第四十五話「最後の我がまま」
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夜の繁華街を抜けたタクシーは、やがて閑静な住宅街へ向かう。
夜も更け、帰宅以外の人が出歩くことも無くなった時刻。
私とミサキさん……というか、遥さんといった方が適切なのだろうか。二人を乗せたタクシーは黙々と目的地へ進んでいた。
どう切り出そうかと、窓の外を流れる街頭の明かりを目で追っていた時、
「あなたは、バンドの彼のお友達よね。なんだかごめんなさいね、振り回しちゃったみたいで」
と遥さんの方から話しかけてきた。
大人の余裕なのだろうか。
しかし、話がしたいと思っていたのは私も同じなので、ここはその呼び水にあやかることにする。
「いいえ。私は特に何もしていないですから。彼らも、いいライブが出来たんじゃないでしょうか」
「うふふ。そうね。とってもいい演奏だった」
カラリという遥さんに、私は気持ちが高まる。
……もう、口先の心理戦なんて、私らしくもない。ハッキリと聞きたい事を聞こう。
「どうして、あんなこと言ったんですか」
「ん?」
遥さんは、可愛らしい少女のように小首をかしげる。
「どうして、ジョニー……じゃなくて藤木さんに、『またライブが見たい』なんて言ったんですか」
私は、ライブハウスでの遥さんの告白から、ずっと胸の中で沸き起こる感情を彼女にぶつける。
「どうしてって? 私が演奏を聴きたいと思ったのはいけない事?」
「あんな言い方されれば、誰だって……!」
私は怒っているのだ。
遥さんの、ジョニーの気持ちを弄ぶような振る舞いに。
ジョニーは、少なからず遥さんに特別な気持ちを抱いていたはずだ。
それが恋愛感情なのかは、私にはわからないけれど。
少なくともライブを決意した背景には『俺が助けなければ』という気持ちがあったに違いない。
それなのに、遥さん自身には男性のパートナーが居て、この先の未来も約束されている。
ただ演奏を聴きたいだけなら、初めから結婚のことを打ち明けたうえで言えばいいのに。
そうしたら、ジョニーがこんな思いをすることもなかったはずだ。
「……あなた達から見れば、そうかもね。うん、藤木君には悪い事をしたなとは思うよ」
「だったら、なんで!」
「私の、最後の我がままなの。最初で、最後のね」
そういう遥さんは、遠い目をした。
私たちには出来ないような、まるで大人にだけ許された特権のような、遠い目をした。
私はその対応をされることに、ひどく苛立った。
ずるい。そんな言い方をされてしまうと。
子供のあなたにはわからないと、言われているようで。
この私の怒りはどうすればいいのだろう。
「好きじゃ、なかったんですか。藤木さんのこと」
「そんなの、決まってるじゃない」
そこで、遥さんは初めて強い感情を見せた。
後悔のようなものを、滲ませながら。
「初めて会った中学生の時から、彼は周りの子たちとは違ってどこか大人びていた。初めはただのそんな印象からで、次第に憧れのような気持ちが芽生えていて、気が付けば彼を追って軽音楽部に入部してた」
彼女の口から語られる、二人の始まり。
それがどういう経緯をたどって、今に至るのか。
私は何を聞いても納得なんてできないと思うけど、静かに聞き手に回る。
「今になって思えば、彼は目的がハッキリしていた。だから、大人っぽく見えたんだと思う。無邪気に目の前の面白い事に興味を示すんじゃなくて、目標はこれなんだってはっきりしてたから、行動が理にかなっていただけ。たぶん、中身は私と全然変わらない子供だったと思う」
クスリと笑う遥さんは、話を続ける。
「藤木君は、昔からずっと遠くを見てた。目標に向かって全身全霊で取り組んでいた。私なんか、すぐに追いつけなくなるぐらい、どんどん進んでっちゃった。彼に追いつこうと、必死にベースを練習したけれど、全然実力が足りなくなっちゃった」
そういわれて、彼女の左手の指先を見る。
クチナシの指みたいに、指先の皮が少し白く、硬くなっている。
もしかして、遥さんは今でもベースを触っているのかもしれない。
「彼はすごいスピードで駆けあがっていった。高校生のうちにバンドを組んで、ライブハウスで演奏を重ねるうちに、周囲の評価は確実なものになっていた。夢を追う彼の姿が好きだったけれど、その夢を実現させていくうちに、手の届かない存在になっていった」
高校生ぐらいから、頭角を示す人は現れ始める。
テレビで高校野球とかやってるけど、私と同い年の子には全然見えない、もっと大人のように感じる。
もしも、同じ学校に通う人がそんな存在になったら、見上げることしかできないのかな。
「やがて、私たちも大人になる。大学生になるころには、彼らは東京へ旅立った。私は、そんな姿を見送ることしかできなかった」
そういうと、遥さんは窓に額を付けた。
ガラスの冷たさが、心地よいのだろう。
「あの、未来のことなんて何も心配なかった、高校生の夏がこの先ずっと続けばよかったのにって、何度も思った」
彼女の声だけが、走行する車内のエンジン音に混ざって聞こえてくる。
私は、何も言えなかった。
「それなのに、あんな出来事でバンドが解散になっちゃって。彼が意気消沈して地元に帰っているからと言って、すぐに駆け付けることもできなかった。私も私で、社会人として人生をスタートさせたばかりだもの。その頃には職場で知り合った今の旦那とも付き合っていたのだし」
そこで、私は改めて思い出す。
ジョニーのバンドが解散した理由を知らない。
「あの、解散って」
「あれ、知らない? まあそうだよね、その頃はあなた達はまだ幼いころだもんね。少しはニュースにもなっていたけど、まあ藤木君の名前は出なかったし」
そうは言うけれど、遥さんは説明する気はないようだ。
「もちろん、今の旦那もとっても素敵な人よ。一緒に居ると、とても幸せ」
彼女は顔を上げ、こちらと改めて向き合いながら言った。
そこには、ミサキさんの姿はもう無く、大人になった遥さんの姿しかなかった。
「私だって、何が正解かなんてわからない。すべてを放り捨てて、彼の元へ走っていきたい気持ちが、胸の中に無いと言えば噓になる。でも、生まれてくる子供のことや旦那のことを考えると、これでいいんだって頭は言っている」
私の頭の中には、結婚式の誓いのキスの直前に、会場の扉を開け放ち花嫁を連れ去るベタなワンシーンが思い浮かんだ。
けれど、それは『お話し』の中だから許されること。
実際にそんなことやられちゃ、たまったもんじゃない。
本当に、たまったものじゃないのだろう。
「だからね、これが最後の我がままなの」
遥さんがそういうと、タクシーは目的地に到着したようで、停車した慣性の力で私は頷くような恰好になった。
窓の外は見知った景色。
私の家の前だ。
車のドアが開き、私を蒸し暑い夏の夜の空気がまとわりつく。
遥さんは決意の固い表情で、私を見送る。
決して形がはっきりしない、青春の思い出と入り混じって、消すことも忘れることもできなかった気持ち。
夏の夜空を一瞬で彩り、やがて残り香だけを余韻のように残す花火みたいな淡い恋心に、別れを決めた女性の顔。
けれど、形には何も残らないけど。確かにあったはずのその思いを。
彼も、彼女も、絶対に忘れられないように残すこと。
それが、彼女の『我がまま』だったのだろうか。
私は「ありがとうございました」とだけ言い頭を下げると、タクシーは扉を閉め発車した。
窓の中から、手を振る女性の顔は晴やかだった。




