第八十九話「本心からの気遣いと、興味本位なお節介」
「優木さんのお母さん、いなくなったんだって」
「お父さんは車で人を轢いて怪我をさせたんだって。お酒も飲んでいたらしいよ」
「今は無職で、お家で引きこもってるとか」
「ユウキサンって、……ヤバいよね」
「だよね。マジヤバくてウケる」
どうして人間は、人が触れてほしくないところばかりをベタベタと触り、他人事のくせに知ったような口をきき、お題目のような正論ばかりを並べるのだろう。
正論、正義、正解。
それを持っていれば、何をしても許されるのだろうか。
安全圏からその弾丸を撃ち続けることは、どれほど気持ちがいいんだろうか。
「ユウキサン、大丈夫? 大変だよね。辛いことがあったら教えてね」
その日は、文化祭の準備のために、班ごとにダンボールを切って工作をしていた。
クラスメイトの女子、お世話付きな保健委員の子が、まるで私が病人であるかのように声をかけてきた。
この頃の私はただ無心で、学校に居る時間を消化することだけに集中し、雨風を凌ぐようにじっとこらえて、事態がいつか好転することをただ待っていた。
お父さんはきっと元気になって、またお仕事を頑張れる。
お母さんはいつか帰ってきて、優しく私の頭を撫でてくれる。
そして私は、また学校でみんなから頼られる人気者になれるんだ、なんて。
無知な子供の私は、その為にただ耐え忍ぶということしか、手段が思いつかなかったのだ。
だから、学校みたいな集団生活の場では、以前のように笑う事が出来なくなっていた。
友人が話しかけて来ても、油断をすれば今私の喉元までせり上がってきた感情の濁流が溢れてしまいそうで、上手く言葉を出すことが出来なかった。
これまでも、クラスメイトが心配して声をかけてきたり、悩みを相談してほしいという申し出はあった。
けれども、私は打ち明けるための言葉を持っていなかった。だから沈黙してしまったり、なんでもないという回答で逃げてきた。
この日も、まともに取り合ったことなど一度もないのに、クラスの保健委員の子が、まるで私のよき理解者であるかのような顔で声をかけてくる。
「色々大変だよね。相談のろうか?」
彼女の顔を見て、私は思わず嘆息する。
彼女は人当たりも良く、偏差値も高い。
先生からも信頼されている優等生だ。
でも私は知っている。
彼女は度を越した噂好きであり、相談に乗る振りをしては他人の弱みを聞き出し、有ること無いこと吹聴する癖があるのだ。
「なにが」
思わず、私は吐き捨てるような冷たい声が出る。
「いやだって、大変に決まってるよね。大丈夫だから。人に言ってみるだけで肩の荷が降りることもあるって言うでしょ」
したり顔で言う彼女。お前に何が分かるんだと言いたい。
私自身が、今の状況にまったく理解が追いついていない。
お前はきっと恵まれていて、平穏無事な家庭でぬくぬく育ち、喉を通らない夕食を経験したことなど無いだろう。
そんなお前になにか相談をして、まともな答えが返ってくるなんて到底思えない。
「そう」
「ねえってば、ユウキサン。顔色悪いよ、本当に」
普段なら、二言も言えば引き下がるのに、今日はやけにしつこかった。
きっと、クラスメイトたちも私の近況が気になっていたのだろう。
知ったところで、どうせ好き勝手言いたいだけなのに。
そういう被害妄想もあったかもしれない。
だが、この当時の私は本心からの気遣いと、興味本位なお節介の判別を付けることが出来るほどの、心の余裕を持ち合わせていなかった。
「ほっといてよ! あなたには関係ないでしょ!」
私は、それまで溜まっていたものが、本当に些細なきっかけで爆発してしまった。
その拍子に、工作の為に握っていたカッターナイフが刃が出たまま放り投げてしまい、床に叩きつけられた。
カツーン、陳腐なプラスチックが跳ねる音が、静まり返った教室に響く。
突然の私の激昂に、その保険委員は悲鳴をあげ、仰け反り、尻から床に仰向けに倒れ込んだ。
ドスンという腰を床面に打ち付ける音が、教室に鳴り響く。
それまで遠目で私たちの様子を見ていたクラスメイトたちは、事態を何事かと驚きの眼差しで眺める。
私は激する頭が冷えるまで、彼女を仁王立ちで見下ろすのみだった。
「う、うあああ……」
バカな保険員は、なぜかボロボロと涙をこぼす。
さっきまで薄笑いで私の顔をのぞき込んでいたかと思えば、今は赤子のように顔を無様に歪ませていた。
私は視線をスッと落とし、立ち呆けたまま投げ捨てたカッターの刃先を眺めた。
次の瞬間、腋から背中に強い衝撃を受ける。
ほんの数秒の後、私は背後から羽交い絞めにされたのだと知る。
驚き、反射的に振り解こうとすると、教室に居た男子数名が私に覆い被さるように襲いかかり、私は腕を締め上げられながら床に叩きつけられた。
顔面が床を擦り、髪の毛が混じる埃が目に入る。
遅れて、顔から体にかけて激痛が走る。
床にひれ伏した私の上に、男子の全体重がのしかかる。
「先生呼んで! 早く! やばいぞ! ユウキが暴れてる!」
