第九十話「その真赤なギター」
それから間も無く、私たち親子は遠く離れた未知の街へ移住した。
頼るものも、私たちを知る者も何もない真白な街へ。
そうすることで何かがリセットされるわけもない。
ただ、色々な物が染み付いたあの街には、私もお父さんも、もう居ることができないというのは分かりきっていた。
私は中学を転校することになり、新天地で転入の手続きをする傍ら、お父さんの再就職先も決まった。
郊外に聳える巨大な工場は、鋳物と呼ばれる、鉄を溶かして型に流し込んで出来た色々な部品を作る会社だった。そこの作業現場で働く事になったらしい。
体が華奢なお父さんのことは心配だったが、仕事が決まったことは喜ばしい。
新しい学校に初めて登校する日の朝。
すでに暦は秋から冬の様相を見せていて、肌寒い日々が続いていた。
けれども、その澄んだ冷たい空気は、私を冷水で清めてくれるような鮮烈さがあった。
環境が変わるというだけで、何かが良くなるような、そんな期待をしていた。
このころ、私の視力は急に落ち始め、メガネをかけるようになっていた。
レンズ越しの世界でなければ現実を直視できない、そんな錯覚に陥っていたのかもしれない。
右も左も分からない校舎を見上げ、私は新しい教室に向かう。
今度の担任の教師は年配の女性で、柔らかい口調で私に挨拶をした。
「ユウキさん、こんな時期に転校は大変だと思うけれど、みんないいヤツだから心配いらないわよ」
担任の教師は、まるで私を割れ物を扱うかのように、丁重な口調で続ける。
「辛かったと思うけれど、もう大丈夫よ」
その言葉を聞いた時、私の喉の奥が何かに締め付けられた。
そして、何か返事をしようと口を動かしても、出てくるのは空気が出入りするヒューヒューという情けない音だけだった。
一体何が辛くて、どう大丈夫なんだろう。
この人は、私のことをどこまで知っていて、どう思っているんだろう。
不幸で可哀想で、狂気を孕んだ子供だと思っているんだろうか。
そりゃそうか。こんな時期に転校するなんて、以前の学校に経緯を聞いていてもおかしくはない。
父親の名前を調べれば、事件のことが見つかるに違いない。
私たち親子は、どこへ行っても、悪人と不幸のラベルが貼り付けられた品物なのだ。
そう認識した瞬間、私の喉は声を出すことを拒絶していた。
「さあ、自己紹介してもらいましょうか」
担任の教師は、そんな私の様子を怪訝に思いながらも、緊張しているだけだと判断したのか、教室のドアを開け、教壇の上に促した。
私は、震える足を動かして、その場に立つ。
そんな私を出迎えたのは、沢山の目、眼、め。
教室に整然と並んだ机に腰掛ける生徒たちは、一様に私のことを探ろうと、識別しようと、分類しようと視線をぶつけてくる。
私はその目の大群に気圧される。
「さ、皆さんに転校生を紹介します。ユウキさん、どうぞ」
担任教師が、殊更明るい声で私に自己紹介を促す。
「あ……く、……」
急に、視界がぼやける。脳内が真っ白になり、まるで強制的に眠ってしまうかのように意識が朦朧とする。
私は、言葉を出すことが出来なかった。
その途端に始まるのは、ヒソヒソと言う小さな声の囁き合戦だった。
「……どうしたんだ?」
「てか、なんでこの時期に転校?」
「なんか訳アリって聞いたよ……」
「うそー、ヤバくないそれぇ」
決まった、そう直感する。
私には不気味で可哀想な子というラベルがベッタリと貼り付けられたのだと。
◇
それから、転校した後の中学生活は、暗澹たるものだった。
私は、どういうわけか人の顔を目の前にすると全く声を出すことができなくなり目を合わせず『はい』か『いいえ』、そして『ごめんなさい』くらいしか喋ることができなかった。
当然友達なんてできるはずもなく、周囲からは腫れ物のように扱われた。
けれど、あれこれ勝手に心配して干渉してこないだけ、マシなのかもしれない。
その頃からお父さんは、朝早くに家を出て、夜遅くに疲弊して帰宅する生活をしていた。
毎日、体を痛そうにさすっており、必要以外な言葉を発しなくなった。
家での家族の会話は、一切無くなった。
必要な食費が机の上に、封筒に入って置かれるのみで、私とお父さんの繋がりはそれだけだった。
私は、そのまま時間の流れに身を任せるように、学校生活を過ごし、必要最低限の学力で合格できる高校に進学を決めた。
けれども、高校生になっても私の症状は一切改善されず、それまでと同じく無口で不気味な子という扱いのまま春を迎えた。
