第3話 不気味な数字
人ごみ・テーブル・イベントテントでできた広大な会場を抜けると、そびえ立つ巨大な朱と緑の大門が明人たちを迎えた。
門はかたく閉じられ、その前を男の門番が守っている。
「でかいなー」
「うん。大きいね」
明人は千星と一緒に大門を見上げた。
高さは8メートル前後といったところか。大きさに圧倒されそうだ。
しかも大門の両側からは、左右に城壁が伸びて奥の岸壁まで続き、会場となっている幅広の峡谷を完全に塞いでいる。
だから建物の全体像としては大門というより関所と呼ぶほうが正しい。
中国の古典に登場する函谷関のような感じだ。万里の長城のような高い城壁に、雷門を思わせる大門がはめこまれているわけだ。
また、むかって左側の岸壁の近くには朱色の板壁でかこわれた区画もあった。これは場所的に物置かなにかだろう。
「早池峰さん。俺、あそこの人に大門から外に出られないか聞いてみるよ」
と明人は大門の前で直立している門番を指差し、近寄っていった。
「あ、待って。私も」
千星も着いてきた。
彼女に頼られているような気がしてすこし嬉しかった。
ここにたどり着くまでに、この姫君の護衛で明人はいささか忙しい思いをしたが、少しはその甲斐もあったらしい。
実際それだけ大変でもあった。酔っ払いが何人も千星に絡もうとしてきたし、体中食べかすだらけの客が何度もぶつかりそうになった。それをさりげなくあしらったり押しのけたりするため、ずっと気が抜けなかったのだ。
二人が近づくと、門番は首だけを動かして、蜘蛛を思わせる冷たいガラスのような目を明人と千星の順に向けた。
なんだか嫌な感じがしたが、明人はひるまず声をかけた。
「あ、すいません」
「こちらはまだお入りになっていただくことができません。ワッペンの数字が【1】になってから、従業員とともにご入場下さい」
用件を話す前から断られた。口ぶりも丁重だが事務的そのものだ。
「えっと。……じゃあ、ワッペンの数字を【1】にするって、どうすればできるんですか」
「何度もこの会場に来るだけです。いずれ【1】になります。そのときは従業員のほうから門の内側へご招待にうかがうことでしょう。お急ぎであれば、酔い潰れてもかまいません。そうなれば中に運びこまれます」
「酔い潰れるのはちょっと……」
それでは歩けなくなってしまう。明人たちは中に担ぎこまれたいのではなくて、会場から外に出たいのだ。
「ではお引き取りを」
と門番はにべもなかった。
「あの。私たち、ここから出たいんですけど、ここは出口じゃないんですか?」
と横で黙って聞いていた千星が聞いた。
門番は無表情なままで首を横に振り、片腕だけを動かして正面を指さした。
「ちがいます。この地から出たいなら、食事場の向こうの扉からどうぞ」
「食事場の向こう?」
明人は指のさきを視線で追いかけた。
ごちゃごちゃに入り組んだ、人、料理、テーブル、椅子、ノボリ、イベントテントの海が目に入った。
つまり、広大な食べ散らかし会場のさらに向こう、ということだろう。
(マジか)
げっそりした。
またあの猥雑きわまる人混みの中をかきわけて歩かねばならないとは。
それに何かと狙われやすい千星の負担にもなる。
「本当にここは出口じゃないんですか?」
「ちがいます。向こうです」
ダメ元で確認したが、やはりダメなものはダメであった。
「……行く? 早池峰さん」
「うん。しかたないよ。遠いけど、出口の場所がわかっただけ良かったと思おう?」
千星もすこし疲れた顔で答えた。
その様子は、ただ遠いからというだけではなかったろう。
◇ ◇ ◇
門番に礼を言ってその場を辞し、大門からやや離れたあたりで、明人はふと良いことを思いついた。
「ねえ、早池峰さん。あの朱い板壁のほうから岸壁をつたって外側をぐるっとまわっていかない? そうすれば迷わずに済むし、人も片側しかいないでしょ」
「あ、賛成。そっか。さっきもそうすれば良かったね」
千星がホッとしたように笑って同意した。
ナイスアイディア、とその笑顔が明人を褒め讃えていた。
彼女もそれだけ気が重かったのだろう。いくら明人が守っているとはいえ、酔っ払いと食べかすお化けのまっただ中に飛びこみたいものでもない。
さっそく二人で城壁のふもとを歩いていった。
目指すはまず岸壁そばの朱い板壁だ。会場と城壁とのあいだは広くなかったが、それでも人混みの中を行くことを思えば楽なものであった。
