の、しかも同じくらいのレベルの人だ。そして、なんの理由かはわからないが、電源もなければ音も聞き取りにくい屋外でわざわざ練習している子がいる。
どこか通じるものがあるのだろうかと思い、私は無意識のうちにジッと見つめていた。
「……あの、」
するとその女子は、申し訳なさそうに眉をまげて、私を見て声を出す。
しまった、不躾に見すぎてしまった。
私はサッと視線を落とし、「すみません」と地面に向かって謝った。
「ねえ、あなたはギターが弾けるの……? もし、よろしければ少し教えてもらえたらなって」
すると、その女子は私のほうに歩み寄り、そんなことを言ったのだった。
「いいえ、すみません。私、弾けないんです」
「あれ、そうだったんだ。こちらこそ急にお願いして申し訳ないです」
急に話しかけられてしまったから、私は突っ返すように早口でまくし立ててしまった。
声をかけてくれた女子は、愛想笑いもしない私に対してきっと暗い変な奴だと思っただろう。
けれど、その子は私の隣に腰を下ろすと、その音が鈍いギターを指先で遊ぶように弾きながら、ぼんやりと呟いた。
「私、全然音楽とか知らなくて。楽器も学校の授業でリコーダーを吹いたことぐらいしかないのに、勢いでベース買っちゃって。バカみたいですよね。家族にいろいろ聞かれるのも恥ずかしいから、この場所でこっそり練習してて」
彼女は、独り言のように川を見て喋る。
私は、相槌をしたほうがいいのか悩みながらも、喉から出てくるのは乾いた吐息だけだった。
しかし、この子が持っているのはギターじゃなくてベース? というものなのか。
それすらも知らない自分は、この子以下のレベルであることは間違いない。
「ベースを持つと何かが変わるのかな、なんて思ったら、いてもたってもいられなくなっちゃって。今まで貯めてたお年玉も全部使い切っちゃいました」
自虐的に笑う彼女は、私がこれまで関係してきたクラスメイト達とは違う雰囲気を感じて、少し呼吸が楽になった。
だから、自然と声が出てきた。
「……変われるんですか?」
「ん?」
「いえ、ごめんなさい」
「なんであやまるのさ」
そう笑う彼女の、けれど顔はやっぱり見れない。
私は足元、自分のつま先を見ながら、でも声は出せたことに感動しつつ話を続ける。
「……その、今言っていた『ベースを持つと何かが変わる』って。どういうことですか」
「うん、そんな人が私の近くに居てね。その人、それまでは本当にそんな素振りもなくて、斜に構えているわけじゃなんだけど、だけど周りからはちょっと線を引いている感じの人だったんだけどね……。その人がある日急に、バカになった」
「は、はぁ……」
「それでね、みんなの前で『バンドで天下をとる』なんて言ってたから。周囲のうわさを聞くと、その人はベースを始めたみたいで」
話しぶりからすると、彼女の同級生か何かなのだろう。
親しげに語るその人物のことはよくわからないが、この子はその人をきっかけに楽器を手にしたのだという。
それにしても、バンドで天下をとるなんて、確かにバカだ。
「だから楽器には、そういう意味不明な人を変えちゃう力みたいなものがあるのかなぁって思ったら、私も欲しくなってた」
そう言って笑う彼女の顔は、どこか清々しくて。
私はそんな彼女のことがうらやましくなった。
「話に付き合ってくれてありがとうね。私、藤山高校一年の柊木。あなたは?」
「……えっと」
「嫌なら言わなくてもいいけど」
「ちがう、えっと。北稜の一年の、優木有紗」
「そっか。優木さんね。今度はお互い、上達してたらセッションしたいね」
そういうと、彼女は立ち上がり、ベースをケースにしまい込みながら手を振りその場を去った。
彼女の言葉がきっかけで、私はギターを弾くことを真剣に取り組もうという意志が湧いてきた。




