閏時 ~Leap at the time~ 第4話
蝦夷梅雨のある日の昼下がり。ドアに付いた小さなカウベルが、カロンと涼やかな音を奏でる。
住谷達矢と柏木弥那が二人で始めた『カフェ マティバレィ』に谷口雅美がスーツ姿で訪れた。
「いらっしゃいませ――あら雅美さん。いつもありがとうございます」
「こんにちは、弥那ちゃん。いつものお願いできる?」
「もちろんです。ティラミスのドリンクセットですよね」
「ええ、それでお願い」
「かしこまりました、お好きな席にお掛けになってお待ちください」
「ありがとう」
雅美はバリスタの弥那と会話を交わしながら、出入口で水気を拭き取った赤色の雨傘を、それと似たようなデザインの紅い雨傘が差してある傘立てに差して、三つある窓際のテーブル席のひとつに着く。
店内は、カウンターに四席、緑が見える南向きの窓際に四人掛けのテーブル席が三つの、モノクロを基調とした隠れ家的なこじんまりとした空間になっている。
出入口付近に傘立てを置いたのは、壁や天井を白く、柱や床を黒い木目調にすると決めた際に、来客が雨水で滑って転んだりしないようにという弥那の配慮によるものだそうだ。
雅美が席に着くのとほぼ同時に、カウンター奥のキッチンから調理担当兼オーナーの達矢が現れて、冷水とおしぼりと紙ナプキン、それとデザートスプーンを彼女の前に置いた。
「失礼致します。いらっしゃいませ、雅美さん。雨の中、外回りお疲れさまです」
「ありがとう、達矢くん」
「ブレンドとティラミス、もう少々お待ちください」
「楽しみにしてます」
互いに笑顔を交わし、達矢が礼をしてキッチンに引っ込むと、雅美より先に来て奥の席にいた女性客が席を立ち、会計を済ませ、笑顔で「ごちそうさまでした」と弥那に告げる。傘立てから赤い傘を抜き取ってドアを開ける。カウベルが鳴り終わるより前に、二人の声が店内に響く。――この時点ではまだ、誰も気がついていなかった。
「「ありがとうございました」」
ドアが閉まるのを聞き届けてから、雅美が口を開いた。
「こう雨続きだと、お客様の出入りも少ないでしょう?」
その問いに、女性客の居たテーブルを馴れた手つきで速やかに片付けながら、達矢が答える。
「そうですね。今日なんて、雅美さんが二番目のお客様ですよ」
「そうなの?」
「そうなんです。はい、ブレンドお待ちどうさまです」
苦笑しながら応えた弥那が雅美の前に出したマティバレィのブレンドは、モカベースのオリジナルブレンド。チョコレートのような力強い香りと柑橘系のフルーツのような酸味があるモカを深煎り焙煎することで酸味を抑え、苦みの強い味わいになっている。
「ありがとう」
当然のように、砂糖やミルクの小瓶が添えられるが、雅美はそれらには手をつけず、ブラックのままで薫りを楽しんでから、カップに口をつける。市販のインスタントを使っている自宅や会社のコーヒーはブラックでは飲めないが、ここのコーヒーは別格だ。
「んんー、美味しい」
「ありがとうございます」
「お酒じゃないけど、五臓六腑に染み渡るわー」
昔、アニメーションで、缶コーヒーで酔っぱらってしまうピンクの鳥(?)がいたが、ここのコーヒーを飲むようになってからは、その気持ちがわかるような気がしないでもない。
「お待たせ致しました、自家製ティラミスです。どうぞお召し上がりください」
しばらくして、達矢が再びキッチンから現れ、自家製ティラミスを雅美の前に置いた。白く四角い皿の一角にミントが添えられて、涼しげな演出がされていた。
「待ってましたー」
顔の前で手のひらを合わせ、指先だけ動かして音が微かに聞こえるくらいのボリュームで雅美は嬉しそうに拍手する。
「ちなみに、今さら訊くのもなんだけど、ここのティラミスってどうやって作ってるの?」
「基本的には、一般的なティラミスの作り方とそんなに変わりません。適度な大きさの型にエスプレッソを染み込ませたビスコッティ・サヴォイアルディ――サヴォイアという国の棒状のビスケットなんですが、それを敷き詰め、その上からマルサラワイン・砂糖と共に卵黄を温めながらかき立てた「ザバイオーネ」と呼ばれるカスタードソースとマスカルポーネチーズを合わせた「ザバイオーネ・クリーム」を流し入れて、同じ工程を二~三層繰り返し、型を埋め尽くし冷し固めるんです」
「はい、質問」
流れるような達矢の説明の途中に雅美が直角に挙手をして、再び達矢に問いた。
「はい雅美さん」
「マルサラワインってなあに?」
「マルサラワインは発酵過程にブランデーを加えて酒精を強化された、シチリアはマルサラという町で産み出されたワインです。アルコール度数が十八度と、ワインとしては高いこともあってか、日本では隠し味として料理に使用するくらいで飲用されてはいないそうです」
