パメの巡回
西暦太陽暦で八月の最終週になった。今回も冬トマトの栽培記録を撮影するためにABCからゴパルが下山してきた。
いつものルネサンスホテルに入ってチェックインし、いつもの角部屋の鍵を受け取る。すっかり顔馴染みになった男スタッフから手紙や小包を受け取り、チップを渡す。
そこへ協会長が顔を出してやってきた。ゴパルに合掌して挨拶をしてから、少し気の毒そうな表情になる。
「こんにちは、ゴパル先生。まだアンナプルナ街道では雨が強そうですね」
ゴパルがレインウェアのズボンを見下ろして頭をかいた。泥跳ねが結構な数で付いている。
「これでも雨の勢いは弱まってきているんですけれどね……ポカラも相変わらず雨続きですか?」
協会長がロビーの外に視線を移した。
これまた泥だらけになっているジプシーが、レイクサイドからゆっくりと走ってくるのが見える。運転しているのはカルパナだろう。
「弱まってきていますよ。水文気象部の気象予報局によりますと、来週から晴れるという予報を出しています。そろそろ雨期も終わりますね。それよりもゴパル先生、カルパナさんが来たようですよ」
ゴパルもこちらへ走ってくるジプシーに気がついたようだ。
「あっ。部屋に荷物を置いてきますっ」
いつもの男スタッフからチヤを受け取って、それをすすりながら二階へ駆け上っていった。
部屋で速攻で汗を流して、着替えてから階段を駆け下りてきたゴパルだ。
既にカルパナがロビーのソファーに腰かけてチヤ休憩をしているのを見つけて、合掌して挨拶をしながら謝った。
「こんにちは、カルパナさん。すいません、遅れてしまいました」
カルパナがニッコリと微笑んで立ち上がる。彼女は半袖の野良着版サルワールカミーズ姿だ。雨が降っているためかストールを肩にかけていないので、普段着の印象がかなり強まっている。
「この雨でレイクサイドやダムサイドが閑散としていましたので、予想よりも早く着いてしまいました。牛も湖畔の草原に集まっているようで、道にはあまり居ませんでしたよ」
パメまではカルパナが運転するジプシーで行く事になった。助手席に座って一応シートベルトをつけたゴパルが、傘を抱いてフロンドガラス越しに空を見上げている。ちなみに傘の補修はまだしていない。
「わー……雨がさらに強くなってきましたね。トマトくらいしか撮影できないかな」
カルパナがモーターを起動させた。アクセルを踏むと、滑る様に車が走り出す。電気自動車なので実に静かな発車だ。
「そうですね……トマトはまだ苗を定植していません。ですので、今回は撮影しなくても構わないと思いますよ」
カルパナによると、今は畑の準備をした段階らしい。千平米あたり土ボカシを三トン、生ゴミボカシを五百キロ撒いて、KL培養液を水で五百倍に薄めた液をかけて耕した所だという説明だった。
ゴパルが軽く腕を組んで考えた。
「……うーん。土の状態を見たいので、やはりトマト畑に行ってみたいと思います。雨降りで道も泥だらけですが、案内をお願いできますか?」
カルパナが穏やかに微笑んだ。
「はい」
パメでは種苗店に車を停めて、そこから傘をさして歩いて段々畑に向かった。雨は小降りになっていたのだが、雷鳴が鳴り響いている。畦道も泥だらけで、傾斜がある場所ではちょっとした沢になっていた。
そんな道を、慣れた足取りでヒョイヒョイ上っていく二人である。
トマト畑に到着したゴパルがスマホで撮影をし、その後で座って、トマトの株元の土を掘って手に取った。ようやく学者らしい表情になる。
「団粒構造がこの雨でも崩れていないですね。凄いな。水たまりも生じていませんし、かなり良好な水はけです。なるほど、こういった土壌環境でしたら雨が多いポカラでもトマト栽培ができますね」
団粒構造というのは、粘土や砂といった土の粒子が、有機物と土壌微生物の作用で玉状になっている状態を指す。