ある日の昼休み。
入学して以来、私は昼休みを図書室やひと気の少ない特別棟の廊下、体育館の裏など、誰もない場所を目指して彷徨っていた。
しかし、学校という場所には数百人を超える十代の若者が闊歩していて、なかなか誰もいない場所には巡り会えなかった。
最終的に私は、特別棟のトイレの個室に籠ることに落ち着いた。
しかし、この場所は誰の顔も見なくて済むが別の弊害がある。
「……でさー、B組の子がその大学生と付き合ってるのにね、中学生の子と2人でカラオケ行ってたらしいよ」
「うそー、それって絶対やってるよね」
「……てか聞いて。あの子も相当やばいらしいよ」
学校の人の気配が少ないトイレというのは、女子たちにとっては格好の喋り場となる。
今喋っているのは、昼休みに特別棟で練習をする吹奏楽部かそこらの部員だろう。
それぞれがくだらないプライドや興味本位の猥談にもっともらしい御託を並べて好き放題こき下ろす。
その雑音が強制的に聞こえてくるのは、不快としか言いようがない。
「C組のユウキさん、過去に色々あったらしくて」
急に名前が呼ばれて、心臓が飛び出すかと思った。
この薄っぺらい個室のドア越しに、私の鼓動の音が鳴り響いているのではないかと心配になる。
「やっぱり? あの子ヘンだよね。実害ないけどさ」
「中学の時、同級生と揉めてたらしくてね……実はお父さんが失業したらしくて」
どうしてそんな話まで、と目の前が真っ暗になるのを感じる。
「それで、お金がなくなっちゃうでしょ? だから、お小遣い稼ぎで色々やってたらしいんだけどね……それで行くとこまで行っちゃって」
「えー、ウソー」
「心配したクラスメイトの子に逆ギレしてカッターナイフでお腹をね、引き裂こうとしたらしいの」
「ヤバー……」
「幸いクラスの男の子たちが寸前で助けたらしいんだけど、それで退学だって。経緯を偽ってこっちに引っ越してウチに通ってるらしいよ」
「うわぁ、超悲惨」
言葉とは裏腹に、2人はクスクス笑いのままトイレを後にした。
残された私は、1人項垂れるしか無かった。
どうして事実は捻じ曲げられ、過剰に脚色された嘘ばかりが自由に歩き回るのだろう。
とうに枯れたと思っていた涙が、再び視界を曇らせた。
結局、そのまま午後の授業に出ることもできずに私は学校から人がいなくなるまでそこでじっとしていた。
◇
私は下校中、一人暗い路地を歩いていた。
急に、何かが倒れる音がする。
音がする方向を見ると、猫が一匹、走り去る背中が見えた。
倒れたのは、一つの大きな荷物だった。
粗大ごみの日が近いのか、路地の脇にはゴミを置く場所が設けられ、古びた家具や家電、雑誌の束などが積まれている。
その中に、板状の黒いカバンが置かれている。
猫が通り抜けた拍子に倒れたのだろう。
私は、深く考えることもなく、けれど不思議と吸い寄せられるかのように。
そのカバンに手を伸ばす。
側面から出ている輪になった取手を握ると、手のひらにはズッシリと重みが伝わってきた。
そして、ジッパーを開けてみる。
中に居るのは、一本のギターだった。
真赤で、変わった形をしていて、そしてまだ綺麗だった。
「……捨てられるの?」
この粗大ごみの山の中にあるということは、これの持ち主はもう不要と判断し、廃棄を選択したはずだ。
けれど、その真赤なギターはまだまだ綺麗で、故障した様子も見られない。
「……同じだ。お前も、同じなんだ」
そのギターはきっと、大きな音を鳴らして、人前で脚光を浴びることを望まれて創られた物に違いない。
けれど、このギターの持ち主は廃棄することを選んだ。
使い込まれた様子が無いところを見ると、どうせギターの練習に挫折したか、飽きて新しいのを買ったかしたのだろう。
こいつ自身は、まだまだ輝けるのに。
勝手に周りの都合だけでゴミとして捨てられる。
道具なんだから当たり前かもしれない。
けど、だったら。
本人の都合なんかお構いなしに、好き勝手にレッテル貼りをして、虐げて。
ゴミのように捨てられる私は、役に立たない道具と同じだ。
そう思いいたった時、このギターが自分自身の分身のように思えて、急にいとおしくなった。
胸に抱きかかえるように持ち、そのまま歩く。
どうせ捨てるものなら、窃盗と咎められることも無いだろう。
いいや、どうせ私なんていくら善行を積んだところで、周りは好き勝手に揶揄するのだ。
もう、関係ないな。
そう思うと、私は確かな足取りで家に帰ることができた。