「ワインで十八度! 私だったら一口で酔いつぶれそう」
「雅美さんは下戸ですもんね」
弥那の突っ込みにはあえて触れずに、達矢が説明を続ける。
「仕上げは表面に、一般的にはココアパウダーやチョコパウダーを振りかけるんですが、ウチでは各種材料に可能な限り北海道産のものを使い、パウダーはエスプレッソの豆を挽いた粉を振りかけて風味付けています。他にご質問はありますか?」
「いいえ、よく分かったわ。ありがとう」
「そうですか。では改めて、どうぞお召し上がりください」
そこまで言うと達矢はにこやかに雅美に礼をして、カウンターに引っ込んだ。
「なるほどねー、私はお菓子作りって得意じゃないから余計にそうだけど、家で作るのはいろいろと難しそう」
「もちろん、家庭で作るんでしたら子供向けとかにアレンジしても良いと思います。棒状のビスケットはサヴォイアのものじゃなく市販のものにしてインスタントコーヒーにくぐらせたものを型に敷き詰めて。仕上げは表面にココアパウダーを振りかけてもいいでしょうし、大人向けにしたいけどマルサラワインが無いわってなったら、代わりにラム酒とか、ブランデーを使うのとかでも良いと思います」
「あ、それだったら私にも出来そう」
達矢の話を聞きながら、手のひらを合わせて一礼、デザートスプーンで一角をすくいとって口に運ぶ。
「いただきます。――んー、美味しい。甘過ぎないし、ここのオリジナルブレンドにぴったり。もちろん、それを目指していろいろと試行錯誤したんでしょうね」
「「ありがとうございます」」
雅美のほめ言葉に、示し合わしたように達矢と弥那の声が重なった。
「相変わらず仲が良いわねー。要らないお節介かも知れないけど、さっさと結婚しちゃえば良いのに」
「「あ、あはははー、そうかもしれませんねー」」
雅美は後で知ったのだが、実はこの時点で二人は籍は入れないまでも事実婚をしていた。しかしいろいろあってそれを誰にも言えないでいた。そのためもあって、この時は乾いた笑いでごまかすしかなかったのだ。
――そうして、雅美が来店してから五十分は経っただろうか(ドリンクセットを食べ終えるのにそんなに時間はかからなかったが、世間話が長引いた)。
「いけないいけない。すっかり長話しちゃったわ。ごめんなさいね」
と言いながらバッグを肩にかけ、慌ただしく席を立つ。
「いえいえ全然ですよ、そんな謝らないでください」
達矢がそう言って、弥那がレジに立つ。
「ありがとう。じゃあお会計お願い。あ、これカード」
「はい、ティラミスのドリンクセットおひとつ、八三〇円になります。ポイントカードのワンドリンクサービスがありますけど、使いますか?」
「うーん。今回はいいわ、また今度」
「かしこまりました」
「ごめんなさい、千円からでいいかしら」
「はい、では千円お預かりしまして、百七〇円のお返しと、レシートとカードです」
「はい、確かに。――それじゃあまたね、ってあら?」
釣り銭とレシート、それにポイントカードをそれぞれ分けて財布のポケットにしまいながら傘立てに目をやって、そこで気がついた。
「どうしました?」
「私の傘が無くなってるの」
「「ええっ?」」
「確か赤い傘でしたよね?」
「ええ、全体的なデザインはこの傘とおんなじなんだけど、色がこれとは違うの。こんなに鮮やかな赤じゃなくて……そう、信号機の赤ランプみたいな赤なの」
「持ち手のデザインもおんなじだったんですか?」
「ええ、だからもしかしたら、先にいらしていたお客様が間違えて、私の傘の方を持ってっちゃったのかも知れない」
「お客様を疑いたくはないですけど……今日は今までお二人の他に来客はありませんから、可能性は高いですね」
「というより、他の可能性が無いだろう」
「それもそうか」
「外へ出て差したときに気づかなかったのかしら?」
「気づけば、その時点で取り替えにいらっしゃいますよ」
「そうよね。もうあれから五十分は経ってるし、追いかけようにも行き先がわからないし。何か他に方法は……」
雅美がそこまで言ったとき、二人が何かに気づいた。ただ、そのあとの達矢からの問いには、思わず首をかしげたくなった。
「……五十分か」
「だったら、まだ取り返す手はあるかも」
「うん。雅美さん」
「はい?」
「時間を巻き戻した経験はありますか?」
「…………はぃ?」
「一時間、時間を遡れるんですか、これで?」
雅美が弥那から渡されたのは、真鍮製で鎖のついた、ネジ式の古びた懐中時計だった。一般的なそれとは違い、文字盤にはカレンダーがついていて、竜頭が『Ⅲ』の横にあった。
「そうです」
「って言ってもひとり一回きり限定で、私たちにはもう無理なんですけどね」
