07話:それぞれの夜
まだ星が瞬いていて、それがほんのりと夜闇を照らしている頃、時構わず些細な事で言い争いを繰り広げている男女がいた。しかし月は雲に隠れている。
「そち……、それを独り占めってことはないだろうな。私は一応、そちを衛兵から助けたのだぞ? ほんのちょっと、ほんのちょっとでいいのだ」
「だから……これは食べ物じゃないって。おいおいっ、腕を引っ張るなっ! いろんな意味でヤバいっ」
必死な形相でしがみ付いてくるシュリアを、九条は「これでどうだ」と脇に手を伸ばし、小さな体を持ち上げることで争いを治める。その際、不意にシュリアの足が自らの腹に飛んできたために九条はうめき声をあげた。
「ううっ……、まださっきの痛みが取れていないのに」
「ん? そちが悪いのじゃ。私をも……、持ち上げるなどと無礼な事を」
「だってさ、」
「もういいっ! ただ私はお腹が減ったのだ。そちは食べ物をもっていたにも拘らず独り占めなど……ふぅ、ふぁ」
クチュン。ズズズ、と女の子らしからぬくしゃみを決め込むシュリアに、九条は呆れたような視線を送る。そして反射的にティッシュを一枚取り出し、シュリアに差出して鼻をかませた。
「そち、ありがとうだ」
「ああ、どういたしまして、……って携帯がないっ! シュリア……お前いつの間に」
(会って間もないというのに、打ち解けているってゆーか、何というか。……習慣化?)
九条は苦笑しつつシュリアのかみ終わったティッシュを受取り、ポケットへと押し込む。その際、こぼれ出そうになったティッシュの山は、シュリアのくしゃみの多さを密かに暗示しているのであった。
しばらくそのままシュリアの隣を歩いて行くと再びシュリアがくしゃみをする。その度、また同じ事を繰り返す九条であるのだが、
(夜、なんんだよな今。でもここに来るまでとは気温も違うし)
冬というほどでもないよな、とシュリアにティッシュを渡しながらそう考える。瞬間、吹き荒れるようにして背を叩いた風も生暖かく、とてもじゃないけれど寒冷を特徴とする日本の冬とは思えなかった。
そして、九条は自らの腕へと目を向ける。正確には腕時計へと。
(……身に付けていた機械類は全部ダメ、かぁ。それに知らない場所でこんな奴と……)
鼻をすすりながら戦利品を大事そうに抱え「これは私のものだ」と、警戒心剥き出しの目でこちらを見やるシュリアに、九条は大きな溜息をつく。
結局力尽くで取られてしまった携帯電話は使えなかったのだ。軽快に鳴る電子音の後にはよく聞き慣れた『お姉さん』の決まり文句が単に流れてくるだけ。他は何も。GPS機能やらメールも、一通り試してみたものの全てダメだった。それに腕時計もぴったり0時0分を示して止まっているため、今の時刻でさえ分からない。
九条は改めて溜息をつく。
(電波が届かないなんて……日本じゃあんましないしな。それに)
あのRPG紛いの魔法陣だって。と、肩を落とす。そんな九条にシュリアは「どうしたのだ?」と、首を傾げていたが返事はしない。使えないにしろ携帯電話は返せ、とそれだけは心中で強く訴えかけていた。複雑な視線と共に――。
*・*・*・*・*
暫くの間、朝露に濡れた芝を足元に感じつつ、そんなやり取りを絡ませながら歩みを進めていくと、小さな家が見えてくる。
どうやらそれがシュリアの家らしく「そちは来るのか?」と、窺うようにして尋ねてきた。
「まぁ……行く当てないし。できれば、といったところかな」
複雑そうな表情で九条は家を見据えながらそう言う。それを横から覗いていたシュリアは「あやつの仲間ではないのか?」と、やや首を捻りながらそう呟き、
「そちには少々騙されたとはいえ、色々聞きたい事ができた。狭い家ではあるが一人くらいは招待できる」
「いいのか?」
歯形のついた携帯をポケットに収めつつ、驚いたようにそう言う。
「会ってしまったのも何かの縁。気にする事はない」
もし違ったら頼事もあるしな、とシュリアは小さく後に加えた。
家の近くまで歩いて行くと意外にもそれは大きな家だった。先ほど小さく見えたのは隣の大きな城と比較してしまったからであろう。大きいといっても造りは至ってシンプルであり、素材は分からないが赤く塗られた屋根、そして丸い曲線を描く白色の壁。家の周りをぐるっと回ってみれば三つの窓と、一つのベランダがあった。
