第62話 幻は、幻だから
明人の頭骨を砕く、石の衝撃が――なかった。
「…………?」
明人がおそるおそる目を開くと、ホフニが口を半開きにしていた。
その視線はシワだらけの乾いた手に張りついている。
なんとその手の中で、石が砕けていた。
「なぜだ。悪魔どもはその力を振るえぬはず」
あのホフニが困惑していた。
彼もなにが起こったのかわからなかったのだ。
(なにが起きた?)
そう思ったとき、ふと視線を感じた。
ステージの下、オリの中からだ。
千星が明人を見ていた。冷や冷やした表情で、それでも明人にウインクした。
それでわかった。
(あの盾か!)
闘争界でも使っていた女神の盾だ。
おそらく、明人が頭を砕かれる直前に、彼女が展開したのだろう。
ホフニに気づかれないよう、ごく小さく、明人の頭のすぐ近くに、目立たないよう。
あの盾なら、どれほど弱体化していたとしても原始的な石ごときを防げないはずがない。
短時間とはいえ、クイーンとなった透良の一斉射撃にさえ耐えた盾なのだ。
「まさか悪魔封じが緩んだのか? そのような兆候はなかったが……」
見当違いのことをつぶやいて、ホフニがオリのほうをにらんだ。
ただし、にらんだ先は千星ではなくベルだ。
本来の力が振るえるようになった場合、ホフニにとってもっとも危険な存在はベルであろうから、これは間違いではない。
だがそれは、注意が逸れた、ということでもあった。
明人はホフニの手の中の、割れた石を見た。
石がすっと消えていく。
ホフニは気づかない。
無理もない。予想外の異常事態が起きている中、割れて役に立たなくなった石に、誰が注意を払い続けるだろうか。
ついに、石がそのまま消えた。
「お、おい! また石が消えたぞ!?」
人々が明らかに動揺した。
これまでとは違う、深刻なざわめきが広場に蔓延した。
「しまった!」
ホフニが、空になった己の右手をはっと見た。
その顔が初めてひきつっていた。
「やっぱり何かおかしいんじゃないか……?」
「まさか、あの子が言うとおり、本当に幻?」
ステージの下、観衆たちが次々に不安げな顔で話し始めた。
(これだ!)
明人は身をよじって強引に立ち上がった。
ロープを引っ張る刑吏に抵抗しながら叫んだ。
「見たでしょう! 幻は、幻だから、消え失せるんです! 石が二度も消えたのがその証拠です!」
「ぬっ!」
ホフニが狼狽した。
すぐに自らロープを引いて明人を後ろに引き倒し、彼も民衆に叫んだ。
「ええい、聞くな! 信じよ。私を疑ってはならない!」
「え、いや、でも、今、たしかに……」
最前列のクジャク羽つきヘルメット男が、心細げにつぶやいた。
あらためてその格好を見てみれば、彼は頭をクジャク羽で飾っているだけではなかった。
ギラギラした鎧も着込み、ゴテゴテした剣も佩き、宝石だらけのアクセサリーもこれでもかと身につけている。この世界の財物にどっぷりだ。
その全てが、無価値な幻だったら。
そう思うだけで泣きそうな顔になるのも無理はない。
(もう一押し……もう一押し足りない! もう一押し、なにか……)
そう思った明人が周囲を探し始めた、そのとき。
クジャク羽の男の二つ隣にいた、つば広なとんがり帽子を被った者が、目深にかぶっていた己の帽子をそっと脱いだ。ショートボブに整えた美しい金髪が流れ落ちた。
(えっ!?)
