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ノケモノロック  作者: やしろ久真
第四章「茜色の手紙」

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第八十八話「ターニングポイント」

 私の中学時代が、これまでの人生で一番のターニングポイントになるだろう。

 そしてそれは、私の思いも及ばぬところから、大きな力で人生のレールを大きく捻じ曲げるような出来事になる。


 私は中学生になると、クラス委員に立候補し、積極的に人前に立つようになっていた。

 勉強はあまり得意ではなかったけれど、周りからは明るい性格と言われ、友達も多かった。

 いつの間にか、実力は無いのに自信だけはある声の大きいヤツになっていたのだが、当時の私はそれに気づかず、人気者であると自惚れていたんだろう。


 文化祭の季節、クラス委員である私は出し物決めから準備の段取りまでを、持ち前の面の皮の厚さをもって率先して人前に立っていた。

 私のクラスの出し物は、お化け屋敷に決まった。

 それには沢山の段ボールを切り貼りして、教室内に迷路みたいな空間を作り出す必要がある。

 準備期間に入ると、みんなは夢中で工作をしていた。


「優木さん、こっちどうする?」

「有紗、次はなにする?」

「ちょっと、こっちみてー」


 クラス中から私を呼ぶ声がして、私はそれにニヤニヤと笑みを浮かべながら対応していたのだろう。

 人から求められること、私を必要としていることが、私自身を誉められているような気がして嬉しかったのだ。

 その実では、ただいいように使われていた側面もきっとあったのだろうが、そんなことまで気が付いていなかった。


 その時だった。

 夕暮れの教室で、放課後までクラスメイト達と教室に居残って工作を続けている時、担任の先生が教室に顔を覗かせ「ちょっと、優木はいるか?」と尋ねた。

「はい! 先生!」

 この時の私はやっぱり馬鹿みたいに、名前を呼ばれると嬉しがり、犬のように尻尾を振って先生の前まで駆けつける。

「ちょっと、職員室……じゃないか、会議室に来てくれ」

 男性の先生は、いつもは活気がよく体育の授業を受け持っていたので運動部のノリが激しい人だった。

 けれども、この時はやけに歯切れが悪く、何か調子が悪そうだったのが印象的だった。

 普通の話をするなら職員室か、いっそ廊下でも構わない。

 けれど、会議室まで呼びつけられるなんて何があったのだろうか。


 私は疑問符を頭に浮かべたまま、担任教師の大きい背中についていきリノリウムの床をコツコツと鳴らした。


 やがて、職員室の隣、普段は生徒は立ち入らない会議室へ着く。

 その中には、なぜかお母さんが居た。


「あーちゃん……」

「お母さん? どうしたの?」

 外出する際はいつも綺麗なブランド物の洋服を身に纏うのに、今日は部屋着のままだった。

 そして、その顔は明らかに狼狽していて、蒼白だった。


「いったいどうしたの?」

 私は、まだ何か笑える冗談を期待していたのかもしれない。

 けれど、お母さんの口をついて出てきた言葉で、私のそれまでの日常、『幸せの花園』はいとも簡単に崩れ去ったのだと悟る。


「お父さんが、逮捕されたの。飲酒運転で、事故を起こして」



 それからの日々は、記憶が曖昧でよく覚えていない。

 人は嫌な記憶を無意識の内に心の奥底にしまい込んでしまうのだろう。


 お父さんは、勤務中、車の移動時に交通事故を起こした。

 信号のため減速した前の車に後ろから追突し、その車は脇に逸れ電柱に直撃をした。

 乗っていたのは五十代の女性で、病院に運ばれ命に別状はなかったが、衝突の衝撃で首を痛めてしまい、入院が必要となった。

 そして、その時の首の痛みは事故後も続き、後遺症となったそうだ。


 警察の取り調べにより、お父さんの呼気を調べると、基準値を超えるアルコールが検出されその場で逮捕された。


 お父さんは、日常的に飲酒運転を行なっていたわけではない。

 その日は、前日に新たな取引先との接待となる食事会があった。

