リンゴの指導と桑の続報
いつもの二階の角部屋に入り、汗を流して着替えているとカルパナから電話がかかってきた。時刻を見て頭をかくゴパルだ。
(しまった。もうそんな時間になってたか)
すぐに電話に出る。
「すいませんカルパナさん。すぐにロビーに下りますね」
ロビーに駆け下りると、カルパナがソファーに座ってチヤ休憩をしていた。ゴパルを見かけて笑顔で合掌して挨拶をしてくる。今回は普段着っぽいサルワールカミーズ姿で、肩にストールもかけていた。
「こんにちは、ゴパル先生。ABCも晴れてきましたか?」
ゴパルも合掌して挨拶を返し、いつもの男スタッフからチヤを受け取った。
「お待たせしました、カルパナさん。ABCはまだ曇りがちですね。それでも空が明るくなってきたのは実感します」
そして自身のスマホを取り出して、時刻を確認した。
「わわわ……もう、ツクチェとテレビ電話を始めないといけませんね。カルパナさん、今回もリンゴの指導をよろしくお願いします」
カルパナがチヤをすすりながら気楽に微笑んだ。
「はい」
少し経つと、衛星の位置が良くなった。
ツクチェのリンゴ園の風景が映し出されて、カウボーイハットと首タオル姿のビカスが画面に顔を向けた。先程まで誰かと雑談を交わしていたようだ。
「こんにちはラー、カルパナ先生、ゴパル先生。ん? ラビ先生はまだラ?」
そういえば、彼の顔が画面に出ていない。ゴパルが軽く頭をかいた。
「ラビさんは、育種学研究室の人ですからね。何か他に急用が入ったのかも。後で私が彼に、今回の指導内容を動画ファイルで送ります。それでは、時間になったので始めましょうか」
カルパナに肯定的に首を振って促した。
「カルパナさん、お願いします」
「はい、では早速始めましょう。今回も衛星の位置がすぐに変わってしまいそうです」
今回はリンゴの木の枝の剪定についてだった。剪定方法それ自体は前回に教えたので、実際に剪定した所をカルパナが見て評価と指導を行う形になった。
ビカスの息子が撮影していくのをカルパナが見終わって、満足そうな笑みを浮かべる。
「リンゴの実が主枝から鈴なりになって垂れ下がっているような見た目ですね。これで良いですよ」
リンゴの木は収穫作業が行いやすいように上に伸びる主枝を切って、横へ伸びる主枝を伸ばした樹型になりつつある。
剪定作業では主に、伸びすぎた徒長枝や、リンゴの実がつく枝の日当たりを邪魔する枝、それに同じくリンゴの実がつく枝から横に伸びる枝を切り落とす。ちなみに、この剪定作業では葉を摘み取る事をできるだけ避けている。
ただ、ビカスのリンゴ園ではこういった剪定や樹型はこれまで行っていなかったので、リンゴの木の生長が安定しない恐れがある。
そのため、主枝の根元から三分の一程度の場所に二、三年間ほど、上に伸びる枝を生やしておくという事もカルパナが指導していた。
一方で、リンゴの実を成らせる枝は十年おきに更新するので、そのための候補となる枝を五年おきに生やす。
リンゴの実は緑色なので、収穫までにはまだ時間がかかりそうだ。
ビカスが、リンゴの木の根元を分厚く覆っている刈り草をめくった。リンゴの木の根と思われる白くて細かい根が、地際の刈り草に絡まっている。それを見たカルパナがニッコリと微笑んだ。
「リンゴの根張りが良くなってきましたね。その調子で根を大事に育ててください」
ビカスがニッカリと笑って答えた。
「ラー。リンゴの木の調子が良くなってきたラー。土ボカシや生ゴミ液肥もドンドン使ってるラ」
その後は雑談をし始めるビカスとカルパナだ。農業の専門的な話なので、ゴパルは蚊帳の外である。
そこへもう一人、蚊帳の外な人がテレビ電話に加わった。ラビ助手だ。忙しいようで、白衣や髪がクシャクシャである。
「すいません、遅れてしまいましたね。教授がまた無理難題な案件を持ち込んできまして、その対処で時間を取られてしまいました」
カルパナとビカスがラビ助手に合掌して挨拶をした。ゴパルも気楽な口調で出迎える。
「育種学研究室は大忙しだって、ラメシュ君からも聞いてますよ。過労で倒れないように気をつけてくださいね。ちょうど、カルパナさんによるリンゴの指導が終わった所です。後で映像ファイルを送りますから、ご心配なく」
クシャクシャ頭をかいて感謝しているラビ助手だ。顔も満足に洗っていないようで、無精ヒゲが生えている。メガネだけは拭いているようだが。
「助かります、ゴパルさん。あっそうだ。桑の葉エキスの実験ですが、面白い事になってきていますよ」
このエキスを成分分析して、モモシンクイガに効果のある化合物を抽出して濃縮。それで試験をした所、かなり良い成績が得られたらしい。
「化合物の名前は、まだ論文にしていませんし特許申請もまだですので、ここで言う事はできません。すいません」
ゴパルが気楽な口調のままで答えた。
「気にしなくても構いませんよ。しかし、カルパナさんの一言から興味深い展開になりましたね」
カルパナが隣で照れている。
「私も桑の葉栽培や養蚕はしていませんよ。知り合いから聞いただけです」
ラビ助手が少しの間席を外してから、すぐに戻ってきた。表情が少し明るくなっている。
「ゴビンダ教授が居ますので、ちょっと相談してみました。ある程度までなら公開しても良いという返事をもらいましたので、ちょっとだけ説明しますね」
桑の葉はカイコの餌として知られている。しかし、他のほとんどの昆虫は食べない特徴をもつ。
今回、育種学研究室が調べた所、桑の葉の乳液に含まれるタンパク質が作用していると分かった。これが昆虫の消化器官に作用して、食べ物を消化吸収できなくさせていると、ラビ助手が話してくれた。
「昆虫版の強制断食ですね。実際は餌を食べていますが、消化吸収されなくなります。結果として飢えて死んでしまったり、成長が遅れたりするようになります」
ゴパルが目を点にして聞いている。
「植物やキノコって、時にとんでもない事をしているんですが……凄いですね。食べると飢えて死んでしまうんですか」
カルパナとビカスは、理解が追いついていない様子である。ちょっとしたフリーズ状態になっている。ラビ助手がメガネをキラリと反射させて話を続けた。
「このタンパク質ですが、かなりの低濃度でも効果を発揮すると判明しました。桑はネパールの気候でよく育ちますから、現地調達も容易です。商品化して、国内企業での生産も可能だと思いますよ」
その後しばらくして、衛星の位置が悪くなり、まず最初にビカスとの通信が途絶えた。それを合図にして、首都のラビ助手とも雑談を終了する。
テレビ電話を終えたカルパナが、ゴパルの隣で二重まぶたの瞳をキラキラさせていた。そのままの瞳をゴパルに向ける。
「ゴパル先生。大学の先生って凄いんですね」
内心で申し訳なく思うゴパルであった。
(すいません、大した事ない先生で……)
外の天気を見ると、マチャプチャレ峰の近くでは雷雨になっていた。が、ポカラ盆地までは及ばないようだ。ゴパルがカルパナにお願いする。
「では、パメの段々畑を巡回しましょうか。多分、大雨にはならないと思いますが、早めに終わらせた方が良いかも知れませんね」
カルパナも北の空を見上げて同意した。
「そうですね。ではパメへ向かいましょう」




