第18節 第2話「暗転」①
「ーーーーん……」
深い水の中から浮上するように、完全に失っていた意識がゆっくりと覚醒する。
分厚い膜のようなものに遮られ、あらゆる感覚が鈍らされていたような感覚が薄まっていくにしたがって徐々に意識がはっきりとしてくると、まず初めに明確に認識したのは脳の中に響く断続的な鈍痛だった。
「っ…なん、これ……?」
依然として思考には霞がかかっており、無意識に開いた口から出た言葉は麻痺してしまったように要領を得ていない。
ただ、少しずつ回復してきた五感から、今メルがいるのは薄暗くやや広い空間で、自分の体は座らされている椅子へきつく繋がれいることが分かった。
試しにいまだに上手く力の入らない体を叱咤して拘束から逃れようとしてみるが、言うことを聞かない手足では重量感のある金属製の枷が僅かに揺らすくらいの成果しか得られなかった。
「っ…?」
明らかに尋常ではない状況に漠然とした危機感を抱いていたメルだったが、不意に、自分の正面で人の気配が立ち上がったことで半ば強引に自身の頭を持ち上げた。
「……だ、れ?」
ゆっくりと、薄闇の降りた床の先に視線を向ける。やがて、声をかけた先から静かに床を踏みしめる足音が近づいてきた。
「ーーーまさかとは思ったけど、本当に目が覚めたんだ?」
「っ!?」
※暗闇の中から現れるユリウスをその服装からぬるりと描写
頭上から降り掛かってきた聞き覚えのある柔和な声に、メルは弾かれたように顔を上げる。
俯き加減の位置まで持ち上げるのがやっとなほど重たい頭を必死に支えていたメルの視界に、一人分の脚が現れた。
その人物がその場にしゃがみ込み、低い位置にあるメルの顔を覗き込んできたことで、メルはようやく相手が誰なのかを確かめることができた。
「え……ユリ、ウス…?」
「やあ、メル。さっきぶりだね。それにしても妙だな…。事が終わるまでは目が覚めないよう調整したはずなんだけど、もう回復するなんてね」
目を見開いて驚愕の声を漏らすメルに、よく知る仲間であるはずの青年、ユリウスは、不自然なほどいつも通りの雰囲気をまといながら穏やかに微笑んだ。
☆
「何なの、これ…。冗談だったら…わら、笑えないよ?」
「冗談なんかじゃないよ。メルにはちょっと死んでもらおうと思って、ここまで来てもらったんだ」
「なん…っ!?」
その答えがあまりにも端的で、メルは驚きで言葉を失ってしまう。
そんなメルの様子に反して、ユリウスは翠色の瞳に好奇の光を宿しながら興味深そうに彼女の全身を眺めている。
「死んでって…私を殺すってこと、だよね? どうしてそんなこと…!」
「どうしてって言われると…うん、本当は目を覚ます前に終わらせる予定だったからいい答えを持ってないんだけど…」
顎に手を当てて考え込む様子のユリウス。と、
「ーーおーい、ユリウスさんよ。ちょっと邪魔するぜ」
「ん?」「っ…!?」
ユリウスの背後にあるドアが開き、外から大柄な男ら数人が入ってきた。
その内の一人はどういう訳か人を背負っており、部屋に入ってくると同時にその人物を床へと投げ捨てた。
「ユリウスさん、こいつが施設に侵入しようとしてたんです」
「で、指示もらってた通り意識を奪ってこちらに」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
そう言うと、ユリウスは一度立ち上がってメルのそばを離れ、倒れ込んだ、恐らく冒険者であろう人物へと歩み寄った。
だが、メルの方は意識のない様子でぐったりとしている冒険者よりも、その背後で部屋の壁沿いに並んでいる男たちの方に釘付けになっていた。
「…ユリウス、その人たち…なんで?」
「あん? なんだ目ぇ覚めてんじゃねぇか」「ほ、本当だ…! ユリウスさん、良いんですか?」
僅かな震えをはらんだメルの声に反応して男たちの意識がメルへと向けられる。
無精髭まみれの不衛生な顔に、大雑把に頭の後ろでまとめられた伸び放題の髪。革や金属の入り混じったちぐはぐな衣服と装備は恐らくあちこちから剝ぎ取った物だからだろう。