目を見張った。
ホフニもハッとした。
なんと顔を見せたのは、光の神の預言者――サラだ。
ホフニが眉をひそめた。
「あやつ、いないと思ったら。だが何故そこに? ……まさか!?」
なにに気がついたのか、憎々しげに歯を食いしばった。
その顔からはいつもの温厚そうな仮面が外れている。
サラが帽子を見下ろした。
すうっと、その手の中の帽子が半透明になっていく。
そして、その透けた帽子を、サラは高くかかげた。
「見て! 大変や! 私の帽子が本当に消えてく!」
かかげられている薄れた帽子に、人々の視線が一斉に集中した。
その場の人の、全ての目が、たった一つの消えかけた帽子に吸いついていた。
「やはり奴も預言者だったか! させん!」
ホフニがかかげられているとんがり帽子を指さした。
おそらく消えていくとんがり帽子を戻そうとしたのだろう。さきほど明人に石を消させないようにした要領だ。
だが、とんがり帽子の存在が戻ることはなく、さらに薄くなっていった。
あわててホフニが指を何度も突き出した。
しかし帽子はいよいよ見えなくなっていく。
「なぜだ、この私があのような小娘に劣るはずが……! あ、まさか自作か!?」
(なるほど)
明人も合点がいった。
ホフニはいわばこの虚栄界の管理者だ。
虚栄界のアイテムを彼の妨害を乗り越えて消すのは難しい。明人が石を消せなかったようにだ。
だがアイテムの由来が虚栄界でなかったらどうか?
その答えが今の光景だ。
おそらくあの帽子はサラの自作なのだ。あまりに精巧なイミテーションだから、とても偽装とは思えないけれども。
ふっ、と。
最初から存在しなかったかのように、皆が見る前で、帽子が消滅した。
「おおお……っ」
人々が一斉にどよめいた。
なにも持たないサラの白い手を穴の空くほど見つめ、口をぽかんと開けていた。
「……消えた! やっぱり消えたぞ!?」
「じゃあ、まさか、本当!? これ全部幻なの!?」
「じょ、冗談じゃない。こんな詐欺の方法はどんなマニュアルにもなかった!」
人々があわてて自分の装備を確かめるようにひっぱったり叩いたりしはじめた。
「おのれ、嘘つき女め。部族ゆかりの者だからと情けをかけたりせず、さっさと殺しておくべきであった……!」
ホフニが歯ぎしりした。
だがあの蠅の姿に戻ってサラを粛正しようとはしなかった。
きっと彼の欲がためらわせるのだろう。
衆目の前で蠅の悪魔の本性をさらけ出すことは、大神官であることを捨てるも同然だ。
「嘘だろオイ……!」
サラの隣に立っていたフルフェイスが、不安そうな様子でメットを何度も触ってたしかめはじめた。
その様子をサラがじっと見つめた。
ふたたびメットが消えていった。
「うわあああああ……!」
男が消えはじめたメットをかかげ、今にも泣きそうな大きな声で、周囲に言い聞かせるようにわめいた。
「幻だ。本当に幻だ。本当に幻だあ!」
メットの下から現れた素顔を見て、明人はあっと声を出しそうになった。
(演技派だよ)
苦笑した。
なんと、幸十であった。
気がつかなかっただけで、本当は二人ともずっとそこにいたのだ。
もちろん処刑に割りこむスキをうかがってくれていたのだろう。
そして、途中で明人のやろうとしていることを察し、アドリブで一芝居打ってくれたのだ。
「騙された! 騙されたんだあ!」
そう大声で周囲に言い聞かせる幸十の、高くかかげたメットが、やはり人々の見る前で消滅した。
またも人々がどよめいた。
ただし、今度はその声に諦めの響きが混じっているように思えた。
「嘘だあ! 嘘だ嘘だ嘘だ! そんなはずない……!」
