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アンナプルナ小鳩  作者: あかあかや
ポカラは雨がよく降るんだよね編
947/1133

隠者の庵

 神無し月であるサラワン月では、寺院での祭祀が少なくなる。ナーガパンチャミやクリシュナ神の誕生日を祝う程度だ。そのため、パメの家に泊まる巡礼客も少ない。

 今日もポカラは雨降りなのだが、パメの家の門前にヒンズー教の苦行者がやって来た。雨傘をさしている。その彼が遠慮なく門をガタガタ揺らして、ヒンディー語で喜捨を求めてきた。

 ナビンの嫁のブミカが気づいて、真鍮製の盆に生米と干飯チューラ、バナナを乗せて、十ルピー札をバナナの下に挟んだ。それを苦行者に持って行って、門越しに渡す。

「雨の中大変だね。チヤでも飲んでいくかい?」


 苦行者が当然の権利という態度で喜捨を受け取り、手持ちの粗末な肩掛けの布製カバンに押し込んだ。盆をブミカに返す。

「我は修行を続けておる身だ。この雨に濡れる事も修行の一つとなろう。しかし、チヤであれば飲んでやらん事もない。さっさと寄越せ」

 なお、雨傘をさしているので雨には濡れていない。

 苦行者が話しているのはヒンディー語なのだが、ブミカは理解できている様子だ。ニッコリと笑って門を開けた。

「それじゃあ、中に入って。すぐにチヤを持ってきてあげるよ」


 パメの家の軒先で、雨だれを見ながら苦行者とブミカ、それに数名の使用人達がチヤ休憩をして談笑している。そこへカルパナが弁当箱を持って、家の中から出てきた。バイクに乗るのでレインウェア姿だ。足元はサンダルだが。

 苦行者の顔を見て、穏やかに微笑む。

「あら。苦行者さまですね。これから隠者さまの庵にお弁当を届けに行くのですが、ご一緒しませんか?」

 苦行者が真面目で厳格な表情に戻って、威厳たっぷりの口調で答えた。

「隠遁しているヤツの顔など見たくもないわい。フン、少々長居をし過ぎてしまった。我は修行に戻る。チヤと喜捨は、次回も用意しておけ。ではな」


 そう言って、空になったチヤのグラスを足元に置いて、スタスタと歩き去っていった。門の外に出てから、おもむろに雨傘を開いている。

 カルパナも使用人が押してきたバイクのエンジンを始動させた。ヘルメットを被ってからブミカに顔を向ける。

「それでは、隠者さまの庵へ行ってきますね」

 ブミカがグラスを片付けながらニッコリと微笑んだ。

「はい。行ってらっしゃいませ」


 隠者の庵までの道は土道だ。そのため、ちょっとした丘の上に建つ庵に到着する頃には、バイクのタイヤが泥だらけになっていた。レインウェアのズボンやサンダルにも泥が付いているので、庵の手前にある水場で足を軽く洗う。

 庵の周囲は牧草地になっていて、今も十数頭の乳牛がのんびりと草を食んでいるのが見える。ただ、吸血ヒルも元気なようで、数頭ほど牛の足元が赤くなっているようだが。

 牛の他には山羊の群れも放牧されていた。牧童が退屈そうにあくびをして、庵を取り囲む木々の下で雨宿りをしている。

 庵のすぐそばには、ナウダンダから流れてくる川があり、その水量をチラリと見て確認するカルパナだ。少々濁っているが、洪水になるような水量ではない。ナウダンダの集落は雨に煙っていて、庵からでは見えなかった。

「さて、お弁当を届けなくちゃね」


 この時期は庵も閑散としていた。聖者や苦行者はもちろん居ないのだが、修験者の人数も減っている。今日は二人だけだった。

 その彼らに弁当箱を渡していると、隠者が大あくびをしながら寝床から出てきた。そのまま四つん這いで進み、庵の縁側に出て座った。

「おお。カルパナか。いつもご苦労だな」


 カルパナも座り、隠者に弁当箱を渡して困ったような笑顔を浮かべた。

「今まで眠っていたのですか、隠者さま。ホテル協会は今日も大忙しですよ。私も段々畑の見回りをして、土砂崩れが起きないかどうか調べています」

 隠者が弁当箱の中身を確認して、琥珀色をした鋭い瞳を若干和らげた。弁当は後で食べるつもりのようで、フタをして脇に置く。

「隠者は表には出ないものだぞ。だからこそ隠者足り得るのだ」

……などと言い訳する。

「そもそもだな、組織というものは機能不全を起こしやすい性質を有しておるものだ」

 そう言って、唐突に説教を始めた。カルパナに指摘されたのでカチンときたのかもしれない。カルパナもこうなる事は予想していたらしく、穏やかな表情のままで聞き入っている。


 隠者によると、組織を壊すのは容易らしい。

 会議の参加者が五人以上になると、崩壊の兆候が現れると言う。事業をことごとく慎重に完璧に、命令系統を厳守して、責任者を常に明確にする事で、たやすく機能不全に陥ると説いた。

「前回の会議で決まった事を蒸し返して、再討議するとかもだな。議事録と称する紙切れを大量に書く事も含まれる。事業計画を承認する偉い人を増やしても陥るものだ。大声で長々と話すヤツが増えてもそうなる」

 カルパナが目を点にした。

「ほとんど全部、当てはまっています」

 ドヤ顔になる隠者だ。

「気をつける事だな、カルパナ。企業や営利団体というのは、金儲けをするための組織だ。人の醜い欲望を実現するための組織だ」

 言いたい放題である。

「そんな土台に立つ者が公明正大な行為をしたら、自壊するのがオチだよ。公明正大なんてモノは、政府や警察に丸投げしておけば良い」

 ヒンズー教の聖者であれば、まず絶対に言わないような話を平然とする隠者である。


 カルパナも半分以上は聞かなかった事にしたようだ。

「ラビン協会長さんも忙しそうですね。隠者さまの言葉が、何かの役に立つかもしれませんし、後で伝えておきますね」

 隠者が穏やかな視線をダムサイド方面に向けた。

「敵は意識すれば防衛できるが、友人の裏切りについては難しい。それこそ、神に祈って守ってもらうしか術はないものだ。友人が多いヤツほど苦労するものさ。事業が大きくなるほど、友人も増えていくからな」


 そう言ってから何か思い出したようだ。膝をポンと叩いてカルパナを見つめた。

「そういえば、日本人のヤマとかいう厄介者はどうなったかね? 転落した車をアンバルが回収したのは知っているのだが」

 カルパナが軽く肩をすくめて、遠慮気味に答えた。ヤマというのは、ヒンズー教やチベット仏教でいう所の死神と同じ発音だ。

「間もなく、代わりの車を首都から調達するそうですよ。ですが、二度も大破させていますので、少し手続きの時間がかかるそうです。その間は、私と同じ百二十五CCのバイクを使って仕事をすると、ラビン協会長さんから聞きました」

 隠者が小さくため息をついて笑った。

「やはり、東からの厄介事というのはヤマだったか」


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