なにごともなく朱塗りの板壁のそばに着いたとき、明人の後ろで大きな軋み音が鳴った。
足を止めて振りむくと、あの大門が開いていた。
例のスーツ女が、全身これ脂という感じのよく肥えた男と一緒に、大門の下をくぐっていくのが見えた。
スーツ女に連れられていく男の目はどこか虚ろだ。腕をしっかりスーツ女につかまれていて、まるで連行されているようであった。
ただ酔い潰れてはいないようだから、きっとあれがワッペンの数字が【1】になった客なのだろう。
明人は開いた大門からその奥をのぞけないかと思ったが、あいにく角度が悪くて、裏側にある白木の柱をちらりと見られただけで終わった。
「結局、大門の裏側にはなにがあったんだろうね」
「休憩所かなにかだと思うけど、古宮くんが気になるんだったら、ちょっと寄り道してみる? この朱い板壁の向こうから忍びこめるかもしれないよ。なんとなく裏口がありそうだし」
千星はクスリと笑い、冗談めかしておてんばなことを言った。出口の場所がわかったのですこし余裕がでてきたらしい。
もしこの石レンガの城壁に裏口があるとしたら、千星の言うとおり、この朱色の板壁の向こうだろう。あとは岸壁の両側まで完全に埋まっているから、消去法でここしかない。が、
「悪くないけど、やめとこう。見つかったら怒られそうだ。謎は謎のままにしておいたほうがロマンがあるよ」
「うん、わかった」
千星は簡単に引き下がった。彼女自身、そこまで興味があったわけでもないのだろう。
ふたたび足を動かし始めた。
朱色の板壁のそばをとおりすぎ、岸壁のふもとを伝うようにして、土と雑草だらけの間道を二人で進んでいった。
これがなかなか悪くなかった。
雑多な人間たちが片側にしかいないおかげで、落ち着いて千星と歩けるのだ。素敵な女の子とはただ一緒に歩いているだけでも幸せな気分になれる。まるでデートしているようだと思えた。
(日曜日もこうして早池峰さんと一緒にいられたらなあ)
そんなことを明人はちらりと考えたが、さすがに誘う勇気はまだなかった。
大門のほうから離れていくほどに、人と料理がまばらになっていった。
空の皿がよく目につくようになった。
給仕たちがせわしなく次々補充しているのだが、それでも追いつかないようだ。
とはいえ、あえて寂しい場所を好むへそ曲がりも中にはいるらしい。幾人かは、料理が減った物寂しいテーブルにこびりついて酒をあおっていた。
さらに歩いていくと、ようやく人と飯が途切れた。
奥行き数メートルていどの狭い空き地に出た。砂利をしいたスペースの奥にロープが張られていた。【乗り越え禁止】の札がかかっていた。
その向こうは、暗くてよく見えない。
となりの千星が眉をひそめた。
「あれ? 行き止まり?」
「おかしいね。出口があるって言ってたのに」
明人は奥の方へと近づいて、ロープの向こう側をのぞきこんだ。
「うお……」
思わず声が出た。なぜロープが張られているのかよくわかった。
断崖絶壁であった。
底がまったく見えなかった。引きずりこまれそうなほど深い闇が広がっていた。
ためしに近くの小石を蹴り落としてみたが、地面に当たる音がいつまで経っても返ってこなかった。うっかり落ちたら大変なことになるだろう。
気になったのか、千星もそばにやってきた。
「うわあ……」
やはり絶句していた。
あまり長く見ていると足がすくんでしまいそうだ。そう思って明人は後ろにずり下がり、崖が見えないところまでしっかり距離を取った。千星も似たような動きをとった。
不審な若者二人が気になるのか、客と思しき四十過ぎくらいの中年男が、蒸留酒のボトルを片手に、遠くから珍しい物でも見るような視線をちらちらと向けていた。
「もう。こっちに出口があるなんて嘘じゃない」
千星が立腹した様子で唇をとがらせた。
「おかしいね。いい加減にあしらわれただけだったのかな」
と明人は頭をかいた。
奇妙な会場からようやく脱出できると期待していたのに、いざ来てみたらこれだ。千星が怒りたくなる気持ちもよくわかった。無駄足を踏んだこともさることながら、もしかしたら出られないのではないかという不安が焦燥をかきたてた。
と、そのとき。
おかしなオブジェクトが明人の視界のはしをかすめた。
こちら側の岸壁と向こう側の岸壁との中間地点のあたりに、なにかある。
