鍛冶屋の課題
何とか転ばずに種苗店へ無事に戻り、ビシュヌ番頭が用意してくれたチヤをすすって、一休みするゴパルとカルパナであった。
その後は、スバシュの案内で三階のキノコ種菌工場の様子を撮影して記録する。ここも順調そうだったが、ゴパルが一応忠告をした。
「そろそろ連作障害が発生する頃だと思います。三階の消毒は念入りにしてくださいね」
スバシュが真面目な顔で了解した。
「心得てます、ゴパル先生。ラメシュ先生とも密に連絡を取り合ってます。今週末にでも一斉消毒をする予定ですよ」
さて、カルパナの車でルネサンスホテルまで送ってもらったのだが、到着するとコックコート姿のサビーナがスマホで電話しながら何やら怒っているのが見えた。嫌な予感を感じるゴパルだ。
今日は雨なので、特に畑仕事の予定はないらしく、カルパナも車を駐車場に停めてからロビーにやってきた。すぐにサビーナの様子を見て心配する。
「どうかしたの? サビちゃん」
スマホでの電話を終えたサビーナが大いにジト目になって、その不機嫌な顔をカルパナに向けた。
「鍛冶屋のクソオヤジが下手な仕事をしたのよ。それで、さっき叱りつけた所」
どうやら電話相手は鍛冶屋だったようだ。とりあえず協会長がチヤを運んできて、サビーナとカルパナ、それにゴパルに手渡した。
「立ち話も何ですから、ソファーに座りませんか」
サビーナがチヤをすすりながらカルパナとゴパルに話した内容は、だいたい以下のようなものだった。ゴパルは早く自室へ戻りたいような仕草をしていたのだが、問答無用でロビーに留め置かれて、話を聞かされている。
鍛冶屋に頼んでいた包丁の研ぎ具合が悪かったらしい。前にも同じような文句を聞いたよなあ……と内心で思うゴパルであるが、口にはしていない。
この時代では、家庭用の包丁はほぼ合金製やセラミック製になっていた。これらの包丁は普通の砥石では研ぐことが難しいため、人工ダイヤモンド製のシャープナーという機械式の研ぎ機を使っている。ただ、この機械は微妙な加減が難しいため、鋭利に研ぎ上げる事はなかなかできない。
一方、サビーナのような料理人は、鋼製の包丁を愛用する者が多い。自身で包丁を毎日研いで鋭利さを維持する事ができるためだ。
ちなみに、この時代では人工セラミック製の砥石を使う場合がほとんどになっている。
サビーナが文句を言っているのは、包丁の刃筋が波打ってしまっている点と、研いだ際に生じるバリと呼ばれる反り返りが残っているという点の二つだった。どちらも切れ味がかなり悪くなる。
ゴパルが恐る恐るサビーナに聞いてみた。
「前にも同じような事がありましたよね。鍛冶屋さんの方では対策を何も講じていなかったのでしょうか」
サビーナが大きなため息をついて答えた。少し憤りが収まってきたようだ。
「機械式の研ぎ機とか、砥石の種類を増やしたりしてたわよ。でも、それを扱う技量が育っていなかったようね」
じっと話を聞いていた協会長が口を開いた。
「技量不足ですか……これからレストランや喫茶店の数がさらに増えるので、心配になりますね。民泊をしてもらっている家庭からも、包丁の研ぎ依頼がチラホラ上がってくるようになってきていますし」
カルパナがチヤをすすりながら、困った表情を浮かべた。
「肥料問題が解決しましたので、栽培規模を拡大したいという農家が出てきています。草刈りとか収穫で鎌を使うのですが、刃の研ぎが悪いと苦労しますね」
今後は、農家からも農具の研ぎ依頼が増えると予想するカルパナである。ゴパルがパメの段々畑の様子を思い出した。
(耕作放棄している段々畑が多いよねえ。確かに、これから栽培を再開する畑が増えそうだ)
協会長が一つ提案した。
「ヤマ様がネパールに戻りましたので、彼に日本の刃物研ぎの研修ができる所を紹介してもらうのはどうでしょうか。確か、日本ではまだ鋼の包丁を使う家庭やレストランが多いと聞きます」
サビーナが即答した。
「そうね! そうしましょう。ヤマっちが知らなくても、御柱の石先生に聞けば伝手があるだろうしねっ」
石先生とは、首都カトマンズの日本料理店『御柱』で板長の事だろう。早速、協会長がスマホを取り出して電話をかけ始めた。
言葉の問題は、スマホの同時通訳アプリを使えば問題はないだろう。音声をそのまま文章に翻訳するアプリだ。内心でヤマに同情するゴパルである。
(ヤマさん、また日本へ行く事になるかもしれないなあ……)




