クリシュナ生誕祭
翌週になり、ゴパルが再びポカラへ下りてきた。相変わらずの雨模様なのだが、すっかり慣れている様子だ。
ルネサンスホテルに入ってチェックインし、いつもの男スタッフから留守中に届いた手紙や小包を受け取る。
ゴパルがチップを支払ってから、ロビーの壁に掛けられている大型のテレビを見た。いつもは英語放送を流しているのだが、今日はクリシュナ伝説の映画が英語字幕で映し出されていた。
思わず小首をかしげるゴパルに、協会長が合掌して挨拶をしながら受付けカウンターに顔を出した。
「こんにちは、ゴパル先生。毎日大雨で大変ですね。明日はクリシュナ生誕祭ですので、関連映画を流しているんですよ」
ようやく気がつくゴパルだ。協会長に合掌して挨拶を返してから、ポンと両手を合わせた。
「あっ。その日ですか。ABCやアンナプルナ街道ではやっていませんでしたので、忘れていました」
協会長が穏やかに笑いながらうなずいた。
「ネワール族のお祭りですからね。ここダムサイド地区もネワール族の町がないので、していません。ポカラの旧市街では盛んにやっていますよ」
なるほど、映画を流しているのはそのお祭りへ観光客を誘導するためのものか……と納得したゴパルだ。ゴパルはスヌワール族なので、この祭りの当事者ではない。
協会長がニコニコしながら話を切り替えた。
「ゴパル先生。ドローン輸送の実験を、ポカラとジョムソンの間でも行う事になりました。ナヤプルからABCまでの飛行実験が成功したので、弾みがついたようです」
準天頂衛星の位置によっては飛べなくなるのだが、それでも期待していると協会長が話す。ゴパルは話を聞きながら、内心でディーパク助手に同情しているようだが……
「この実験が成功すれば、一ヶ月後に商業飛行の試験も行うそうですよ。これで雨期でも安心です」
実際はABCでゴパルが苦労しているように、悪天候になると電波状態が悪化して通信が満足にできなくなる……とりあえず今は、黙って聞く事にしたゴパルであった。
(ディーパクさんやスルヤ教授は専門家だしね。私が心配している事は対処済みでしょ)
二階のいつもの角部屋に入って軽く汗を流し、着替えてからスマホでメールをチェックする。予想通り、クシュ教授からいくつか来ていた。それらを流し読みして、頭をかく。
(うへえ……経費報告書に不備があるから書き直せって……後にしよう。うん)
そっとスマホのメールアプリを終了するゴパルである。
カルパナからチャットが入り、今から車で迎えに行くと知らせてきた。ゴパルが軽く背伸びをしてから、雨が降り続いている窓の外を見た。
当然のようにアンナプルナ連峰は雨雲の中に隠れていて見えない。それどころか、フェワ湖の対岸も雨に煙っている。
(そういえば傘に穴が開いていたような気が……後で修繕しておこうっと)
ロビーに降りると、欧米からきた観光客に協会長がクリシュナ生誕祭のイベント情報を話していた。映画上映の効果があったようだ。ゴパルがソファーに腰かけて、協会長の話を聞く。
(実は、私もあまりネワール族の祭りには詳しくないんだよね……タカリ族なのに詳しいなんて、さすがだな)
クリシュナ生誕祭では、ラーケと呼ばれる羅刹――魔物とか鬼とか悪霊とかそういう類である――の扮装をした人が町で踊る。
各家庭では、このラーケを家に招いて踊ってもらう。ラーケは強い羅刹なので、家の中に潜んでいるザコ悪霊を追い払ってくれる……らしい。
さて、どうして生誕祭に羅刹が出てくるのかというと、この羅刹はクリシュナの父親の上司だからだ。
この上司はマトゥラー国王のカンサ王と呼ばれ、悪政をしいた王として有名である。クリシュナの父親は、このカンサ王の下で大臣を務めていた。
