第37話 逃避行
「急げ急げ。千星とアニーを戦わせたくない今、モンスターに囲まれるのは困る」
とベルが先導しながら明人を鼓舞した。
湿地帯からの逃避行である。元来たジャングルの道をたどっている。
うっそうと茂る濃緑の葉にさえぎられ、日の光はあまり届かない。しかし湿気が強かった。汗が乾かず、熱が体に籠もった。
「古宮くん、だいじょうぶ? その……、重くない?」
おずおずと、明人のすぐ耳元で千星がささやいた。
「大丈夫。早池峰さん、ぜんぜん軽いから」
明人はそう強がって見せた。
動けなくなった千星を背負って歩いているのだ。
実のところ明人もそこまで体力に余裕があるわけではない。
しかし、千星が歩くのも辛いほどのダメージを受けたのは、明人をかばって透良の銃撃を受けたせいである。泣き言は言えない。根性あるのみだ。
だが、
(むしろ別の意味でヤバい……!)
背中に千星の柔らかい胸や腹部が当たるのを感じながら、明人はこっそりツバを飲んだ。
しかたないのである。
背負うとなると、千星の両足を自分の両腕でかかえ、かつ彼女の腕が首にまわされる体勢になる。
どうしてもそうなるのである。
しかも暑いせいでじっとりとお互い汗をかいている。
これがまずい。服が濡れる。
結果、素肌を合わせているかのような密着感と温感が生じるのだ。
胸の鼓動が自覚できるほど激しい上、息まで荒くなっているのは、実のところ疲れのせいではないかもしれない。
(落ち着け俺。変なことを考えるな俺。頼むから)
明人は己をおおいに叱咤した。
下心というものは思わぬほど伝わるものだ。
こんなことで千星に軽蔑されようものなら心が折れかねない。
ワニヘビことエグゼキューショナーから千星を助けた際も、明人はしばらく彼女を抱きかかえていた。
むしろ格好の大胆さという意味では、あのときのほうが上だったろう。
だが、あのときは必死だったので千星の女性らしさにうつつを抜かすことはなかったのだ。
ところが事態がある程度落ち着いた今、意識に余裕ができてしまった。幸いなのか不幸なのか、実に判断が悩ましい。
「そっか」
千星はどこか嬉しそうにそう言った。
克己心を試され続ける明人の複雑な心境を知ってか知らずか、
「力持ちなんだね」
と己を預けるようにして頬を明人の後頭部にすりよせた。
新手の試練であろうか。
「どうしたの、急に」
明人は務めて落ち着いて聞いた。
だが務めきれなかった。
初めて経験する千星の甘えた仕草に、胸がバクバクであった。
「おんぶしてもらえるの、悪くないなって」
「小さいころは割としてもらわなかった?」
意外に思って、そう聞いた。
明人もそこまで家族にべったりだったわけではない。
しかし幼いころは母によく背負われたと記憶している。いっしょの時間がぐっと減ったのは、明人が小学生になったころからだ。
「ぜんぜん。お父さんもお母さんも、子どもにかまいたがる人じゃないし」
そう言う千星の声には、どことなく寂しげな響きがあった。
「そうなんだ……」
明人にとっては思わぬ返答であった。
欲しい愛はすべて得られそうな彼女が、本当は寂しく感じていたなどとどうして思うだろうか。
千星が美人であり続けるのは、生まれ持った容姿や競争心もあるかもしれないが、そのあたりにも最初の動機があったのではないかと思った。
「せっかく娘が早池峰さんなのに、もったいない。俺ならかまいすぎるくらいかまっちゃうけどな」
本心からそう言った。
千星の幼いころならさぞや愛らしかったことだろう。
そんな娘を持ちながらかまいたがらないとは、ぜいたくな親もいたものだ。そう思った。
「……ちーちゃん、でいいよ?」
千星がぽつりと言った。
「え?」
「私の呼び方。早池峰さんじゃなくて、ちーちゃん、って。友達はみんなそう呼ぶし」
「あ、あー。あの、なるほど?」
明人は自分でも思わぬほど緊張してしまった。
女子をあだ名で呼ぶくらい、これまでも普通に何度かしたことがあるし、どうということではない。
ないのだが、憧れの女の子が相手となると話は別だ。
「了解。じゃあ、ち、ちーちゃんで」
「やだ、照れすぎ! こんなの普通だから!」
恥ずかしさがうつってしまったか、後ろから聞こえる千星の声も動揺していた。
「あ、いや、うん。ごめん」
「いいってば。それより、そっちは?」
「え?」
「呼び方! 『古宮くん』ってこっちだけ名字で呼ぶのも微妙でしょ?」