 夜遅くまで、飲食店を巡りお酒を酌み交わしていた。

 そして、お父さんは翌日の別件の取引のために、付近の駐車場に停めておいた車中で仮眠を取った。そうしなければ、約束の時間には到底間に合わなかったからだ。


 日常的なオーバーワークによる過労と、頭に残るアルコールの余波により急激な睡魔に襲われ、前方不注意となったお父さんは前方車両に気が付かず、事故を起こしたそうだ。


 幸い、任意保険の適用や、お父さんの飲酒運転には日常的に繰り返す悪質性はないことなどから、執行猶予付きの判決となった。

 しかし、程なく会社からは退職をすることになる。

 実質はクビなのに、お父さんは自主的に辞めたことになっている。

 職を失ったお父さんは、しばらくは口も聞けないほど憔悴していた。

 

 そこから立ち直るためには、かなりの時間を要することになる。

 そして、家のローンの支払いもままらなくなり、手放すことになった。

 格安のアパートに移り住み、生活は激変した。

 そして、私の身の回りも大きく変容していく。


 まず、お母さんが居なくなった。



 職を失ったお父さんはしばらくの間、失業手当をもらいながら再就職先を探す日々を過ごした。

 再び仕事に就くまでの間は、これまでの貯金を少しずつ切り崩しながら、貧しい暮らしをしなければならない。

 お母さんも、それまでは専業主婦であったがスーパーのパートとして働き始めた。


 しかし、お父さんは急激に変わる環境に慣れないのか、はたまた後遺症が残る被害者への罪の意識からなのか、情緒不安定であり就職活動もうまくいかなかった。


 ある日の夕食時、目の前の食卓にはお母さんの職場で廃棄になるはずだったお弁当が並ぶ。

 本来ならば廃棄の持ち帰りは禁止だったそうだ。だが、お母さんの職場の主任は、”理解ある人”だそうで、特別に見逃してあげてくれるという。

 お母さんは常に、なぜそのような施しを受けなければならないのか、惨めで恥ずかしいという趣旨の愚痴をこぼしている。

 パート終わりのお母さんと、学校帰りの私。そして就活中のお父さん。三人並ぶ食卓は、薄暗やみのままだ。

 不要な電気代は支払いたくないというお母さんの意向で、夜の八時までは灯りを付けない。


 その食事を前に、お父さんは急に嗚咽し泣き始めた。

 何がきっかけになったのか私には分からなかったが、項垂れるお父さんの顔から涙が滴り落ちる。

 私はただ、どうすることもできずにそれを見るだけだった。


 その時だった。

「もう耐えられない! どうして加害者のあなたが被害者ぶるの? 本当に泣きたいのはこっちよッ!」

 爆発したのは、お母さんだった。

 肌はガサガサ、髪はボサボサ。煌びやかなブランドの類を全て失ったお母さんは、乱暴に食卓を叩くと、食器が落ち割れることも気に留めず絶叫した。


「もう耐えられない! 私は帰るから!」

 それが、お母さんの最後の言葉だった。

 私は、私たちはみんな家にいるのにどこへ帰るのか、見当もつかなかった。


 そして、蒸発した。

 蒸発とは、液体が気化し消えて無くなること。

 その言葉を、最初に人間に当てはめた人は、ある意味で天才であり絶望するほど悪魔的だと思った。


 お母さんは私のことに目もくれずに家を後にすると、その後は一切姿を見せることはなかった。

 今でも、お母さんと顔を合わせることも、電話で話をすることも無い。

 諸手続きは呆気ないほどに淡々と終えられることになるのだが、子供の私には詳しい事は分からずじまいだった。

 お父さんは項垂れて泣きじゃくるばかりで、私はどうすることもできなかった。


 お母さんは、まるで子供が気に入らない盤面をひっくり返すみたいに、全てを投げ出した。

 最愛の人と誓ったはずのお父さんも、お腹を痛めて産んだはずの私も。

 彼女にとっては、気に入らない装飾品を破棄するように、一瞬で切り捨てると戻らなかった。

 

 そして、そこから私の学校での環境にも変化が起き始める。

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