第2話「暗転」⑤
ーー地面を蹴る。
そんなニーナの動きを察知したように、その進路に次々とガス入りの小瓶が投げ込まれていった。
「ぐっ…!!」
避けきれなかった毒ガスがもたらす全身を焼き尽くすような痛みに小さく呻きながらもニーナは走ることを止めない。
治ったはずの爛れが瞬く間に再燃し、体内に入った毒素は体の動きすらも鈍らせる。
それでも構わず、ひたすらに男の臭いを頼りに走り続けたニーナの眼前で、立ち込めていたガスの霧が晴れた。
「っーー!?」
「ーー見つ、けたっ…!!」
立ち込めていた紫雲を真正面から突き抜けたニーナの目に、焦りの表情を浮かべながらこちらを見ている男の姿が映った。
満身創痍の体に残る全神経を右腕に集め、鋼鉄の鉤爪が付いた手甲を振り被る。
一方毒ガスの中を突っ切ってきたニーナに面食らった様子の男だったが、その動揺はすぐに仕舞われ、迫る脅威に応じて手にしたナイフの切っ先が突き出された。
「シャァッ!!」「ーーっ…!!」
男の喉元を狙った爪と、それを迎え撃つナイフが激しい火花を散らしながら激突する。
全霊を込めて繰り出した鉤爪はしかし、やはり毒に蝕まれた影響で思っている以上に弱々しい一撃になっていた。
ガスの持つ強い毒性によって、剥き出しになっている体の箇所に炎症が刻まれるのはもちろん、体内に吸収された毒素が引き起こす神経系の不調は“天恵”によって引き上げられている身体能力でもカバーしきれていない。
それらの要因が重なった結果、不安定な軌道と上手く力の生き渡らないニーナの攻撃は一介の犯罪者であろう男の実力でも対応できるほど劣化したものになってしまっていた。
「しぶとい野郎だ。とっととくたばれよ!!」
「っ…! それはこっちのセリフなんだよネ~…。ぽんぽんぽんぽん、そのガス入り瓶いくつ持ってんの!?」
鉤爪の間合いまで接近し、男と激しく打ち合うニーナ。
対する男は、懐に入られることを嫌ってニーナに好きが生まれるたびに持っている小瓶を叩きつけて毒ガスを発生させ、ニーナが怯んだところで距離を取る、という戦い方に終始している。
ここまでの戦闘で自身に決定打がないことを悟った男にとっては、ひたすら毒ガスを浴びせ続け、最終的に致死量へと到達させることこそが唯一の勝ち筋だと判断したのだろう。
しかし、
「もう…ちょっと!!」「糞っーー!?」
既に、ニーナの体に焼き付いた傷口が治る様子はなく、むしろ男の得物による切り傷が増えた分だけ状態は悪くなってすらいる。
にも関わらず、伸ばした腕の刃は着実に男の喉元へと迫っていた。
それは、体の外側部分の修復を捨て、戦闘に必要な神経系の治癒へと力を集中させた結果であり、つまるところ、明確な戦闘経験の差によるものだった。
「あぁっ…!?!」
振り抜かれたニーナの鉤爪が男のナイフをその腕もろとも弾き飛ばす。
そして、次に来るであろう逃亡を予期し、反対の腕を一才の躊躇いなく動かして男の首を掴んだ。
「ああっ…があっ!!」
「はぁっ…はぁっ…。これで…やっと…!」
声にならない悲鳴を上げる男を見つめるニーナの顔は、荒い息の中でも確かな達成感に満ちていた。
ーーー今思い返せば、そこで満足してしまったことが一番の失敗だったのだろう。
異変を感じ取ったのは、胸に広がる達成感に小さく息を漏らした時だった。
相変わらず呻き声を出すだった男の、まだ腕から先が残っている左手が小さく振られ、弱っているにしては力強い仕草で男自身の懐を叩いてからだった。
「お前、何のつもりーーっ!!」
油断なく男の体へと首を回したニーナの鼻が、いい加減嗅ぎ慣れてしまった毒の、明らかに他よりも新鮮な臭いを知覚する。
次いで、男が身につけているローブの中から大量の薬剤が真下の地面に滴るのを目で捉えた。
ーー次の瞬間、外気に触れた薬品がもろともに揮発し、間近にいたニーナと男を巻き込みながら爆発的な勢いで紫のガス雲を形成した。
☆
「…ーーーゲホゲホッ!! …………あ……?」
内臓全てを吐き出すんじゃないかと錯覚するほどの激しい咳で我に返る。
膝をついた状態で辛うじて起きていた体はその衝撃に耐え切れず、ろくに受け身も取れない状態で前のめりに倒れこんだ。
とにかく正常な呼吸を、と無意識に周囲の空気を吸い込んだニーナは、そこではじめて肺に取り込んだ空気にほとんど毒素が含まれていないことに気がついた。
「……何、がーーーうっ…!?」
ゆっくりと目を開き辺りを見回す。そんな程度の動きでも酷く脳が揺れたように感じ、加えて吐き気も込み上げてくる。しかし、それらをどうにか流しながら開いた視界には、何事もなかったかのように平坦な集合住宅の屋上が広がっていた。
そこには先程まで戦っていたはずの男の姿はもちろん、あれだけ撒き散らされていた毒ガスの紫煙すらも見えない。
…いや、毒ガスについては夜の闇に紛れてほとんどその姿を捉えられないだけで、その余韻はニーナの鼻が感じ取ることができる。
そこでようやく、毒素が霧散してしまう程度の時間、ニーナは意識を失ってしまっていたらしいということに思い至った。
「ぐっ…そうだ……、メル、は…」
追い詰めたはずの男の姿はなく、ろくに身動きを取ることもできないニーナが無事なところを見ると、自身を狙う遠方からの狙撃手も退散してしまったと見て良いだろう。
自分の中にある冷静な部分のそんな分析を頭の片隅で聞きながら、何かに急かされるようにメルとユリウスの姿を最後に見た通りが見える位置まで這いずって進む。
「ーーーっは…」
もはや外傷を治す余力もないため、ニーナが進んでいった地面には体中に刻まれた生々しい傷から滲むんだ血が黒い跡となっていく。
そんな有り様でようやくたどり着いた屋上の端でニーナを出迎えたのは、満身創痍の彼女をあざ笑うかのように、この一時を思うままに謳歌してるだろう冒険者たちが作り出すギルド・シティの夜景だった。
ニーナは望まぬ歓迎を見せる冒険者の街に無感情な瞳を向けてから一度小さく息を吐くと、落ちればひとたまりもない高さの住宅の屋上から躊躇なく上半身を乗り出してあの裏通りへと視線を落とした。
ーーーいつの間にか天頂に登り切った十日夜の月に照らし出された裏通りは、つい先ほど見た時とは異なり、青白い月光が静かに降りていた。
照らし出された通りはいかにも裏通りといった風に殺風景で人気は無い。 そして当然、あの二人の姿も既にどこにも見当たらなかった。
「…くっそぉ……」
痛む体と空虚な敗北感を抱えたニーナの悔し気な嘆きは、夜の街へと飲まれ、消えていった。