ヒステリックな大声があがった。
叫びだしたのは、幸十のメットが消えるところを真横で見ていたクジャク羽の男だ。
彼は今にも泣きそうな顔で、己の持つ剣を鞘から抜いた。
キラリと光るその黄金の刀身を見つめて、安堵の笑みを浮かべた。
……が、それもつかの間。
男の目の前で、ギラギラした高そうな剣が、すうっと透き通っていった。
今度は、サラは見ていなかった。
「あっ。あ、あああああー……。幻だ。本当に幻だあっ!? うわああああ……!」
消えていく剣を穴の空くほど見つめながら、大の男が顔を赤ん坊のようにくしゃくしゃにした。
悲嘆に暮れて泣き叫ぶ声は、幸十の芝居がかった声よりもよほど大きかった。
(いった)
確信した。
人々の不信が限度を超えたのだ。
アルバが予言したとおり、人々の心が揺らぎすぎて、心で創ったこの世界までもが揺らぎ始めた。
皮肉なことに、クジャク羽の彼が泣きわめくほど剣が消えていく速度は上がった。
そして、ついに消えた。
泣き叫ぶ男の被っている、クジャク羽のヘルメットも続けて消えた。
少ない髪がペタンとくっついた貧相な頭がむき出しになった。
その哀れな様子を隣で見ていた別の男が、ハッと気がついて、乱暴に己の銀色の帽子を脱いだ。
帽子はまさに消えていくところであった。
男が大きく目を開き、悔しそうに口の両端を下にゆがめた。
「ちっ、ちくしょう!! 本当にイカサマじゃないか! 騙されたあっ!」
男は帽子を地面にたたきつけようとして、しかし、それすらやり損ねた。たたきつけるまえに帽子が消えたのだ。
むなしくその腕だけが空を切った。
彼らだけではない。他の人々の装備品もどんどん消えていった。
けばけばしい派手なドレスが消える。
ごてごてしたゴツい指輪が消える。
巨大な真珠をつらねた首飾りが消える。
「ぬうっ。多すぎる!」
ステージ下を指そうとするホフニの人差し指がフラフラさまよった。
直そうにも、あちこちで財物が消えているのだ。彼の指一本で差し切れる数を優に超えている。
「嘘よお! 嘘、嘘っ!!」
「いやあ! 消える、消える! 消えるう……っ! いやああああ!」
絶叫が絶叫を呼ぶ。
混乱が混乱を生む。
人々の、多大な時間をかけて働き、工夫し、助け合い――時に盗み、騙し、死に追いやりまでして、手に入れた財物が、すべて消えていく。
もう明人が言葉を発する必要はなさそうだった。
波を打つように、あらゆる物品が次々と消えていった。
中にはぼうっと突っ立っているだけの人間もいた。
装備品が消えていっているのに、まったく動揺せず、感情も感じさせない。
と思うと中身の人間ごと消えた。
サクラの人形だったのだ。
「……こういうこと、か」
あっけにとられて、明人はぽつりとつぶやいた。
眼下に広がる光景は狂乱そのものだ。
アルバの推測は正しかった。たしかに言葉が人々の心を揺るがした。
だが一方で、ホフニの指摘も正しかったのだ。
人々が最初に明人を拒絶したのも無理はない。
幻は、幻だから、消えうせる。
それはその通りだが、この世界の人々にとっては、その幻こそが己のすべてだった。
世界が幻であることを受け入れることは、彼らにとって人生を失うことと同義であったのだ。
泣き叫ぶ人々を見下ろしていたホフニが、指さすのをやめ、手を下ろした。
「だから、信じよと言ったのだ。愚か者どもめ」
苦り切った顔で吐き捨てた。
だが、これはホフニが自ら招いた事態でもある。
彼の言う『愚か者ども』を誘惑して集めたのは、彼自身なのだから。
大地が揺らぎ、大きく響いた。
(これは!)