千星もなんだか若干テンパっていた。
「あ、ああ。よく『あっきー』って呼ばれてるけど。名前が明人だから」
「あっきー。ううん? あっきー。……あっきー、かあ」
んー、と少し千星は考えている風であった。
「明人くん、でいい?」
その優しい響きに、心臓がひときわ大きく鳴った。
背負っている千星にも聞こえたのではないか、と明人は一瞬本気で心配したほどだ。
我ながら反応しすぎと思ったが、仕方ないだろう。
千星に夢を見る校内の男子たちの中に、彼女から優しく名前を呼ばれて心臓が高鳴らない者はいまい。いたとしたら、うれしさのあまり心臓が止まってしまった者くらいだろう。
「うん、じゃあそれで」
明人は落ち着いてそう言ったが、
「だから照れすぎ!」
落ち着けていなかったようで、そうツッコまれた。
しかし千星も声がうわずっていたからお互い様だろう。
「ちょっと明人くん。ちょろすぎない?」
「そんなことないよ」
明人はちょろいほうではない。
少なくとも自分ではそのつもりだ。
だからそう答えた。
だが黙々と前を歩いていたベルが、小さく肩をすくめた。
◇ ◇ ◇
密林を抜けて砂漠に戻ると、急に風が乾いた。
四方を砂丘で守られた地点までたどり着いたころ、ベルが振りむいた。
「よし。ここまで来れば大丈夫だろう。明人、千星を下ろしてやれ」
「了解。ちーちゃん、下ろすよ」
「うん、ありがとう」
砂丘の斜面を利用しながら、そっと明人は千星を後ろに下ろした。
やはりまだ立ち上がるのは辛いのか、千星は腰を降ろしたまま動かなかった。
明人もその側に座った。
実のところ明人もほぼ限界であった。
もしかすると、ベルはそこのあたりも勘案してくれたのかもしれない。
「私は周囲を見てくる。モンスターが追ってきていたらまずいのでな」
「お願い」
明人がそう言うと、ベルは頷いてすばやく砂丘の上に上っていった。
日で焼けた砂の熱さを、ズボン越しに尻で感じながら、明人は密林のほうを見た。
木々を覆う空がまだ一部だけ青い。
雲も、黒煙もない。
どこまでも透き通った青色をしている。
あのすぐ下が、小広場となっている湿地帯なのだろう。
明人はなんだか急に力が抜けて、後ろ手をついた。
当初の予定では、作戦が終わった後はグリーンハートの拠点に戻るはずであった。
だがそろそろ退出する時間だろう。今日はここで終了と思っていい。
(長い戦いだった)
つくづくそう思った。
まだ時間が来ていないことが不思議でさえある。
そして厳しかった。
砂漠から密林に突入したとき、ベルとアナを除く人間のメンバーは8人いた。
今は2人だ。
「リーダーたちのことを、クランのみんなに伝えないといけないけど、明日かな」
千星が密林の上の青空を見上げながらそう言った。
その様子はどこか虚ろだ。
「俺も一緒に説明するよ」
と明人は言った。
はからずも明人はベレッタの最期を見届けた。クランメンバーにその戦死を伝えるのは責務であろう。
「ありがと」
そう千星は笑って見せたが、出発するときとは打って変わって儚げであった。
「あ。……時間みたい。また明日ね、明人くん」
「うん、また明日」
明人が言い終わるか終わらないかのあたりで、手を振る千星の姿がすっと消えた。
物質界に戻ったようだ。
今は朝の6時ごろだろうか。明人ももうそろそろだろう。
ベルが戻ってきた。
「モンスターはいなかった。うまく振りきれていたようだな。千星の姿がないが、離脱したのか?」
「うん。ベルもお疲れ様」
「なに」
そう言ってベルが明人の隣に座った。いつものスコ座りだ。
「明人もご苦労だった。厳しい戦いだったな。やはりこの闘争界は恐ろしい場所だ。透良に言わせれば【戦士の楽園】らしいが、私にはここが楽園とはとても思えない」
「俺もだよ」
感慨深げに言うベルに、明人も同意した。
(楽園、か)
透良の言葉を、反すうした。
ベルが言うように、明人にもこの世界が楽園だとはどうしても思えない。
だが、彼女が言うには楽園で、守るべき世界らしい。
(ベレッタたちにとっては、どうだったのだろう)
ふとそう思って、明人はぽっかりと空にできた青い空洞を見上げた。
遺体が残っていなくとも、物質界でなくとも、あの下が彼らの眠る地だ。
その上の蒼穹は、なにもかも吸いこんでいきそうなほど、青く、青く透き通っていた。
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