遠くから見ればりんごのような形に見えるそれは何処か可愛らしく、童話に出てくる小人の住み家のようである。
暫くの間物珍しそうにそれを眺めていると、窓からシュリアがひょいと顔を出してきた。
「そち……、見ても驚くな? 客人が来ると分かっていればもう少しだな……、まぁそちなら別に。……おい、そち、準備が出来たから早く入って来るとよいぞっ。そっちが入口だっ」
言うなり顔を窓から引っ込める。どうやら台に乗っかって顔を出していたらしく、外にまでドンっ。と地面に着地する音がした。
少々聞き取れない部分があったものの、「入って良いぞ」と許可が下りたため、九条は入口へと足を向ける。
「お〜い。入るぞ?」
ピエロの鼻のように赤く丸いドアノブに手を掛け、ドア越しに最終確認を持ち掛ける。何せこんな真夜中に女性(とはいっても小さい)の家に上がり込むのだから、それなりに緊張しているのだ。九条なりに。
ともあれ中より「しつこいぞ」と、入室許可とも思える声が聞こえたので、
「お邪魔します」
ノブを回して入っていった。その際、足元で子猫が小さく鳴いたので、ドアをもう一度開けて中へと導いた。
*・*・*・*・*・
見えた先にあるのは色取り取りのゴミ? と思いきや布のようであった。足元の感触的には羽毛布団のようである。靴を脱いだ後に床に敷かれたそれを踏んでみるとふかふかとした感触が得られた。
九条は「凄いなこの量は」と、半分は関心、もう片方は呆れといった感じの視線を玄関近くでまわしている。壁が丸みを帯びているのはやや慣れないものの、それ以外は普通形式の家であった。もちろん装飾は抜いて。
その調子で辺りを見回していると前方より苛立ちの声が聞こえた。もちろんシュリアの声である。
「そこで何をやっているのだっ! そこがいいというのなら止めはしないが、話しづらいぞ。そち」
「いや流石に玄関前と、リビング越しの会話はきついでしょ。……いや、案外」
出来るかも、と九条は呟く。というのも、床から視線を剥がして前方へ向けると、真っ直ぐに伸びた廊下が一本、視界に入ったのである。途中、他の部屋に通じるドアを設けてはいたがシュリアのいるリビングには直通しているようだった。
現に色取り取りの羽毛布団の上で、むっとした表情で待ち構えるシュリアが見えたのだから。その提案は九条の心が許すなら可能なのであった。
「いいや、遠慮しとくよ。ここだとちょっと寒いし」
「なら早く、だ」
早くも玄関で丸まっている子猫を踏まないようにリビングへと足を進める。すると意外にもリビングは広いようで、視界がぐっと開けた。
「そちはそこに。私はここで、だ」
「はいはい」
勧められるままに背の低いテーブルを挟んでシュリアの前に胡坐をかいて座る。床に羽毛布団が敷いてあるせいか、ふかふかとしていて座り心地が良かった。
ふと眺めるようにして視線を泳がせると奥に台所のような場所が見える。九条はそれなら、と思い、
「俺、飯作れるけど……どうする? 何か食べ物あるなら分けて欲しいんだけど」
グウゥっとなるお腹を恥ずかしそうに押さえながらシュリアに向けて言う。どうせシュリアは料理なんて出来ないだろうし、今はお腹を空かせてるから。と、それに乗じて自らの空腹を満たそうというわけである。しかし予想に反してシュリアの反応は薄いもので、
「ああ、後で作ってもらえると嬉しいぞ。しかし今は……」
と、困った顔を浮かべて九条から視線を逸らす。座りながら「なんだ?」と、軽く尋ねてみると、
「それより前に話があるのだ」
「話?」
「うむ。そうだ」
シュリアは頷きながらそう言うと、ひょいと手を振って暗い外を映す三つの窓のカーテンを同時に閉める。九条は目を見張ってそれを見ているが、シュリアはさも当然な表情で再び九条に視線を向ける。そして、
「あやつの事なんだが……」
と、やや低い声をもってして言葉を紡ぎ始めた。
*・*・*・*・
同時刻、リンジェは自室に向かって城の廊下を駆け抜けていた。鎧を着ているためにガシャガシャと静まり返った城内に金属音が鳴り響き、リンジェの存在を知らしめていた。