明人は思わず縛られている手を握った。
この大地の震えには憶えがある。世界が崩れるときの振動だ。
ついに虚栄界そのものが限界に達した。
後ろでバラバラと音がした。
高くそびえる城壁から土の塊がボロボロ落ちていた。やがて土煙を上げながら崩落しはじめた。
ホフニが振り返り、
「おおお……!」
干からびた喉からうめき声を漏らした。
その視線は、崩れはじめた城壁に吸いつけられたように動かなかった。
その目の前で、町を囲む高い城壁が全面にわたって崩壊し、消えていった。まるで爆破解体されるビルのように。
いや、それだけではない。
土煙の向こう、露わになった町もまた、同じように崩れ始めた。黄土色の建物が、けばけばしい看板が、やかましいノボリが、すべて砕けて消えていく。
「おおおお……なんということか。なんということか! 崩れる、崩れていく、私の都が、私の栄光が、私の呪いが……っ!」
無念に震える絶望の響きが明人の耳に届いた。
ホフニのかさついた手はぶるぶる震えていた。
明人の手をくくっていたロープが消えた。気がつくと、ロープの先を握っていた人形ももういない。
(今のうちだ)
明人はがくぜんとしているホフニから身を離し、ステージの端、オリのほうへと移動した。
と、ガコンッ、と今度は盛大な金属音がした。
見ると、二つ折りにひしゃげたオリの扉が、勢いよく地面を転がっていた。
ベル、アナ、千星の三名を閉じ込めていたオリの扉だ。
空いたオリの中では、ベルとアナが兄妹仲良くヤクザキックのポーズをとっていた。
蹴り開けたのだろう。二柱の力が戻ったのだ。
そう言えば、世界が崩れだしたためか、車酔いにも似た気分の悪さがなくなっている。
「明人!」
「明人くん!」
千星たちが岩の上に登り、明人のところへ駆け寄った。
「みんな!」
「大丈夫!? 怪我はない!?」
「おかげで無事。ちーちゃん、さっきは守ってくれてありがとね」
「ううん。うまくいって良かった」
先ほど明人が絶体絶命だったときのことを思いだしたのか、千星がにじんだ涙をそっと指で拭った。
「見事だった、明人」
ベルがぽんと明人の足を叩いた。
「ベル」
「学ばされたぞ。お前は偽りと戦うことを最後まで諦めなかった。しかもついに打ち勝った。……ああ、そうでなくてはいかんのだ。私ももう恐れるまい」
もう一回、ベルはぽんと明人の足を叩いた。
同じような仕草だが、最初のそれとは何かが違った。
なにがしかの決意が秘められている、そんな気がした。
「おおい、あっきー!」
「みなさん、無事ですか?」
また声がした。
幸十とサラだ。ステージによじ登り、明人たちのところに駆け寄ってきた。
「ゆっきー! それに、コーエンさん」
顔は何度か見たことがあるが、明人がサラと話すのは初めてだ。だからすこし固めに言った。
「ええ、コーエンです。そういうキミは古宮君やね。ゆーちゃんの昔からの親友って聞いているよ。よろしくね」
「よろしく。あと、ありがとう。おかげで助かった」
「どういたしまして。天の神の預言者を死なせたら私らも助からんって強う言われていたから、こっちも必死やったわ」
訛りのあるイントネーションでそう言って、サラが笑顔を見せた。
「おう、それだ。あんなこと企んでたんなら先に言っとけ! 心臓に悪いんだよ!」
幸十がばんと乱暴に明人の肩を叩いた。ただし笑っている。
「痛いって。しょうがないだろ、思いついたのが直前だったんだから」
「それでもだよ!」
幸十が明人の肩をバンバン叩いた。
言っていることが無茶苦茶だが、これが彼なりの喜びかたなのだ。
だが気が抜けかけたそのとき、ゾッとする不吉ななにかを明人は感じた。
「――っ!?」
はっとして、そのなにかのほうを見る。
そこには、ステージの真ん中で立ち尽くすホフニがいた。
彼はもう呆然としていなかった。
無表情であった。
無表情で、嘆きにひたる観衆に背を向け、偽シャイロウが崩壊する姿を眺めていた。
その彼の視線の先、はるか遠くで、丘が崩れはじめた。
丘の上の巨大なホフニ像が、神殿が、共に崩れ去っていく。
そして、土煙とガレキの向こうに全てが消えた。
その終末の様を見届け、この虚栄の都の大神官はぽつりとつぶやいた。
「ここまでだな」
あきらめたようなそのセリフは、だが力をなくしてなどいなかった。
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