メルは、向かい合っている彼らの顔に確かな見覚えがあった。
「なんで、事件の人たちと一緒にいるの…!?」
メルは、どこかも分からない場所で監禁され、いつ殺されてもおかしくない状況にあることも忘れ、ただ叫んでいた。
仲直りするために再度レイの元を訪ね、しかし結局物別れに終わってしまったあの日。
冷静さを失って独り隔離区画へと駆け出したメルは十数人の男たちに囲まれ、そこで集団による暴行を受けた。
ーーーそこにいた男たちだったのだ、今ユリウスと共にいる人物たちが。
驚愕からそれ以上声の出せないメルに変わってその声を受けたユリウスが顔を上げる。そして、目を見開くメルの前で、この明らかに尋常ではない状況にあってなお、いつもと全く変わらない柔和な笑顔を浮かべながら口を開いた。
「ボクが彼らの逃亡を手引きしてるからだよ。むしろそっちが本命で、君のことはついでかな」
「……!!」
「そういうわけだからあまり君に構っている時間は無いんだ。じきにボクたちが隔離区画を抜け出していることも露見する。そうなる前にできる限りの準備をしておかなきゃいけなくてね。戦力を増やすためにこうやって付近の人間を捕まえて色々調整してるんだけど…」
ユリウスは、何も言えずにいるメルにそれ以上関心を示すことはせず、すぐに足元で寝かされている冒険者の身元を確かめる作業へと戻った。
「さて、どういう職業の人が捕まったのかな、と…」
それまでと全く変わらない柔らかな雰囲気で、冒険者の身に付けた紺のローブの上から巻かれた縄による拘束はそのままに頭を覆っているフードを外したユリウス。
だが、その中から現れた冒険者の姿を確認した途端にそれまでまとっていた雰囲気微かに陰ったことにメルはユリウスから立ち上る空気から敏感に感じ取った。
「これは…いやーー」
ほんの一瞬だけ覗いたユリウスの動揺する姿は瞬く間に元の平静な彼へと戻ってしまう。
しかし、ユリウスがそうなるのも仕方がないことを、メルは自身の目に映った、フードの中から溢れ出ている白髪からすぐに理解することができた。
一方ユリウスはごく自然な動作でゆっくりと立ち上がると、背後に並ぶ男たちの方を向いた。
「うん、問題ないと思う。助かったよ」
「そうか、そりゃ良かった。じゃあいつも通り捕まえた連中を入れたところに運んどくぞ」
笑顔で告げるユリウスに男の一人が寝かされている冒険者を抱え上げようと踏み出すが、それを制するようにユリウスが男の体の前に手のひらを差し込んだ。
「いや、君たちはすぐに持ち場に戻っておいてほしい。そろそろギルドが動いてもおかしくない頃合いだから」
「そ、そうか? まああんたがそう言うならいいか。よし、行くぞ」
男は珍しく積極的なユリウスの行動にやや違和感を感じた様子だったが、その疑問も特別気にするものではないと判断したらしい。
すぐに頷き返し仲間を連れて部屋から出て行ってしまった。
男たちが完全にいなくなるのを確認したユリウスは、やや深いため息と吐きながらゆっくりとメルと、そして寝かされている冒険者のいる方に振り返った。
「…全く、どうして君がこんなとことにいるのかな?」
普段のユリウスとは異なる、やけに感情の乗った声色の言葉が彼の足元に寝かされている冒険者へと向けられる。
その言葉を投げ掛けられた人物はしばらくの間黙していたが、やがてゆっくりとその身を起こし、真っ直ぐと自身の目の前に覆いかぶさらんばかりに立つユリウスの方を見上げた。
「…その質問に答える意味、あるのか?」
そう聞き返した冒険者の声は思いのほか若かく、しかし年齢に反してひどく落ち着きのある空気をまとっている。
それは、間違いなく聞き覚えのある、メルにとっては実にひと月ぶりに耳にする、なにより再び聞くことを切望していた少年の声だった。
白髪の隙間から覗くレイの碧い瞳にひたと見据えられ、ユリウスは感情の見えないその目を微かに細めた。