クリシュナが産まれた日、どこぞの仙人が将来を占った。その占いによると、成長したクリシュナがカンサ王を殺すだろうという事だった。
これを真に受けたカンサ王が、次々に刺客や魔神を送りつけて、クリシュナを暗殺しようとする。しかし、その全てが失敗してしまった。そして、成長したクリシュナによって本当に殺されてオシマイ……という話である。諸悪の根源のどこぞの仙人がどうなったのかは不明だ。
カンサ王だが、死んでも許される事はなかった。羅刹ラーケに成り下がり、今では各家庭で踊って厄払いの芸をする仕事をしている。
協会長が欧米からの観光客に話しながら、軽く微笑んだ。
「ですが、踊って厄払いをすれば、その家からお駄賃がもらえます。今は悪王ではありませんね。善行をして徳を積む良い羅刹です」
協会長はネワール族ではないので、説明に多少の脚色が混じっているのだろうなあ……と想像したが素直に聞くゴパルだ。
観光客達が傘をさして雨の中出かけていくのを見送ってから、協会長に聞いてみる。
「ラビン協会長さん。クリシュナって、その当時は産まれたばかりですよね。どうやって暗殺を防いだのでしょう?」
協会長が穏やかに微笑んで答えた。
「カンサ王は悪王で、誰からも信用されていませんからね。刺客は前金だけいただいて逃げたのだと思いますよ。もし依頼通りに暗殺すれば、大臣の子供を殺した犯人として指名手配になります。拷問死する道しかありません」
妙に説得力を感じるゴパルだ。
ちなみに、このクリシュナ伝説は史実ではない。カンサ王は実在の人物なのだが、これもかなりの脚色がついている。
協会長が話を続けた。
「魔神の場合は、そうもいきません。ですのでクリシュナと賭け事をして、あえて負けたそうですね。勝負は挑んでいるのですから、契約違反にはなりません」
言葉も満足に話せない乳児のクリシュナを相手にして、どんな賭け事をしたのかは言及しない協会長であった。しかし、ゴパルはこれにも妙に説得力を感じている様子である。
コホンと小さく咳払いをした協会長が、真面目な表情になった。からかい過ぎたと感じたのだろう。
「ゴパル先生は賭け事に向いていない性格ですから、ギャンブルには手を出さない方が良いと思いますよ。ポカラにも昔、プロの賭博人が居りました」
そう話しながら、遠い目をする。
「彼はリゾートホテルの支配人にまで上り詰めたのですが、結局イカサマがばれて逮捕されてしまいました」
ポカラにはカジノができたのだが、それ関連の話かな? と想像するゴパルであった。
そんな会話をしている二人の所に、サビーナがコックコート姿でやって来た。既にジト目になっている。
「何を話してるのよ。カルちゃんも、ドン引きしてるじゃないの」
いつの間にか、カルパナがロビーに来ていた。彼女もサビーナと同じようなジト目になっている。
「ゴパル先生……賭け事はいけませんよ」
慌てて弁解するゴパルだ。隣の協会長は実に楽しそうに含み笑いをしながら、速歩きで逃げていった。
「カ、カルパナさん、クリシュナ生誕祭の話題をしてただけですっ。その羅刹が賭博で捕まって、支配人に上り詰めて魔神を送って踊りのバイトをして……ええと、すいません」
カルパナがクスクスと笑い始めた。
「すいません、からかい過ぎましたね。クリシュナ生誕祭は、私達バフンやチェトリ階級でも別の方法でお祝いしますので、由来は知っていますよ」
サビーナはあからさまに大笑いをしている。
「あはは。素敵なリアクションだったわね。後でレカっちの所で、お菓子作りとちょっとした料理をつくるから来なさい。山から下りて小腹が空いているでしょ」
そう言って、ゴパルの背中を容赦なくバンバン叩く。当然のように咳き込むゴパルであった。