土壌中にこの構造が発達すると、隙間が多くなるので空気や水が深くまで行き来しやすくなる。根が酸欠になりにくくなるので、作物の健康状態が良好に維持されるという効果が期待できるのだ。
カルパナがニコニコしながら、傘をゴパルに寄せた。
「有機肥料をたくさん使えるようになったおかげです。堆肥よりも生ゴミボカシを使った方が、良い出来の土になっている感じですね」
その後は、自家採種を始めたズッキーニの畑や、タマネギの苗床にする予定の畑を見て回った。
タマネギ苗床では、今は千平米あたり生ゴミボカシを二百キロほど投入して、KL培養液を水で五百倍に薄めた液を散布した段階だった。
丁寧に耕された平畝を網柵の外から眺めながら、カルパナが補足した。
「タマネギの種は、二週間後に蒔く予定にしています。今やってしまうと、雨で流されてしまいますので」
畑の畦道が沢になっているので、素直に納得するゴパルである。
「雨期明け前後になるのかな。天気予報が当たる事を祈っていますよ」
今回も、ナウダンダで栽培されている桃園には行けなかった。カルパナが申し訳なさそうにして、作業内容を話してくれた。
「白桃と黄桃は、収穫が始まりました。スモモも始まっています。今年も病虫害の発生は許容範囲内ですね」
話していくうちに、表情が明るくなっていく。
「KLと光合成細菌、土ボカシを使うようになって、桃やスモモの質が良くなったような気がします。大バナナと赤パパイヤも良好ですね。これも全てゴパル先生が関わってくれたおかげです」
ゴパルが頭をかいて照れている。
「私は農業素人ですので、あまり役に立っていませんよ。使い方を開発したのはカルパナさんです」
カルパナの反応を見ながら、ゴパルが軽く肩をすくめて微笑んだ。
「正直な感想ですが、私もこんなに効くとは予想していませんでした。普通の微生物の集まりなんですけれどね……不思議なものです」
これ以上の巡回は、雨が激しくなってきたので中止する事にしたゴパルであった。かなり足元が滑って危うくなってきている。ここで転んでしまう訳にはいかない。行きとは逆に、慎重に畦道を下りていく。
そんな大真面目のゴパルを後ろから眺めながら、カルパナが何か思い出したようだ。彼女の足取りは軽快である。
「ゴパル先生。バルシヤ養鶏ですが、早速フォワグラとかキャナールの生産用に育てているガチョウや鴨で、KLの効果が出てきたそうですよ」
まず最初に現れた効果は、悪臭の軽減だったらしい。これはゴパルも想定していたようだ。普通にうなずいて聞いている。
しかし、続いてカルパナが知らせた報告には、さすがに足を止めて驚いた表情になった。
「へ? 死亡率が五割を切ったんですか。計測ミスとかじゃなくて? わわっ」
危うく足を泥で滑らせて、転びかけるゴパルである。とっさに畦道の草にしがみついて事なきを得た。
カルパナが手を差し伸べて、ゴパルを立ち上がらせ微笑む。
「正確な数字は、まだ出していないそうです。羽数が多いですので。今の所はバルシヤ社長さんの感覚ですね」
死亡率だが、通常では六割に達する農家が多いのが現状だ。
フォワグラやキャナール用に選抜されたガチョウや鴨の若鳥は、最初に十五日間ほど集中的に餌と水が与えられる。
この期間に丈夫な胃腸と内臓をつくるのだが、死亡率も高くなる。生き残ったガチョウや鴨は、その後六週間ほどかけて餌を食べ続けさせる。
ゴパルが無事に立ち上がって、ほっと一息ついた。
「ありがとうございます、カルパナさん。助かりました。しかし、死亡率が一割も減ったら大喜びでしょうね。フォワグラがその分安くなると、私も嬉しいのですが」
カルパナが微笑みながら小首をかしげた。
「それはどうでしょう。フォワグラやキャナールの需要が大きくて、供給が全然追いついていないとサビちゃんがぼやいていましたよ」