体が軋み、悲鳴を上げることもできない苦痛の中、教室の男子達が叫んでいる声が聞こえた。
程なくしてバタバタと足音が鳴り響き、駆けつけた担任教師によって男子達は振りほどかれ、私は犯罪者のような扱いで会議室に連行された。
背後の教室からは、「こ、殺されるかと思った……怖かったよぉ……!」という女の鳴き声が聞こえた気がした。
青い顔の担任に連れられ、あの日と同じように会議室に入る。そこにはもう、お母さんの姿は無い。
あからさまに困った風を装った咳き込みをした後、担任教師は手近なパイプ椅子にどかっと座り込んだ。
「ユウキ、その、なんだ。辛いのは先生も十分に承知しているぞ。何かあったら、相談してくれ。だがな、暴力は看過できないんだな」
腕を組み、何かを理解するようなジェスチャーで首を縦に振りながら、その人は言う。
「私、暴力なんてしりません」
私は痛む頬を押さえながら、淡々とした口調でそう告げると、その人はフゥッと息を吐いた。
「あのな、ユウキ。嘘はもっとダメだ。嘘だけは吐いちゃいけない」
「嘘なんて……!」
私は、努めて冷静でいようと思っていたが、語気が乱れてしまう。
「先生がその場に居なくて申し訳ない、だがクラスメイトたち“みんな”がそう言っていたぞ。高瀬も泣いていたし、可哀想だろう」
高瀬というのは、あの馬鹿で哀れな保健委員のことだ。
泣きたいのは、一体誰だと叫びたくなる。
「クラスメイトたちみんなが嘘をついているわけないだろ? 辛い時に誰かにキツく当たってしまう事はもちろん理解できるぞ。だからな、素直に謝ろう、な?」
その人は、さも親切であるような顔をして、私のことを不条理に追い詰めてくる。
違う、私は確かに激昂はした。
けれど、クラスメイトに暴力を振るった覚えもないし、クラスの男子たち大勢に踏み潰されて、教師から説教を受けるいわれもない。
そして、その主張を一切聞き入れてもらえないことが、私の足元をグチャグチャにされるかのような、立っていられないほどの苦痛を感じた。
「……もう、どうして……どうしてなの」
私は、その場にしゃがみ込み、溢れ出る涙を抑えることができなくなった。
担任教師は対処に困ったのか、気がつくと会議室を出ていき、しばらくして戻ってきた。
「ユウキ、と、とりあえずお家に電話して、お父さんに迎えに来てもらえることになった。今日は早く家に帰ろう、な?」
それから十数分の間に、お父さんは学校に迎えに来た。
仕事をせず家にいたのだから、電話を受けてからすぐに駆けつけたのだろう。
私は会議室に訪れたお父さんの憔悴しきった顔を見たとき、それまでどうやっても止まらなかった涙が一瞬にして止まるのを感じた。
そのまま、親子2人で、校内の廊下を抜け帰路に着く。
周囲からは、好奇、驚嘆、嫌悪。様々な感情を含んだ視線という名の矢を浴びせられる。
お互いの身を寄せ合うかのように、私とお父さんは歩いた。
学校を後にして、夕暮れ時の住宅街を歩く。
こんな荒んだ気持ちとは裏腹に、空は白々しい程の快晴で、燃えるような茜色に染まっていた。
「ねえ、お父さん。私が、悪いのかな」
「……どうだろう、わからない。すまない」
お父さんは、最近は何を聞いても『わからない』と答え、最後には『すまない』を添える。
今日のことも、返ってくる返答は分かりきってはいたけれど、私は聞かずにはいられなかった。
「私、なんにも悪いことしてない……誰かに迷惑をかけたり、欲張ったりとかしてない。普通にしてたはずだったよ……? なのに、なんでこんな目に……」
私の言葉はお父さんに向かってではなく、目に見えないこの世界を支配する何かに問うかのようだった。
しかし、それを怒鳴り声で遮ったのはお父さんだった。
「知るかッ! 俺が全部悪いって言いたいんだろッ!? 何も出来ない子供のくせに……!」
今まで溜め込んでいたものが急に破裂したみたいに、お父さんは激情に任せて叫んでいた。
私は驚き、戸惑いのまま目を丸くしてその顔を見上げる。
改めて見つめるお父さんの顔は、目の下は真っ黒に落ち窪み、頬はこけ、実年齢から二十歳以上老けて見えた。
しかしその目は、私と視線を交錯させると水を打ったように鎮まり、やがて落ち込むように首を落とした。
「……すまない」
お父さんはそれだけを言い、私はそれきり口を開かなかった。
やがて家に着こうかという道に差し掛かったとき、お父さんが小さい声で言った。
「……有紗、学校、変えようか」
その言葉はモゴモゴと曇っていて、一回ではうまく聞き取れなかった。
「引越しをしよう。もう、どこか遠くの、誰も知らない街に行こう」
私は、その言葉に黙って頷いた。
こうして、私たち親子は新しい土地での再出発を決めたのであった。
けれど、私はこの日から、お父さんの顔を見て喋ることができなくなっていた。
あの時の激昂した声。
それが脳裏に浮かぶと、恐怖と申し訳なさが込み上げてきて、うまく喋ることができなくなったのだった。