そんなはずはないのだが扉に見えた。
「早池峰さん、見てあれ。なんだろう」
「え、なに。なにかあった?」
「あるけど、なんだろう。扉っぽいけど、あんな場所にあるわけないし。そばで見ればわかるかも」
だが、近づいてみるとやはり扉であった。
崖ギリギリの場所に、教室のドアほどの大きさの扉が二枚、どんと鎮座ましましていた。
誰がやったのかわからないが、たちの悪いいたずらである。扉の向こう側は断崖絶壁なのだ。酔っ払いがうっかり開けて入ろうものなら大変なことになるだろう。
「しかし風変わりなデザインだね。これまた」
明人は二枚の扉をしげしげと見つめた。
一枚はいかにも成金趣味な金の扉だ。徹底したことにノブまで金ぴかである。イヤミな臭いがぷんぷんした。
もう一枚は重苦しい鉄の扉だ。銃のレリーフが刻まれているが、血のようなもので汚れている。見るからにおどろおどろしかった。
「金の扉も微妙だけど、鉄の扉は特にひどいな。見ているだけで寒気がする」
「えっ、そう? たしかに金の扉はイヤミだけど、鉄の扉のほうは雰囲気があっていいじゃない」
千星は明人とかなり異なる評価をしたらしい。明人は扉から一歩退いたが、彼女はかえって鉄の扉のすぐそばへと近寄った。
「早池峰さん、大丈夫? 落ちないように気をつけて」
「これくらい大丈夫だよ。……うん、なんだろう。これ、すごくしっくりくる。いい。すごくいい……」
いったいどうしたというのか、千星はうっとりと目を細め、魅入られたように黒い鉄の扉のレリーフに手をおいた。白い指先を、彫りこまれた銃のレリーフに這わせはじめた。
明人は思わず息を呑んだ。
肢体を伸ばし、人が変わったかのような冷たい微笑を浮かべて扉をなでる千星の姿は、危うい。
だが美しかった。神秘的でゴシックな美だ。
北欧神話の死の乙女が現実世界に降りたったら、こんな感じなのではないか。そんなことさえ考えた。
初めての感覚が明人の胸を満たした。畏れと憧れがない交ぜになったような、そんな感覚。
ギィッ。
「え?」
「うんっ?」
とつぜん鉄の扉が震え、軋み音をたてた。
ギ、ギイイイイイ……。
怪物の鳴き声のような異音とともに、まるで誘うようにして鉄の扉がひとりでに開き始めた。
隙間から、向こう側が見えた。
そこにあるはずの、奈落の底へとつながる暗闇が、なかった。
赤茶けた大地。
けぶった空。
あちこちで上がる黒い煙。
打ち上げ花火を凶悪にしたような謎の爆発音が扉の向こうから重く響き、明人の腹を震わせる。
こちら側の、どこかじめっとしたグルメ会場とは似ても似つかない、乾ききった世界が――
ジリリリリリリリリッ!!
けたたましい目覚ましベルが盛大に鳴り響いた。
「ぬあっ!?」
パジャマ姿で飛びあがり、やかましいっ、と明人は乱暴に目覚まし時計を上から叩いた。
とつぜんの乱入者を押し黙らせ、あたりを見まわした。
千星がいない。
扉もない。
がっつく大人たちもいないし、ごちそうもない。
あるのは、何度も繰り返した、現実の朝だ。
東京都内の、冬の朝。
見慣れた自分の部屋が、そこにあった。
薄明かりがカーテン越しに窓から差しこんでいた。
原付の走行音が窓の向こうから聞こえた。
ふーっ、と胸にたまっていた息を大きく吐きだした。
「なんだよ。夢じゃない夢じゃないってあれだけ言っておいて、結局夢じゃないか」
独り言ちて、明人は苦笑した。
明晰夢ならこれまで何度か見たことがあった。しかし、ここまで手のこんだごまかし方をしてきたのは初めてだ。
(でもまあ、いい夢だったな)
そう思った。
夢だったことが残念だった。惜別の情に似た思いを抱いた。
あの早池峰千星と、不思議な場所で、二人きりの夜を過ごす。
もうデートのようなものだ。
あんなロマンティックな体験が、自分の人生にこの先何度あるだろうか。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、念のため明人は胸のあたりをポンポンと叩いてみた。
当然ながら、あのワッペンはなかった。
次に、右手のひらにも数字がないことを確認しようと、手を返した。
「……えっ?」
硬直した。
【5】。
そこには、気持ち悪いほどよく見える不気味な数字が、べったりと張りついていた。
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