目をつむり、ある手順で竜頭を操作すると次に目を開けた時にはきっかり一時間、時間を遡れているということだったが……
「……本当に?」
「証明する物証は何もありませんが、僕たちが生き証人です」
「あと私の弟も」
「詳しく話している時間もありません。とにかく店を出たら、さっき言った手順でこの懐中時計を操作してください」
「それで絶対、来店前まで戻れますから」
「ああ、そうだった。これ、先にお渡ししておきます」
「八三○円?」
「来店前に戻るわけですから、雅美さんからするとドリンクセットを二回ご注文していただくことになり、お支払いも二重になってしまいますので」
「あ、なるほど。それじゃあ、行ってきますね……」
半信半疑なのだろう。紅い傘を手にとって、いまひとつ歯切れの悪い雅美の背中を押すように二人は、声を揃えて雅美を壮行した。
「「いってらっしゃいませー!」」
窓から見えていた通り、外に出ると雨は、止む気配すら見せず降り続いていた。
ドアに付いたカウベルが鳴りドアが閉まるとほぼ同時に、雅美は傘と腕時計とスマホを手放して近くに置き、それから目をつむって、懐中時計を操作した。それらを身に付けたり持ったりしたままだと、それらも一緒に時をこえてしまうから、と弥那に言われていた。
目を開けて腕時計とスマホを拾い上げて、それらの時刻を懐中時計の時刻と見比べると、それぞれの時刻は確かにきっかり一時間ずれていて。ついさっきまで紅い色をしていた傘は、信号機の赤色をした自分の傘に戻っていた。時をこえた実感はほぼ何もないが、身の回りの物証たちが、確かに雅美がタイムリープしたことを雄弁に語っていた。
問題はここからである。これからマティバレィに入って、店内の傘立てに傘を差したのでは、時を巻き戻した意味が何もなくなる。
だからといって巻き戻す前とまったく違う行動(たとえば、マティバレィに入らずに会社に戻るとか)をしてしまっては、何らかのタイムパラドックスが起きそうで怖いし、何よりもタダでティラミスのドリンクセットをいただいた事になってしまう。それは良くない。さてどうしたものか。
ここでひとつ、疑問が浮かんだ。この懐中時計で遡ったのは一時間。雅美がマティバレィを訪れたのはそれから約十分後のこと。
「だけどいま私はすでにマティバレィの出入口にいるのよね」
時をこえなかった傘が自分の物に戻ったのはおそらく、いまがまだ取り違えられる前の時間だからだろう。
「じゃあ、時を巻き戻す前の、本来この時間にいた私はどこへいったの?」
もしかしてもう少ししたら、今日の分の外回りを終えたその自分がここにやって来るのでは? ――と思って、近くに身を隠そうとしたがそのようなところは見当たらず、ドキドキしながらその時を待っていたが――
なぜかはわからないが、その自分は現れなかった。
しばらくして、女性客が満足気な表情で店内から出てきた。その手には、紅い雨傘を持っている。彼女はそれをさして、地下鉄の駅の方へ歩いていった。
これでマティバレィにはお客様は誰もいないはずだ。そう思った雅美はドアを開けて、カウベルを鳴らした。
「いらっしゃいませ――あら雅美さん。いつもありがとうございます」
「こんにちは、弥那ちゃん。いつものお願いできる?」
「もちろんです。ティラミスのドリンクセットですよね」
「ええ、それでお願い」
「かしこまりました、お好きな席にお掛けになってお待ちください」
「ありがとう」
時をこえる――二人はそれを「閏時を使う」と言っていたが――前と同じやり取りをする。
傘立てに目をやるとそこには何もない。ここにいる二人は、雅美が自分たちから懐中時計を借りたことは知らない。どういう反応をするだろうか。それをちょっと楽しみにしながら、雅美はバッグから懐中時計を取り出して、カウンター越しに弥那に返した。
「弥那ちゃん、これ、どうも有り難う」
「ああっ、それ! その懐中時計。いつの間にか無くなっていて、どうしたんだろうと思っていたんですよ。雅美さんにお貸ししていましたか」
弥那が驚いて、懐中時計を受け取ってそう言ったかと思うと、続けて達矢がこう言った。
「何がどうなって雅美さんにお貸ししていたのか僕らにはわかりませんが……お役に立ちましたか?」
「ええ、とっても」
「それは何よりです」
「もしよかったら聞かせてもらえませんか、その経緯を。ねえ達矢?」
弥那はすっかり興味津々といった感じだ。いつもの達矢ならここで弥那を注意してたしなめるところだが、今日は違った。
「そうだな、今日はあいにくの雨でお客様の出入りも少ないですから、雅美さんさえ差し支えなければ、僕も聞いてみたいです。ひとり一時間だけ閏時を使えるあの時計が、どう雅美さんのお役に立てたのか。もちろん、ブレンドとティラミスをお出しした後で」