何故走っているかというと忘れものを取りに、である。それも重要な。
というのも、リンジェは騎士隊副隊長という役職と共に文官を請け負っているのだ。しかしそれはあくまで期間付きで、城内の者達が視察遠征より戻ってくるまでの言わば代替。経験、適正関係なしに、とりあえずという事で与えられた役職なのである。
何故そんなにも容易に文官という役職を与えられるかというと、単にスリフィナールが他国との付き合いにあまり執着しないため、外交問題に直接関与する重要な問題があまりないのである。なので仕事自体の重要度が低いし、そもそもの仕事量が少ないスリフィナールの文官は念のためという事で預けられるほど重要度の低いものなのであった。
しかし、リンジェは顔を真っ青にして走っている。近隣諸国の重要な資料を取りに自室へ。
「鍵は鍵は……っと」
一つのリングにいくつもの鍵が下げられており、その中から焦りつつも自室の鍵を探し出す。暫らくして、
「あった!」
と明るい声が城内に響き渡るも、それは疑問を帯びて消えていった。「鍵が開いてる」――と。
恐る恐るといった感じでドアを開けてみると、窓が開いていることが分かる。カーテンが風を受けて翻っていた。ギィっと不気味な音を立てて室内へと入っていくと、瞬間。ゾクッとした戦慄が体を襲った。
何も恐ろしいものを見たわけではない。
何も触れたわけでもない。
何も――
なのに、だ。
強張る体を無理やり動かしてリンジェは取り合えず机へと向かう。確か一番上の引き出しに重要な書類が、と。
しかし、机の前まで行ったところで急に体が止まる。誰もいないはずの自室から声がしたからである。男の低い声。
「その声は……」
体は動かさずに顔だけを動かして部屋を見渡すと、ドア付近に黒い塊が見えた。人型の。
それはやがてコツコツと響きの良い音をたてて、リンジェの元にゆっくりと近づいてきた。
「……!?」
やがてそれはリンジェから二、三メートル付近でゆったりと足音を止め、静止した。ランプを付けていないために部屋内が暗く、懸命に目を凝らして誰か、と確認するも見る事は出来なかった。
しかしふとしたことで、雲に隠れていた月が顔を出したのか、光が窓より差し込んできてその者の顔が夜闇に映し出された。
色素が抜けてしまったように真っ白な髪は、肩の辺りで四方に散っており不気味に輝く碧眼を強く映しているようにも見える。そのためか、月明かりに照らされた青年の顔が随分大人びて映った。
「……!?」
それを見たリンジェは、はっとする。次に恐怖。
何故ならその人物はここには絶対いない人。いや、いてはいけない人なのである。
「城の……牢屋に、と聞いておりましたが」
と、からからに乾いた口を必死に動かして言葉を投げる。しかしいくら待とうとも返事は来ない。
代わりといった風に手元に持つ、刀身の長い剣が月明かりを反射してリンジェの目を刺激した。無論鞘になど収められていない。
リンジェはどんどんと血の気が引いていくのを実感しつつも、必死に言葉を探す。しかし、ない。
その白髪の男は、剣を徐に持ち上げると近くの机を一刀両断した。それに伴って引き出しからリンジェの探していた資料が二つに切れて床へと散る。そして、
「もう遅いんだ」
静かな声をもってして男は部屋内に声を轟かせる。耐えきれなくなった膝と共にリンジェはへなへなと地面に尻をつく。共にガシャン。部屋の中にそれが響いた。
「どうして……」
思わずといった感じでそう零す。それを聞いた男は笑ったのか、はたまた怒ったのかは分からない。
男は再び剣を持ち上げると、ただ無情に空を割いてそれを振り下ろした。共に赤い鮮血が散る。それは月明かりに照らされることなく床へと染み込んでいった。
「もう……な」
そう一言呟くとマントを翻して窓へと向かう。数秒後のリンジェの目に映るのは何もなかった。ただただ自然と翻るカーテンのみがあざ笑うかのように音を立てている。
「隊長……」
小さく零したその声が、男に届く事は最早無い。それでもリンジェは繰り返す。「隊長」――と。
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