サランコットの状況
雰囲気が重くなってきた所へ、ラビン協会長が穏やかな笑みを浮かべながらやって来た。
「ツクチェも結構ですが、近場のサランコット民宿街も気に掛けてくださいね。パメ産の野菜が好評だそうですよ、カルパナさん」
サランコットの頂上直下に広がる民宿街は、去年からパメ産の無農薬野菜を購入している。配達はディワシュの仲間が行っているのだが、今まで特にクレームは生じていない様子である。
カルパナが笑顔で答えた。
「そのようですね。私も時々、民宿街を回っています。これからの季節は欧米からの観光客が増えますので、野菜の種類も変えていますよ」
付加価値が高いのは有機野菜なのだが、認証取得やそれの更新のコストが高い。そのため、無農薬野菜として販売している。
欧米人観光客は生野菜のサラダを好むので、それに合った種類の野菜やハーブが出荷されている。中国人やインド人は火を通した野菜料理を好むので、また別の野菜になる。
サビーナもサランコットの状況は耳にしているようだ。カルパナ程ではないのだが笑顔になった。
「石窯も多く作られて活躍しているみたいね。やっぱりピザが人気みたいだけど」
協会長が穏やかに微笑んでうなずいた。
「そうですね。場所柄としてはアンナプルナ連峰に面していませんので、ポカラの夜景や日の出を見ながら食事をする事になります。ピザとバクタプール酒造のワインの組み合わせで宣伝を行う予定ですよ」
サランコットの民宿街は丘の南斜面にあるので、北方向にあるマチャプチャレ峰やアンナプルナ連峰は見えない。見ようとするのであれば、丘の頂上まで登らないといけない。
恐縮して礼を述べるゴパルであった。
サビーナが軽く腕組みをしてジト目になる。
「ポカラ産の小麦がまだまだ少ないのよね。だから、サランコット向けはこれまで通りの汎用小麦粉だけ。期待してるわよ、カルちゃん」
カルパナが申し訳ない表情になった。
「ごめんね、サビちゃん。小麦とお米と豆は政府が管理してて、なかなか融通が利かないのよ。それでも、めん用小麦の試験が上手くいったから、少しずつ良くなっていくと思う」
そう言ってからゴパルに視線を向けた。
「ゴパル先生。小麦の自家採種をするのは、やはりダメでしょうか」
ゴパルが腕組みをして両目を閉じた。
「……気持ちは分かりますが、ダメでしょうね。遺伝子組み換えやゲノム編集をしているので、特許や機密情報の塊でもあるんですよ」
今回の小麦の品種も、実質上は先進国やインド中国の種苗会社が大いに関わっている。彼らは商売なので、農家が自家採種してしまうと彼らの儲けが減る事になる。怒らせてしまうと、その種苗を売ってもらえなくなったり、高い値段にされたりする恐れが出てしまう。
ゴパルが両目を閉じたままで肩をすくめた。
「ネパール国内の種苗会社も頑張っているんですけどね。今の所は、ゴビンダ教授やラビ助手が孤軍奮闘している状況です」
カルパナが同じように肩をすくめた。
「隠者さまもそのような事を仰いますね……分かりました。小麦の自家採種はしないように農家に伝えておきますね。トマトや他の野菜は思いっきり自家採種していますけど」
ゴパルが少し興味を抱いたのか聞いてきた。
「トマトの自家採種……いつ頃行う予定ですか? もう夏トマトの収穫は終わりましたよね」
カルパナがニッコリと微笑んだ。
「トマトの実が溶け始める寸前まで完熟させますので、もっと先になります。時期がきたら、お知らせしますね」
そこへ十名ほどの米国人と中国人を引き連れて、ジェシカとタンがロビーに入ってきた。ジェシカがカルパナを見つけて、手を振って挨拶してくる。
「ハロー、カルパナ」
カルパナも手を振って挨拶を返し、ゴパルやサビーナ達に一言断ってからジェシカの所へ向かった。そのまま英語で雑談を始めたのを見ながら、ゴパルがサビーナに聞いた。
「サビーナさん。確かに雨期が明けると観光シーズン突入って感じなんですね」
サビーナがニッコリと微笑んだ。ゴパルの背中をポンポン叩く。この程度の衝撃では咳き込まないようだ。
「ん、そうね。ジェシカさん一行は、あたしの店でランチを予約してるのよ。それじゃあ、あたしも厨房へ戻るわね」
サビーナを見送ったゴパルに、協会長が近寄ってきてそっと話しかけてきた。
「ジェシカさん達は、米国の有機農業団体の会員です。カルパナさんも会員で、ジェシカさんから色々と有機農業の手法を教わっているんですよ。隣のタン女史は、中国を含む東アジア地域の取りまとめ役ですね」
ちなみにネパールを含む南アジア地域を取りまとめているのは、インドに住んで有機農業をしている人だという話だった。ゴパルとは面識がないので、名前と電話番号だけをスマホにメモする。
ジェシカ達がサビーナのレストランへ談笑しながら入っていく。一緒にランチを摂ろうと、ジェシカがカルパナを誘ったが穏便に遠慮されてしまった。そのカルパナが、ゴパルと協会長の居る場所へ戻ってくる。
協会長が軽く肩をすくめながら、穏やかな口調で告げた。
「一緒にランチを楽しんでも良いと思いますよ、カルパナさん。ジェシカさんと話したい事がたくさんあるのでしょう?」
カルパナが穏やかな表情で答えた。
「ゴパル先生との約束が優先です。これからリテパニ酪農へ行く予定ですし。それに今回ジェシカさんは観光で来ていますので、仕事の話は避けた方が良いと思います」
ゴパルが小首をかしげた。
「仕事ですか? 何かネパールで事業を興すとか?」
カルパナが二重まぶたの瞳をキラキラ輝かせて答えた。
「はい。まだ決定ではないのですが、パメで有機野菜の種子生産を大規模に始めるという話がきています。米国でも在来種とか固定種の種不足が深刻なんだそうですよ」
ゴパルが納得した。
「なるほど。パメも耕作放棄した段々畑ばかりですしね。良い案だと思います」
ジェシカ達がレストランに入ったのを見届けた協会長が、少し声をひそめてゴパルとカルパナに告げた。
「米国内で色々と内部対立が起きているという噂を耳にしました。それが収まるまでは、積極的に関わらない方が良いと思いますよ、カルパナさん」
ゴパルが目を点にしている。
(どれだけ情報網が広いんですか、ラビン協会長さん……)
カルパナもその噂を耳にしているようで、困ったような表情を浮かべた。
「特にジェシカさんとタンさんが対立しているって話ですよね……一見した所では、和気あいあいとしているように見えるんですが……」
ゴパルが点になった目をカルパナに向けた。
「へ? あの二人がケンカしているんですか? マジで?」
クスクス笑うカルパナと協会長だ。協会長がゴパルの肩をトントン叩いた。
「ゴパル先生のそういう所は、非常に好ましいですね。そのままでいてください」
カルパナもニコニコしながら車のカギを取り出した。
「同感です。ではゴパル先生、リテパニ酪農へ行きましょうか」




